第59話 甘酒と鰻の蒲焼き、柿とみかん
佳苗ちゃんが倒れた。
考えてみれば、無茶をしすぎていたんだ。
実の父を亡くしてこの時代のややこしい葬儀を喪主として取り仕切り、ということは、線香番でほとんど寝ていなかったってことだ。
そして、過去の借金と葬儀に掛かった費用を自分を売ることで払い、それから僕たちと一緒になってからも長距離を歩き、僕と是田の喧嘩を仲裁し、朝から晩まで立ちっぱなしで働きづめだった。それも、接客商売で笑顔を絶やすことなく。
夜だって、本当の意味では休めなかった。
だって、屋台の縁台でごろ寝だったんだ。近くの長屋を探してはいたけど、近場で即日入居って物件がなかったからだ。
精神的にも体力的にも、これはきつい。
いくら鍛えた身体であっても、ね。
そして、最後にこの騒ぎだ。
野次馬からの拍手を聞いて、心のなかで引っかかっていたことが解消されて、安心のあまり限界が来てしまったとしてもおかしくはない。
それにしても、危機に際してではなく、危機を片付けてから倒れるっての、佳苗ちゃんらしいって言えばらしい。これだからこその過労なんだろうな。
僕と是田は相談し、佳苗ちゃんをゆっくり寝かせるのがいいだろうって結論になった。2日も寝かせておけば、体力がある佳苗ちゃんだから、けろりと治るだろう。もちろん、滋養のあるものを鱈腹食べさせるけれど。
そのための資金に、僕たちはもう困っていないし。
高熱が出た佳苗ちゃんを背負い、僕はごく近くの
是田は店番で「はずれ屋」に残った。
是田じゃ佳苗ちゃんのかわりにはならないけれど、店員の若い女の子たちの指揮ならできるからね。
で、是田から、「佳苗ちゃんに手を出すなよ」って釘を刺されたけど、出すわけないだろっ。
もしも僕が押し倒そうったって、高熱でふらふらの佳苗ちゃんにだって、僕は勝てない。逆に、僕が勝てるほど酷くふらふらになってしまった佳苗ちゃんを襲ったとしたら、それは僕が人ではなくケダモノだってことだ。
それでもさ……。
ラブホの布団でも、衆人環視の屋台で寝ているよりはマシのはずだからね。値段の高い茶屋だったら、そう酷い布団だってこともないだろうし。
そう思って、できるだけ高級そうなところで、一番いい部屋は埋まっていたので、二番目にいい部屋を僕は押さえた。
案内の女の子の後に続いて佳苗ちゃんを背負ったまま階段を登り、二階、いや三階だな、ここは。この10日くらいで、ちっとは僕もたくましくなれたのかもしれない。
ってか、そういうことにしておいて。
佳苗ちゃんが軽いからだってツッコまれると、僕が情けなくなるからね。
案内の女の子が、「このお部屋でございます」って言って、窓の障子を開け放つ。
思わず僕、「おおっ」て声が出ちゃったよ。不忍池が一望できる、素晴らしく眺めがいい部屋だったんだ。
よく目を凝らせば、揃いのお仕着せで「はずれ屋」に水を運ぶ男たちが見える。水辺ってのは、ちょっと位置が高くなるだけでも、眺めが格段に良くなるもんだねぇ。
これは部屋代が高いはずだし、普通の宿場宿じゃなくてこういう種類の宿になるわけだ。
続き部屋の奥の間には、すでに大きめの赤い布団が敷いてあって、枕が2つ並べて置いてあった。それをため息交じりに眺めて僕、1つを放り出し、1つを真ん中に据える。
そして佳苗ちゃんを背からおろし、寝かしつけた。
それから、案内の宿の女の子に多めの代金と心付けを握らせて、甘酒と鰻の蒲焼きの出前を頼み、さらに柿とみかんを買ってきてくれるよう頼んだ。
さらにさらに、それでも腹が減っているようなら餅でもなんでも買ってやってくれと。そして、何かあったら広小路の「はずれ屋」まで知らせてくれ、と。
この時代の人は、慢性的なたんぱく質と脂質不足だからね。ビタミンB群も不足しているし。だから、脚気という病気が流行るわけで。
こんな状態で、ビタミンCだって足りているはずがない。きっと、足りているのは食物繊維だけだ。
甘酒と鰻の蒲焼きと柿かみかんなら、一気に足りない全部を摂ることができるだろうさ。あ、ちなみに、甘酒は夏のものだけど、江戸は分母が大きいからね。まだ売っているお店もある。それに、鰻の蒲焼きはまだ開かれていない。筒切りにして、串を打って焼いただけの代物だ。蒸しも入ってないしね。
まぁ、もしかしたらお粥とかの方が良いのかもしれないけれど、胃腸の丈夫な佳苗ちゃんだ。多少手荒でも、栄養補給してやればいいって、僕は考えたんだ。
佳苗ちゃんはよく寝ているようだ。
考えたら、佳苗ちゃんが布団で寝ているのって、何日ぶりなんだろう? 少なくとも10日ぶりだろうし、この20日間で2回目とかじゃないのかな?
しかも、薄ら寒くなっていくこの時期だというのに。
なんて可哀想なんだろう。
そして、それなのになんて強い娘なんだろう。あの大工の棟梁が言うとおりだよ。
僕、枕元で佳苗ちゃんの小さな顔を見つめて、思わず涙がこみ上げてくるのを感じた。
いけねぇ、いけねぇ。
こんな湿っぽいの、自分らしくないや。
さっさと戻ろう。
そう思って僕、佳苗ちゃんの肩まで布団を掛けてやって立ち上がった。
で、襖に手を掛けたところで視線を感じて振り返ると、佳苗ちゃんがぽっかりと目を開けて僕を見上げていた。
「ゆっくり休みなよ。
食べ物もいろいろ頼んだから、すぐに届く。しっかり食べてね」
そう声を掛ける。
仰向けの佳苗ちゃんの
僕、それを見て狼狽えてしまった。
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