番外話 バレンタイン、その5日後

 

 もう5日前になる。

 その日は、朝から嫌な予感がしていた。

 なにかと言い訳を付けて休んじゃおうか、とすら考えた。

 申請書の諮問会議提出締切日でなかったら、絶対休んでいた。なんて僕は真面目なんだ。社会人の鑑と褒めて欲しい。普段褒められることなんかないから、それだけで僕は天国に昇るような気持ちになれるぞ。


 だから僕、その日はどんよりと出勤し、どんよりとパソコンを立ち上げ、どんよりと今月の諮問会議関係書類を再チェックしてから、今日という一日が早く終わることを願った。

 とりあえず、15時の送付に間に合わなかったら係に収まらない大騒ぎだし、間に合ったあとの僕たちはほとんど呆然としている感じになってしまう。

 だからといって、2時間休をとるのもなんか悔しいし。

 

 まあ、いつものとおり15時の送付を係総出でなんとか終わらせて、今月の仕事の山も過ぎたなんて感慨にふけりながらどんよりしていたら、同じく15時からの休息時間に係長がごそごそとなにやら自分のバッグを掻き回して、係員たちに小さな包を渡してきた。



 思えばその日、世間ではバレンタインの日だった。

 僕にはプライベートでチョコレートをくれるような人はいないし、かといって職場に女性は極端に少なくて夢も見られない。

 そもそも、ランチを食べるお店の店員さんと、コンビニの店員さん以外の女性と話すことなんかないからね、僕。


 そりゃ僕の上司は性別は女だけど、あれを女性と呼ぶのはいろいろと烏滸おこがましいと思うんだ。姿こそそれなりに完成されているけれど、目つきが悪すぎる。まぁ、実際に人を殺すだけの腕も、度胸すらも持っているんだけどさ。

 僕だって、指1本取られただけで抵抗を封じられて、時間跳躍機公用車から放り出されたことがある。それも宇宙空間で。

 で、その係長が渡してくる包みに、恐怖を覚えないはずがない。



「なんですか、コレ?」

 言うまでもない。

 聞いたのは是田だ。

 僕は藪にいる蛇が怖いから、口を開くのは避けようと思っていた。


「義理チョコだ」

「なんで、また……」

 失敗しまった。

 聞いちゃったよ、僕。

 是田のバカに連られちゃったんだ。



「普段から世話になっているからな。

 喜んで受け取れ。

 そうしたら、笑顔で、押し付ける仕事の量を1.2倍にしてやる」

 いりませんがな、そんなもの。


「ちなみに、しぶしぶ受け取ったらどうなるんですか?」

 そりゃあさ、聞かずにいられるもんか。

「押し付ける仕事の量を1.5倍にしてやる。

 もちろん、覚悟はしておけよ」

 ……なんの覚悟やら。

 僕、まだ命は惜しいんですけれど。


 こうなると、これ、義理チョコじゃない。

 良くて忖度チョコ、悪くで義務チョコだ。


「それにしても、本当にそれだけですか?」

 是田、オマエ、勇気があるなぁ。

 よくも、そこからまた押したな。

「毒なんか入っていないぞ」

 それが係長の返事。

 ……その言い方が怪しいんだよう。


「明日、諮問会議でしたよね。

 さっき送付した書類に一つ訂正箇所を思いついたので、まだ間に合うから、諮問会議事務局行ってきます!」

 あ、こら、是田、逃げんな。

 そんなもん、電話でもいいし、パソコンで再送付したっていいじゃないかっ!?


「良かったな、雄世。

 独り占めだ」

 係長の死刑宣告に、僕、視線が天井に向くのを必死でこらえた。

 ここで天を仰いだりしたら、チョコを受け取ってすら地獄が待っているからだ。


 僕は顔にアルカイックスマイルを貼り付けて、その包みを受け取って自分の通勤用バッグにしまった。

 そして、人の現実から逃れようとする力は強いもんだと思う。

 僕はそのチョコの存在を見ないようにしている間に忘れ、5日後にバッグの底からそれを再発見した。

 そう、今の話だ。


 僕は、自分の部屋でテーブルの上に2つの包みを載せて悩んだ。

 是田の分まで押し付けられての2つ、だ。

 ここまで日が経ってしまうと、今さら是田には渡せない。

 かといって、中身がチョコレートだとしたらすぐに腐るもんでもなし、さすがに食べ物をゴミ箱の叩き込むのも躊躇ためらわれた。

 いくら芥子係長から渡されたからって、毒は入っていないと思う。

 水鋩流とかいった流派の毒殺の技術を持っているの、知ってはいるけれど……。

 面白半分に係員を毒殺するほど、サイコパスじゃないと信じたい。


 僕は覚悟を決めて、包みを開けることにした。

 それこそ、10mくらいの高さから飛び降りるくらいの覚悟はしたんだ。

 丁寧にセロハンテープを剥がし、包み紙を開ける。なんかの罠があった時に気がつけるように、だ。我ながら、まるで地雷みたいな扱いだとは思う。

 まぁ、是田に渡すものだったのか、僕に渡されるものだったのかの区別はつかない。最初から中身に差があるとも思えないけれどね。


 で、慎重に慎重に開けた結果……。

 普通にスーパーで売っている400円くらいのチョコを発見した僕は、その商品の封に異常がないことまでを確認して、安堵と肩透かし感のあまりにテーブルに突っ伏した。

 よかった。

 僕は生き延びた。生きているって素晴らしい。


 怯え過ぎだって?

 そういうことは、ド・ブランヴィリエ侯爵夫人からチョコレートを貰った自分を想像してみて欲しい。

 誇張じゃないのがわかるはずだ。



 もう一つの包みを、今度は無造作に開ける。

 このくらいのチョコならお茶の友にしてもいいし、なんかお返しを請求されたとしても世話はない。

 鼻歌すら混じっていた僕の手が止まったのは、出てきた包みが先ほどと同じものでありながら、中身が大きさ以外ぜんぜん違う箱だったことだ。

 これ、違うよね。

 つまり、絶対、市販のものと違うよね。


 とたんに冷や汗が、全身から吹き出してくる。

 さっきの市販のチョコは、是田のものだ。

 そして、この特別なのは僕のものだ。

 その根拠は、10年後の僕が、今の係長の彼氏だからだ。だからと言って今の僕には、単なる鬼門に過ぎないんだけど。


 どうしよう?

 箱、開けるか?

 って、明確に僕宛である以上、開けないほうが怖い。


 僕の記憶が確かならば、「瀕死の探偵」って話だったよね。シャーロック・ホームズが、毒殺の仕掛けのある箱を扱ったのは。

 僕も、同じくらい、いやそれ以上に慎重に箱を開けた。

 

 そこには、小さく折りたたまれた紙が一枚。その向こうには、歪んだ一口大のチョコレートが見えた。

 僕は、その紙をそっと摘み上げ、広げてみた。

 そこにはこう記されていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 10年後の雄世の愚痴だ。

 一度でいいから、若い時にチョコレートを貰っておきたかった、だそうだ。

 この際だから、叶えてやる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



 あ、僕はこれから先も、ずっとチョコレート貰えなかったんだ。

 それを根に持って、恋人の佳苗ちゃんに愚痴った。

 たとえ恋人になったって、佳苗ちゃんが僕にチョミレートをくれるはずがない。なんたって、江戸時代の人なんだから、バレンタインもチョコレートも知らない。

 そして、佳苗ちゃんは10年経って芥子係長になって、僕たちの時間の風習を知って、ひそかに時の流れを変えようとしたんだ。


 これって、時間変更には……、ならないな。軽微変更だ。

 それはいいとしてだけど、未来の僕は、その愚痴を言わなくなるだろうか?

 いいや、絶対に言い続けるな。


 江戸にいた頃の佳苗ちゃんにチョコレート貰えたら、それは無茶苦茶嬉しい。でも、江戸の佳苗ちゃんが僕にチョコレート渡すなんてことは幾重にも無理。

 でも、10年後のパワハラ大王になってしまった佳苗ちゃんからチョコを貰って嬉しいのは、やっぱり10年後の僕だろう。今の僕じゃない。


 おまけに未来の僕、今の僕に対して、あまりに失礼じゃないかな。

 背に腹は代えられぬってほど、僕はまだ絶望していないぞ。もしかしたら、コンビニの女性店員からだって、密かに思われているかもしれないじゃないか。


 そう思いながら僕は箱からチョコレートを1つ摘み上げ、口に放り込んだ。

 芳醇な香り。

 これ、高かったんじゃないかな?

 しかも、この歪み、ひょっとして手作りかもしれない。

 僕はそう思いながらそれを噛み砕いた瞬間、凍りついた。

 なんだこれ?

 ぼろぼろするぞ。

 おまけに、なんか猛烈にむせる。


 口から出して眺めれば……。

 これ、蕎麦粉じゃないか?

 まさか、蕎麦がきをチョコでくるんだのか?

 で、5日の間に乾いちゃったんじゃ……。

 役所もうちも、冬場は猛烈に乾いているもんな。


 もう1つ、箱からチョコを取り上げてしげしげ眺めて見れば、チョコの底側はコーティングが回りきっていない。ま、カビたりするより乾くほうがマシかな。

 ああ、係長、生まれて初めての、手作りチョコ錬成だったんだろうなぁ。


 でもって、チョコで蕎麦がきを包むって発想、どこから湧いて出たんだ?

 これだから、育ちが江戸の人は困る……、って、元々江戸の人だからこそかぁ。

 アーモンド入れるなんて発想、湧くはずもない。

 それに普段から、甘いものとかあまり食べない人だしな。


 ただ、おかげでわかったことがある。

 やはり芥子係長の中身は佳苗ちゃんだし、そこには善意しかない。悪意があったら、唐辛子くらいは包みかねない人だしね。

 まぁ、それだけは救いだ。



 是田の分の市販のチョコを改めて齧りながら、僕、明日係長に「美味しかった」と嘘を伝えようと決心していた。

 そして、未来の僕、今の僕のこの言葉に苦労するがいい。

 僕はそう思いながら、薄くほくそ笑んだのだった。

 そのことの、本当の意味にも思い至らずに……。

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