第39話 江戸の揚水
僕たちの頭の中、僕たちの時間で荒川に掛かっている水管橋が、無意識に刷り込まれていたようだ。
つまり、頭上遥かに見上げる高さの、鉄製の水管橋。
そしてそれだけじゃなく、通潤橋とかの江戸の構築物もみんな高さがあったからね。その高さへの刷り込みが、訂正されることなく僕たちの考えを縛っていたんだ。
それに僕たちは、シリアの水車の現物を見ているわけじゃない。だから、20mという数値が実感として伴っていなかった。ただただ、高い位置で水を運ぶってイメージだけが先行していたし、そういうものと思い込んでいた。
このあたりは、頭の中で考えているだけじゃダメだったなぁ。
ってか、時間整備課時間改善四係の僕たちは、日本地域が担当だから、シリアに行くことはないんだよ。そういう意味じゃ、沢井氏(仮)の方がよほど世界中のいろいろ見ているだろうな。なんせ、あの生宝氏の運転手なんだから。
ともかく、どうやら僕たちに求められているのはそんな大規模のものじゃないらしい。
揚水の高さを1mから2mだけでいいとなれば、江戸の既存の技術でなんとかなるんじゃないのかな? それに、前に検討したけれど、運ぶ水量自体も案外少ないんだ。
ああ、沢井氏(仮)の「江戸の揚水技術をまずは押さえる必要がある」って言葉の意味が、今、飲み込めたよ。
僕、ふたたび情報端末を袂で隠して検索を続ける。
そうか、江戸という時代、水田農業が一番の重要事だもんね。揚水技術もあるわ。
で、出てきたのが、竜骨車と踏車。
竜骨車は紀元前から中国で使われていて、見た目はベルトコンベアみたいな感じだ。
で、木製のベルトコンベアのごつごつ感を竜の背骨に例えたんだな。
ただ、上にものを乗せるのではなく、下側で樋の水を掻き揚げるんだな。ただ、いくらなんでも木製のベルトコンベアってのは無理があって、あっという間に力のかかる部分がすり減ったらしい。耐久性に難があるってのは、困る一方で、揚水の高さは稼げたらしい。
一方、踏車は水車みたいなものの上に人間か乗って、そこで歩き踏み込むことで揚水の車を回す仕組みだ。水車が水流からエネルギーを取り出すのに対して、踏車は人力のエネルギーで揚水の水流を生む。力の方向としては真逆だけど、システム自体はよく似ている。こちらは、今からちょっと前、1661年から1672年の間に開発されている。
つまり、1687年の江戸で、どちらを使っても問題はないってことだ。
こちらは構造が単純な分強度はあるけど、揚水高さを稼ぐためには、車の直径を大きくするしかない。で、そうなると、人間の体重では回らなくなってしまうから、結局揚水の高さは稼げない。
そこまで是田と見た上で……。
「とりあえず、高低差は2mをクリア」
「水量は毎分10リットルってところでどうだろう」
と、口々に僕たちは答える。これは先程の沢井氏(仮)の「そもそも何メートル揚水するつもりなんです?」という問いに対するものだ。
前に、防災備蓄として水を用意するときは、1日3リットルが基本ということを僕たちは知っている。
でもって、飲料水以外の水、隅田川沿岸やその中洲にはやたらと豊富にあるんだ。だから、それこそ飲料水だけが送れればいいと僕たちは考えている。
で、そうなると、1000人相手でも、1日たった3tで済んでしまう。
1日3tの水は、毎分2リットル強の輸送ということになる。ただ、これはあまりにもぎりぎりだ。
だからその5倍を僕は想定した。
同じように是田も、必要高さの倍を想定したのだろう。
それにね、僕たちの作った上水道がすぐれたものであれば、おのずから江戸の人たちがその10倍の規模のものを作ってくれるはずだよ。僕たちの作るものが、江戸で永劫に主軸であり続ける必要はまったくないんだ。
人間とは、それを作るのが可能だと知れば、必ず拡大再生産をしてくれるものなのだから。
「量はともかく、2mの高さは案外厳しいかもですねぇ」
と、沢井氏(仮)が応じる。
まぁ、たしかにそれは言えている。
調べた中では、踏車だと1分あたり800リットルぐらいまでいく。となれば毎分10リットルは可能だと言えるな。
その一方で、踏車の最大のものは直径5尺5寸しかない。つまり、よくて70cmくらいしか水を上げられないんだ。そうなると2mともなれば、3段重ねるしかないし、常時3人が作業しないといけなくなる。
まして、飲料水の上を人が跨いで、だ。これって、嫌がる人もいるんじゃないかな。
その一方で竜骨車だと2m揚げることができるし、水量も1分あたり1000リットルもいく。
ただ、相応の労力が必要となるし、なによりそもそも機械的強度が低いのが致命的だ。ライフラインを支える機械が脆弱って、困るし悲しいよな。
僕たちの発想で摩耗に弱い部分を鉄とかに置き換えるにしても、この時代にステンレスはない。つまり、錆びてアウトだろう。
「それだけでなく、また大きな問題を思いつきました」
……沢井氏(仮)、もう、思いつかないでくれよ。
で、それはなんなん?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます