第56話 死の重さ


 もう、「ふーん」とか「ほー」とかしか言葉が出ないまま、佳苗ちゃんの話を聞いていたら、業を煮やしたようにおひささんが割り込んできた。

「なにはともあれ、目太様、比古様、ありがとうございます。

 あの場で身を挺してくださらなかったら、我が夫は間違いなくここでこうして歩いてはいられなかったでしょう。

 幾重にも重ねてお礼を……」

「それを言ったら、佳苗ちゃんが来てくれなかったら、全員死んでたし」

「うん。

 しかも、今の佳苗ちゃんの話だと、おひささんがいなくても危なかったし」

「いや、だから、そういうことではなく……」

 僕と是田、どっちかというと、おひささんの旦那を身を挺して助けたというより、なにもできなかったという思いの方が強いんだよね。


 ……うーん、まあ、おひささんの言いたいことはわかるんだよ、僕だって。

 でも、そもそも論を言えば、僕たちの上水道計画がなければ、おひささんの旦那だってここまで危ない目にはあわなかったとも思うんだ。


「目太殿、比古殿」

「はい、なんでしょ?」

 うーむ、今度は旦那が話しだしたぞ。


「今、仰ること、仰っしゃりたいことはよくわかり申す。

 ただ、だからと言って、『なにもできなかった』というのはありえませぬ。

 世のどれほどの者が、白刃の前に己の身を差し出せましょうや?

 過程はともかく、それによって我が生命が長らえたのは事実。それは、我が覚悟とはまた別の話でござりましょうし、その勇は誇って良いものかと思いまするぞ」

 うーん、まぁ、そう言われるとそれはそうなんだけどね。


「先ほどは、牧野様とそれがし、あえて話しませなんだ。

 我が身が斬られたときに、牧野様に累が及ばぬように、でござる。ですが、もはや仕官も含め、そのような小さきこと、すべてどうでもいいと思えており申す。

 目太殿、比古殿。

 この我が生命、お好きに使ってくだされ。

 一介の浪人、なにほどのことができるとは思えませぬが、すべてを投げ打つ所存にて……」

 うー、そう言われると、全身がこそばゆいぞ。


「時間の流れを変えない」という、職業意識がないとは言えないよ。でも、それよりも、もっと単純に「人殺しを止めたい」と、僕からしたら、そして是田からしても、ただそれだけのことだったんだけどねぇ。


 たぶん、江戸の人たちにとっては、死はとても身近なものなんだと思う。盲腸炎に罹っただけで、苦しみ抜いて死ぬ。物取りに襲われて死ぬ。それこそ、朝家を出て、死んで帰るなんてのも当たり前にあることなんだろう。

 だから、身近に近寄ってきた死に対して、簡単に諦めちゃうんだ。良い悪いの問題じゃないし、江戸の人が死が悲しくないというわけでもないぞ。

 死なんて滅多に目にしない僕たちとは、その重さが違うという、それだけの話だ。

 それが、こんな結果になるとはね。



「近藤様は、1つの藩の会計を任されていたんですよね」

 ここで、是田が聞いた。

 なんの確認だろう?

 まぁ、話を変えたかったというのが一番の理由だろうけれど。


「とんでもない。

 あたり前のことながら、そのようなことは無理でござる。

 藩の財政は、年貢の米の管理、それを売りし金額の管理から始まり、他にも専売物などの収入もあり、その記録だけでも10人近くを要し申す。まぁ、一年を通してのものではござらぬが。

 出費に至っては、国許、江戸屋敷、大阪の駐在で立地も異なり申しますし、さらに細目もそれぞれによって異なりますゆえに、収入以上にかなりの人数が必要となり申す」

 ああ、そりゃそうだ。

 財務省の仕事を1人でできるはずはないよね。

 で、是田は、近藤の旦那になにをさせたくて、こんなことを聞いたのだろう?


「近藤様。

 我々は牧野様のお屋敷で話したとおり、一石橋、銭瓶橋の先へ上水道を通さんと考えております。今回、一番の課題である上水の堀越は片付いたとは言え、その先はまったくの手つかずにございます。

 つきましては、上水を水槽船で渡したのちに、どこまで水道を伸ばしたらいくら掛かるという、予算書を作っていただくことはできませぬか?

 隅田川の西岸だけの場合、その先に水槽船を進め、佃島まで行った場合、さらに隅田画の東岸まで行った場合、と。

 我々は、『はずれ屋』売上を江戸の皆さまに還元するために、水槽船を作りたいとは思っておりますが、その先は江戸の皆さまに丸投げでございます。

 つきましては、江戸の豪商の方たちからのご助力を得るためにも、その先にいくら掛かるのの目安を出しておいた方が良かろうかと思うのでございます。

 さらに……」

 なるほどな。

 是田の意図はわかった。


 うちなんて、1日1両しか儲けられない弱小企業だ。

 1日100両なんて商人、この江戸にはごろごろいるだろう。その人たちも巻き込んでパトロンになってもらうためには、より良くできた予算書が必要なのはよくわかるよ。


 僕、思わず是田に親指を立てる。

 いい考えだって、そう伝えたかったんだ。

 予算は、積算基礎からきちんと積み立てないと、トータル額が出ない。そのあたりを、しっかり計算してくれる人がいるってのはありがたいよね。

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