第19話 知識移着


 比古の話を聞いた途端に、先ほどの食事の輝きが失せたような気がする。

 確かに、この辛さの代償として、日々の食事に旨いものを食う程度は贅沢とは言えまい。逆に考えれば、自分の未来など見えずに、家族なり長年の付き合いの気心の知れた友なりとの食事の方が絶対に美味い。


 佳苗は、ここへ連れてこられた意味を考えていた。

 訳も分からないまま連れてこられ、牙の化け猫と戦い、風呂に入って飯を食った。

 未だ、なぜここに連れて来られたか、帰る自由があるのかは聞いていない。なぜなら、この質問は致命の事態を招くかもしれない。なら、少しでも情報を得てから聞こうと内心で思っていたからだ。


 ここは時を超える者たちの巣。

 そして、自分はここで戦うことを求められているに違いない。そのこと自体に否応はない。

 父に叩き込まれてきた技が活きることは、望むところですらある。

 かといって、比古と目太の甘さから考えて、日常的に人を殺せと言われることはないとも踏んでもいる。血みどろの生活に荒むことはあるまい。


 佳苗は自問する。

 江戸に帰りたいのか。

 帰りたくないと言えば嘘になる。

 それでも、ここの生活が良さそうだというのもわかる。比古たちも優しい。

 まだ結論は出せぬ。佳苗は、もう少し様子を見ることにした。



 再び佳苗は部屋に戻った。比古と目太とは、部屋の前で「おやすみなさい」と別れた。

 自分の部屋に戻れば、改めて新畳の香りが鼻に嬉しい。

 そして、その上には布団がすでに延べられていた。新しい布団で寝るなど、これも佳苗には経験がない。


「ぞらっく」

「はい」

 独り言のように話しかけると、返事はすぐに返ってきた。


「ぞらっくは、私が聞いたことは何でも答えてくれるのか?」

「なんでも、とは申しませんが、最大限お答えいたしまする」

「ここでの仕事、自棄やけになる者はおらんのか?」

「おりませぬ。皆、各時代から選りすぐられた者たちゆえに。さらに、歴史を知り、時を守ることが、それまで持っていた夢以上に生き甲斐となっていただけるゆえに」

「そう。

 もし、私が帰りたいと言ったら、どうなるの?」

「どうもなりませぬ。今までの記憶を消され、その時代に戻されるだけで済み申す。ただ、そのような例はかつてあり申しませぬ」

「何故か?」

「仕事の意味をわかっていただけるゆえに」

「ふむ」

 佳苗は、さらに膨大なことを聞かねばならぬことを自覚した。

 さて、なにから聞いたものか。


 佳苗の迷いを、ゾラックは察したようだった。おそらくは、多数のこのような事例の経験をゾラックは持っているのだ。

「まずは、一寝入りをお奨めいたします」

「寝ろと?」

 佳苗は少し驚いて聞き返した。


「その際に、この枕を使っていただくことで、テンポラル言葉の通詞が不要となりまするし、他のこともすべて知ることができまする」

「どういうことであろう?」

「ここでは、世界中、各時代それぞれの人がおりまする。そのため、共通の言語、テンポラルが公用の言葉となっておりまする」

「ふむ、扉に書いてあるものだな?」

「はい。

 枕にからくりが仕込んであり、眠られている間にそれを習得できまする。

 加えて、ここの存在する意義等、すべての知識が得られまする」

「それはよい。ぜひ、使わせていただきたい」

「では、おやすみなさい」

 ゾラックにそう言われ、佳苗はまだまだ話したい思いを飲み込んで、布団に入ることにした。


 さすがに疲れていたのだろう。

 布団に入ると同時に、部屋の照明が暗くなった。

 そのことに再び驚きながらも、佳苗は睡魔に対抗することなく眠りに落ちていた。




 朝が来て、目が覚めたとき、佳苗は周囲のすべてを理解していた。

 洗面にあるのは、タオルと歯磨きと歯ブラシ。

 風呂にあるシャンプーと石鹸。

 土間にある靴。

 昨夜は壁だと思っていたところに、窓ができて日が射していること。

 この場所の正式名称。

 ゾラックの存在がどういうものか。


 江戸に生まれた自分と、そこから600年に亘る知識を重ね持つ自分とが、一つの加藤佳苗たる身体に同居している。

 戸惑いがなくはないが、頭の中の霧が晴れたように、なにを見ても理解ができるという感覚は素晴らしい。


 比古と目太についても、もはや是田これだ 芽太めだ主任、雄世およ 比古志ひこし主任である。

 今までの自分の中では、目太は比古のおまけに近かったが、実は目太たる是田の方が組織の中では立場が上なのだ。


「ゾラック。

 おはよう。

 服はある?」

「こちらに」

 壁が開き、そこには着物から洋服まで、一通りのものがあった。これがクローゼットというものであることを、佳苗は知っていた。


 布団から出た佳苗は、生まれて始めてパンツをはじめとする下着を着、ブラウスとスカートを身に着けた。

 長い髪は、前から見たらショートとミディアムの中間くらいに見えるよう、後ろにまとめた。あとで、この施設内の美容室に行って、髪も整えようと佳苗は思った。


「ゾラック。

 鏡をお願い」

「どうぞ」

 昨夜と同じように、壁の一部が反転して鏡になる。


 初めて洋服を着た自分を、佳苗はしげしげと見つめた。

 まだ、服に着られている感がある。

 そして、どこかぎこちない。

 さらに、なんとなく幼く見える。

 でも、すでに昨日まで江戸の小娘に過ぎなかった自分とは別人だった。

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