第44話 猪肉の味噌焼き


 帰りがけに、僕は箸を人数分「はずれ屋」のストックからちょろまかした。それから、ご近所の屋台から餅だけは買い足した。

 米を炊くのはたいへんだけと、餅なら世話ないからね。


 それから僕たちは連れ立って歩き出す。

 たどり着いた沢井氏(仮)の長屋、おひささんや佳苗ちゃんの暮らしている場所に比べて、あまりにいろいろが古く粗末だった。

 そして、沢井氏(仮)の暮らしている住処には、悲しいほどなんにもなかった。


 畳の上には、片隅に畳んだ布団が積み上げてあるのと、小さな手あぶりくらいの火鉢が1つ。それだけだ。

 土間の竈回りには細い薪といくらかの炭、備え付けの水瓶と鉄の鍋釜が1つずつ。棚には包丁と醤油と酒のびんと味噌のかめ。そして小さなまな板と小皿数枚と菜箸と箸。それだけだ。

 長屋の四畳半しかない広がりが、こんなに広大に見えるとはね。


 これって、貧乏だからってわけじゃないよね。

 ここで生活を始めようって気持ち、沢井氏(仮)にはそれ自体がないんだ。


「上がってくださいよ」

「あ、お邪魔します」

 僕たち、沢井氏(仮)にそう答えて上がり込む。


「ちょっと待っていてくださいね」

 そう言うと、沢井氏(仮)、火鉢と炭を抱えて出ていく。

 そして、1分も経たないうちに戻ってきた。


「隣に行って、お椀を借りたのと、火のついた炭とついていない炭を交換してもらってきたんですよ。

 火種の炭の回りに炭は積み上げてありますから、すぐに熱くなります。そうしたら始めましょう」

 おお、ご近所付き合いかあ。

 でも、これ、Win-Winの取引だなー。隣んちにしたら、炭が一回り大きくなった。こちらからしたら火をおこす手間は省けるし、火の回りきった炭が火種にできるならば他の炭に速く火が回るんだ。


 で、その間に沢井氏(仮)、小皿に油を入れて布紐を置いて、炭からの火を炎にして移した。

 うん、これ、1カンデラの照明ってことかぁ。


 僕、早く火力を増したくて、火種の炭をふーふーする。

 火種の炭が赤く輝いて、輻射を受けた他の炭も赤く輝き出す。

 そして、是田も袂からなにか細長いものを取り出した。

「おひささんにことわって、ネギを数本貰っておいた。

 肉ばかりじゃ、きついだろ」

「えっ、さすがですね。

 僕も、おひさんにことわって……」

 と、僕も紙に包んだ七味唐辛子を取り出す。おにぎりのときも思ったけれど、蕎麦の屋台にあるものって汎用性が高いよなー。


「いいですねー。

 じゃ、私は味噌を酒で伸ばして、肉を切っておきます」

 おおう、イノシシ肉を味噌焼きにして、七味を振って、ネギも一緒に焼くのか。

 大ごちそうじゃないか。


 火は熾きた。肉も切れたらしい。

「じゃあ、行きますよ」

 と、沢井氏(仮)の声。

「おおう」

 僕と是田も、声を揃えて応じる。


 沢井氏(仮)、鉄鍋を火鉢の上に置いて、イノシシ肉のロースの脂を削いだものを炒める。じわりと脂が鍋底に広がっていくのが、乏しい明かりの下でも見て取れた。

 うんうん、いい感じだ。

 

 次に薄く切られた肉が、鍋底に広がるように置かれる。薄いと言ったって、厚さは5mm以上あるぞ。

 じゅうじゅう音がして、赤い肉が白っぽくなっていく。

 その肉をひっくり返して味噌を置き、七味を振る。

 すごくいい香りだ。


「さあ、沢井さん、一口目を行ってくださいよ」

「直箸で失礼します」

「なに言ってんですか。

 どんどん行っちゃってください」

「いただきます」


 沢井氏(仮)、箸でつまんだ肉を口に運び、大きくうめいた。

 あれっ、温度が高くて腐敗しちゃったかな?

「大丈夫ですかっ!?」

「……脂が、脂が、身体中に染み渡るのです。

 美味いとか、そういうのを飛び越えてます」

 うーむ。

 1年肉断ちすると、そういう感覚になるのかな。ともあれ、腐ってなくてよかった。


 で、是田に続いて箸を伸ばした僕も、その沢井氏(仮)の言うことを実感した。

 とはいえ、沢井氏(仮)の身体、肉断ち3日目の僕の100倍くらい喜んでいたんだろうな。


 肉を焼いては食べ焼いては食べしたあとに、鍋底に溜まった脂でネギを焼く。

 これもまた美味い。


「是田さん、雄世さん、水道の実現が難しいという結論が出た段階で、帰っちゃうと思っていたんですけどね」

 しみじみと沢井氏(仮)が肉をつつきながら言う。


「……帰れたら幸せなんですけどね。

 これで僕たちの勤めも厳しくて、ダメだと報告しても上は、『はい、そうなんですか』って感じに納得してくれないんですよ」

 と、僕も肉を頬張りながら答える。


「ダメでも、『ダメだという証明をしろ』となりますし、後出しジャンケンでも水道を引ける方法が見つかりでもしたら、俺たちは不作為を問われちゃうんです。

 消極的だという姿勢とか心のあり方を責められるのは、とても辛いんですよ。やる気ってのは目に見えませんから、あるって証明はできないんです。だからひたすらに責められ続ける。

 無能だと責められる方が、なんぼもマシでしてね」

 是田も、生の肉を鍋底に広げながらそう付け足す。

 僕たちは、なんてキビシイ世界にいるんだろうな。


 沢井氏(仮)が僕たちを見る目が、極めて可哀想な生き物を見るようなものになったけど、それはそれで辛いものがあるなぁ。

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