第25話 「昆布を醤油で煮しめたもの」
「おはようございますっ」
晴れ晴れとした顔のおひささん。
そして佳苗ちゃん。
ひろちゃんも、火の横でにこにこと座っている。
本当にいい風景だ。
これで僕たちにも明日があるのなら、完璧なんだけどな。
「目太様、比古様、顔色が悪うございますが、どうなされましたか?」
おひささん、手を休めることなく僕たちに聞く。
「あ、あの、えっと、その……」
どう言ったらいいんだろう?
どう言ったら無難に、だけどきちんと理解してもらえるんだろう?
死刑になるからってヤケになってみんな話してしまったら、話されたおひささんにも迷惑が及ぶ。
僕、ただただ、狼狽えていた。
そして、僕の横で是田も、ただただ、狼狽えていた。
「しっかりなさいませ。
水汲み衆もじきに2回目の水を持って来ましょうし、女衆も来ますから、魂が抜けたような顔をなさっていると……」
ああ、そうか。
久しぶりの開店なのに、鍋に出汁が沸いているってことは、朝イチで水汲み衆は働いてくれたんだ。
あれ、佳苗ちゃん、いつになく顔がマジじゃん。
「なにかまた、やらかしましたね、目太様、比古様?」
「そ、そんなことはないよ。
てか、『また』ってなに?
わはははははは」
やだなぁ、佳苗ちゃん、そんなツッコまないでよ。
……って、どういうこと?
僕、気がついてしまった。
佳苗ちゃんが芥子係長になったとしたら、今の顛末知っているはずだよね。
なんで?
どうして?
なんで助けてくれない?
僕、さらに混乱した。
だって、僕たちが「佃煮」と大書してしまったのはあくまでミスだ。悪意はない。佳苗ちゃんは知らなくても、芥子係長は知っていたはずだ。一言、言ってくれても良かったことなのに。
こればかりは、「佳苗ちゃん=芥子係長」を知らない是田には相談できない。
僕、正直、物理的にも頭を抱えたい思いで悩んだ。
そこへ、「えっほえっほ」と水汲み部隊が到着。大きな水桶の表面に、波が立つているのが地に降ろされて平らになっていく。
次に彼らが出動するのは開店後だ。
ご苦労さま。
一休みしてくれ。
「おはようございます」
「ああ、おはようございます」
彼らに挨拶されて、僕たちも挨拶を返す。
いくらか新顔がいるとは言え、重労働の割に水汲み部隊の顔は変わっていない。おひささんが彼らには特別食を用意しているし、払いもいい。しかも揃いのお仕着せが鯔背だってんで、女にもモテるらしい。これは辞めないよね。
「目太様、比古様。
お悩みですね?」
その新顔にそう声を掛けられて、僕たちは返答に窮した。
なんなんだよ。
「そんなわかり易く動揺していいんですか?」
「わ、悪かったな。
余裕がないんだよ、今!」
僕、そう言い逃れる。
でも、その男、周りを見回して、声を低めて追撃してきた。
「わかってますよ。
『佃煮』でしょ。
でも幟を確認して見なさい。『伸煮』にも読めますから」
「……ど、どちらさまでしょうか?」
是田の声、笑っちゃうぐらいに震えていた。
もちろん、僕だって笑えはしないんだけれどさ。
「生宝のオペレーターですよ。
ここに島流しされて、毎日辛い思いをしてます」
「あ、それは……」
そう言えば、生宝氏の部下、水汲み部隊に入れられていると、芥子係長が前に言っていたよな。
完全に忘れていたよ。
思わず「あ、それは……」なんて間抜けな応えをしてしまったけれど、これは仕方ない。だって、「申し訳ない」なんて返すわけには行かないんだよ。
こっちに非があるって取られちゃいけないんだ。こういう職業意識は、土壇場でもなくならないねぇ。
「いえいえ、いいんですよ。
死刑になることに比べたら、どれほど良いことか。
まして、仕事は辛くても、江戸の町にはそれなりに良いこともありますからね」
「そうですか……」
「ただ、死ぬ前にもう一度親に詫びておきたいのと、もう一回だけでいいから、レアのステーキが食いたいものです」
なるほどなぁ。
どっちも実現できない望みだなぁ。
「『佃煮』を昨日の開店前に『伸煮』しておいたんですから、せめてどっちか配慮してくれませんかねぇ?」
「親御さんへの手紙を届けるか、ステーキを届けるかってこと?」
「そうです」
……即答できない。
僕たちは彼に救われたのは事実だ。
佃煮という言葉を使った人もいただろう。でも仮名が振ってないから「つくだに」ではなく「でんに」とか読んだ人もいたと思う。さらには彼の行為によって「のしに」とか「のべに」とか読んだ人はさらに多かっただろう。
結果的に、「つくだに」が江戸の人々の記憶に、また記録に残った可能性はほぼない。
醤油で煮た昆布なんてもの自体は、この時間の中の江戸でだって、そう飛び抜けて珍しいものじゃないはずだ。結局、名前なんて概念ありきのものだ。その概念がすでに成立しているんだから、人はその概念の中で情報を処理する。
つまり、江戸の人々の意識の中では、「これが佃煮だ」とアピールされなかった段階で「昆布を醤油で煮しめたもの」になってしまうんだ。
まして、江戸は地方から来たさまざまな移民の町だ。
どこかの田舎のどこかの「のべに」という単語を覚えるくらいなら、「昆布を醤油で煮しめたもの」の方が楽。
僕たちは救われたとは言える。
でも……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます