第53話 初日が終わって……


「総売上、5700文、1両2分に届きませんでした。

 仕入れたもの、すべて完売です。

 天竺蕎麦については、途中で若い衆を雇って薬種を買いに行かせました。その際には複数の者にばらばらに買い物をさせておりますから、カレーの秘密が漏れる心配はございません。

 蕎麦もうどんも、ネギも餅も注文し足し、計180食を売り上げております」

「ありがてぇ、借金が返せる」

 江戸口調になってしまった是田の声が、遠くに聞こえた。

 

 180人分といえば、屋台営業の想定の3倍もの数だ。僕と是田の人力水道が過労でぶっ倒れるわけだよ。

 僕、半ば気絶していたけど、なんとか佳苗ちゃんに声をかける。


「じゃあ、かわら版屋を雇って宣伝を掛ける話、なしでいいよな」

「はい、これ以上はいろいろと無理でございます」

「よかった……」

 そうつぶやいて、目を閉じる。

 今の僕の肖像画を描くとしたら、顔の塗りは真っ白だろう。

 そう、燃えかすなんか残りやしない、真っ白な灰だけだ。


「しっかりなさいませ。

 せめてなにか胃の腑に入れなければ、本当に死にまするぞ」

「……もう、死んでもいいかな」

 と、ぐったりできたのは、そこまでだった。


 次の瞬間、足首から下の全体の激痛で僕、躍り上がっていたからだ。

「な、な、なにっ?

 足が灼けるっ!!」

「足のマメが酷いことになっていらっしゃいましたから、焼酎を吹いたのでございます」

「痛い、すごく痛いっ!

 沁みるっ!」

 強制的にアドレナリンが絞り出されて、一気に身体に生気が蘇る。

 戦いで致命傷を負っても、逃げるために一瞬元気になるのってこういうことかもしれない。


「化膿を防がねばなりませぬから。

 そして、今のうちに、これをっ」

 その声とともに丼を口にあてがわれ、その中身を強引に飲まされる。


 うう、濃い出汁で割ったとろろ汁だ。生姜の香りが効いていて、そのおかげで飲みやすい。

 噛まなくていいのは助かる。

 是田には、おひささんが強引に飲ませている。

 容赦なく佳苗ちゃんが丼を傾けるので、一歩間違ったらとろろに溺れて死ぬかも、僕。

 眼を白黒させながらもがくの僕たちの姿に、なぜかひろちゃんは大喜びしている。

 ええい、人が苦しんでするのがそんなに面白いかいっ?

 

 容赦なく佳苗ちゃんは丼を傾け続け、息もできないまま丼一杯のとろろ汁を強制的に飲まされきって、僕はそのまま本当に気絶していた。



 翌朝。

 おひささんがお湯を沸かし始める音で目が冷めた。

 目が覚めた僕に気がついて、おひささんが申し訳無さそうに言う。

「起してしまいました。

 申し訳ありませぬ。

 本日は出汁も取らねばなりませんので」

「いえいえ。大丈夫です」

 我ながら健気に僕は答えたけど、言葉に反してまだまだ頭が上がらない。

 今日の営業始めのこの出汁の分とかの水も、昨日最後に1往復したんだった。うう、僕と是田の労苦の結晶だ。


 それにしても、ここまでの肉体労働は今までやったことがない。学生時代に道路工事を手伝うバイトもしたけど、それでもここまでじゃなかった。

 肉体労働の質が違うんだよ。

 どれほど大変でも、単純な重労働は僕たちの時間では皆無だ。それだけ、工作機械が行き渡っている。穴掘りとか重量物運搬とかは、AIを積んだマシンがやってくれていたもんな。


 視界の片隅では、是田が死んでいる。口の傍から、よだれが長ーく延びて地面に垂れているけど、飲みきれなかったとろろ汁かもしれない。

 いっそこのまま、ずっと死んでいてくれてもいいのに。

 少なくとも僕は、全然困らないぞ。


「ごめん、僕、今日は水を運べない……」

 頭もあげられないまま、僕、つぶやく。

「明日から、よろしくお願いいたしまする。

 今日はごゆっくり」

「えっ、大丈夫なの?」

「昨日の売上で、佳苗殿が掛売りを強要した者たちへの支払いも済んでおりますし、あまつさえ本日の支払いも済んでおります。今日は、牡蠣を倍の30個も仕入れました。餅も昨日の倍です。青菜も仕入れましたから、通常の蕎麦に彩りに添えましょう。

 目太様と比古様のお着物とふんどし、新しい草履も揃えさせていただきました。

 そして、口入れ屋に話を通し、今日から水汲みを3人雇いましたから、そろそろ顔を見せるでしょう」

「た、助かったーーっ」

 僕、思わずそう口から漏れてしまった。


「これより15日の間に、10両を稼ぎ出しましょうぞ。

 そのためには、明日か明後日からは、目太様と比古様も水汲みをお願いしたく存じます。

 水汲みに人を雇うのは、高く付くのです」

 あ、佳苗ちゃんもいたんだね。

 ようやく首を回して、佳苗ちゃんも視界に収める。


「……それはわかったけど、なぜに10両?」

「目太様と比古様に、散財をさせてしまった償いでございます。

 利息はともかく、原資の10両をまずはお返しせねば、寝覚めが悪すぎるのでございます」

「……ちっともそんなこと、考えていないくせに。

 大体、僕たちへの恩返しに、僕たちが強制労働させられるって、筋が通らな……」

「比古様、なにか仰られましたか?(圧)」

「いいえ、なんでもありません」

 言論封殺ってのは、こういうことを言うんだろうね。

 ひどいや。


「それでは、目太様と比古様。お起きになられて風呂へどうぞ。さすがに臭うございます。

 私たちは済ませてきました。

 ささ」

 ちっ、今の、面と向かって僕たちをディスっただろ。

 さすがにわかるんだからな。



 僕と是田、軽く足を引きずりながら銭湯にたどり着き、ちょっとお金を払って三助に身体を流してもらう。

 ついでに、マッサージもしてもらって、全身の痛みに僕たちは悲鳴を上げた。

 遅めの朝の銭湯は年寄ばかりだったけど、そこそこ客が多かった。

 あまりのんびりできない感じではあったけど、マッサージの後に柘榴口※を越えて湯船に浸かったときには思わず声が出た。

 全身の疲れが、湯に溶け出すようだ。


 もうなになも考えられない。

 今日はのんびりさせてもらって、すべては明日だ、明日……。




※柘榴口:江戸時代の銭湯は、お湯の熱が逃げるのを防ぐために浴槽の前方上部を覆うように下がり壁がありました。客はその下をくぐり抜けて浴槽に入っていました。そのくぐり口のことです。


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