第40話 人力しかないのか……


 沢井氏(仮)、思い至ったという大きな問題を語る。

「揚水ポイントは、どうしたって一石橋あたりでしょうけど、是田さんたち、そこで一番得やすい動力は水車と思っているんじゃないですか?

 でも、あのあたりの水流に流速があるとは思えないんですよ。

 結局、人力しかないんじゃないでしょうか?」

 ……あ。


 海との標高差がないということは、一石橋あたりの堀の流速も期待できないということだ。揚水するための竜骨車にしても踏車にしても、人力が前提の機械だ。それを安定したライフラインの維持のために機械化するとしたら、やはり水車しかないと思っていた。

 その腹づもりの計画もダメなのかよ。


「そうは言っても、川ってのは流れているもんだろ。

 遅いなら遅いなりに……」

 是田が反論を試みる。

「遅いどころか、逆流してますよ」

「逆流?」

 問い返す声を上げながら、僕もそこに思い至っていた。


 そう、問題は潮汐だ。

 満潮のときは海水が隅田川を遡る。干潮のときは、遅いと言ってもそこそこの流速にはなるだろう。で、ここに水車を設置しても、回らない時間帯がかなりあって、あまつさえ逆回転すらしかねないということだ。


 水車が逆回転したら、竜骨車や踏車に接続した動軸も逆回転になる。水が揚がることなんかなくなってしまう。小麦とかを粉にする石臼でくなんていう、本来の働きすらできなくなる。


 江戸湾は、まだそれほど埋め立てられていない。

 僕たちの時間では内陸のイメージすらある浅草あたりでだって、海苔が採れていた。

 つまり、潮汐の影響は、僕たちの時代で考えるものより遥かに大きいということだ。一石橋あたりで、その影響を無視できるはずがない。


 それでもさ、整備された掘の石垣の上、つまり通常の生活空間なら潮がくることはない。

 でも、水車は水面と同じ高さに置かねば意味がない。こんな潮汐のある水面に水車なんか設置したら逆回転どころか、大潮のときには水車小屋自体が屋根まで水没しちゃいかねないぞ。

 そもそもこれじゃ、竜骨車や踏車だって置けないんじゃ……。



 僕と是田、あまりのことに打ち拉がれてしまって声も出ない。

 人力で揚水して水を運ぶというのであれば、現状とあまりに変わらないからだ。それなら、今の船輸送の方がマシってことにもなりかねない。

 未来から来た僕たちが、ドヤ顔できる要素はまったくなくなってしまった。


 沢井氏(仮)すら、盃を舐める顔が不味そうに歪んでいる。きっと、さぞや苦い酒に違いない。

 僕もお行儀悪く、一本箸て芋の煮っころがしを突き刺して口に運ぶけど、冷めきってしまったそれは予想外に突慳貪な味だった。煮汁に出汁が入ってないか、極端に薄いんだろう。

 是田もメザシの最後の1匹に手を出して、思いっきり微妙な顔でかじっている。

 なんてこった、だ。



 そのまま僕たち、無言のまま支払いを済ませて店を出た。

 沢井氏(仮)も、店を出るなりそそくさと夜の町に消えた。

 彼も彼なりにがっかりしたんだろう。

 話がうまくいけば、僕たちをもっと茹でガエルにできた。なのに、これじゃあね。きっと、「神も仏もないものか」なんて思っているに違いない。


 僕たちは長屋に帰り、せめてもと鍋に湯を沸かしてそれで手ぬぐいを絞って体を拭いた。

 くそ、これだけのことに、江戸では1時間位以上の時間がかかるんだ。蛇口をひねればお湯が出る、僕たちの時間が懐かしいよ。


 布団に潜り込むと、そう時間も経っていないのに是田のいびきが聞こえる。

 いいなぁ、のんきに寝られて。


 おひささんの旦那のご母堂が、幕府の役人に手紙を書いてくれている。

 だというのに、水道の布設の具体的な方法案がまったくなくなってしまった。このタイミングで返事が来て、「前向きに検討するから、具体的な話をしに来い」なんて言われたら、一気に詰んでしまう。


 暗い中、僕は見えもしない天上を見上げて、まんじりともできなかった。

 ああ、どうしたらいいんだ……。



 容赦なく翌朝はきた。

 そして、容赦なく佳苗ちゃんが僕たちを叩き起こしにくる。

 その容赦の無さが辛い。

 朝ごはんは美味しいのに、仕事がまったく進んでいないのが辛い。

 むしろ、沢井氏(仮)の方が、あきらめがつくだけ順応できているかもしれない。でも、僕たちは「水道ができないと自分たちの時間に帰れないんじゃ?」って疑問と、それでもできれば帰れるんだという希望の板挟みになっている。


 佳苗ちゃん、僕たちのどんよりした顔を見るのが辛いのか、そそくさと朝食の食器を下げて、僕たちを2人きりにする。

 僕たち、今日もミカンを仕入れに行く予定だ。

 そのためには一度「はずれ屋」まで行って、背負いの大篭を回収しないとだ。


 ミカンを仕入れれば稼げるのはわかっていても、水道を引く方法がなくて、その稼いだ金の使い途が見つからない。なんとも張り合いがなくて気が重いけど、行かないわけにもいかないよね。

 僕たち、隣のおひささん一家に挨拶して、仕方なく長屋を出る。

 ひろちゃんの無邪気な笑顔でさえ、今の僕たちにとってはダメージの源だよ。



 昼間の物見遊山に来た人たちとは違う、朝のせかせかとした歩き方の人たちの中を縫って、「はずれ屋」に着いた。

 大篭を回収するため、屋台を囲んでいる葦簀に手を掛けて、僕たちは泣き声に気がついた……。

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