第52話 営業初日
さあ、果たしてどうなるか……。
と固唾を飲んで人の流れを見守る。
「ねぇちゃん、なんでぇ、この良い香りは」
と、若い兄さんが佳苗ちゃんに声を掛けてきた。
たぶん、香りは口実で、佳苗ちゃんに声を掛けたかっただけなんだろうな。
あんまりしつこくされるようなら、助けに行かなきゃいけないかと思っていたけれど、救いの主は別角度から現れた。
あ、もちろん、助かったのは、若い兄さんの方だからな。
佳苗ちゃんが本気で嫌がったら、若いお兄さんの命が危ない。
「娘さん、なんですかな。これは食べ物の香りのようだが、どのようなものなのかな?」
と、
これで、一対一でなくなって、なんか若い兄さんのぎらぎら感が中和された。
よかったなぁ、若い兄さん。無事に帰れるぞ。
「天竺蕎麦でございます」
これは、僕がうどんより蕎麦を優先して欲しいって頼んでおいたからこその、佳苗ちゃんの答えだ。
「改正時間整備改善法」違反を避けるために、「軽微変更」という法解釈の範囲に持ち込むためなんだ。
「一杯いくらだい?」
と、若い兄さん。
「30文と少し値は張りますが、これ一杯で満腹になること、請け合いでございます。お釈迦様が生まれた国の味付けをしており、天下の美味にございます。食せば五臓六腑の薬ともなりましょう。
さらに10文足していただければ、そこに今朝の採れたて牡蠣も入れさせていただきます。滋養が付きまする。
さらに、5文で焼いた餅も入れましょう」
「それは珍しい。
本当に旨いのかい?」
と、これは隠居風の年配のおじさんたち。
「三国一の天竺蕎麦でございます。
さまざまな工夫をこらし、わざわざ運んだ名水を使用して仕上げております。
『はずれ屋』では、普通の蕎麦でさえも他とは隔絶した旨さにて……」
「じゃあ、ねぇちゃん。その天竺蕎麦を1つ」
おう、若い兄さん、ありがとうよ。
「娘さん、牡蠣を入れて、天竺蕎麦を連れの分と2つ」
「おありがとうございます」
隠居風の年配のおじさんたち、ありがとうっ。
おおう、これでもう110文だ。とんとん拍子だねぇ。嬉しいねぇ。
「今のを聞いたんだけどよ、『はずれ屋』ってのは、なんでまたそんな店の名なんだい?
普通なら、縁起をかついで『当たる』もんだろ?」
今度は、道具箱を担いだ大工さんだ。
「うちは、食い物商売でございますから、お客様のことを考えて……」
「なるほど、うめぇことを言う。
腐ったもん食っても、中らないってか。
で、高けぇけど、うまいもんで腹は一杯にさせるってか。
じゃあ、その天竺でない方の蕎麦をこっちにも1つくんな。さっきの話の餅を1つ乗せてな」
そうだ、普通の蕎麦の旨さにも目覚めるがいい、江戸の職人よ。
僕が、そんな感じで見ていられたのはそこまでだった。
おひささんが、大至急、水を汲んでこい、と。
即座に僕たち、桶を結んだ天秤棒をもって、駆け出していた。
30分後には、水が心許なくなっているってことだからね。
僕と是田、それからの1日、汗みずくのどろどろになりながら、数え切れないほどの往復をした。
井戸の釣瓶を果てしなく上げ下げするので、両手ともマメだらけになった。
草履は履きつぶして2度替えた。
足の親指の付け根のマメがあまりに痛くて、最後は草履を足の裏にくくりつけた。
そんな状態で足元が定まらないから、一度は思いっきり転んで、こぼれた水の上にダイブしてしまって、全身、それこそ顔まで泥だらけにもなった。
そのあおりで、茶色く泥だらけになったぱんつは叩き捨てた。今頃、不忍池のどこかでオーパーツ化して浮いているにちがいない。
10往復を超えた辺りで、天秤棒と肩に挟まれた着物が破れ、ふるちんのまま、よくわからないままにうちの隣の屋台の姉さんに即席に繕ってもらった。
その際に、「おたくの蕎麦は美味いねぇ」とか言われたけど、佳苗ちゃんが着物の縫い賃を蕎麦一杯で取引したのかもしれない。
で、その際に僕も立ったままおひささんから手渡された蕎麦をせせりこみ、よくわからないまま薄茶を浴びるように飲んで、さらに餅を3つ鵜呑みした。
そして、是田と毒づき合う間もあらばこそ、引き続いてひたすらに水を運んだ。
絶対に、16往復じゃ済まなかった。20往復は超えたはずだ。
そんなぼろぼろの僕たちの姿を見て、「本当に名水を運んでいるんだねぇ」と、さらにお店に入ってくれる人もいたから、まぁ、その点だけ見れば嬉しいことなんだろうけれど、あまりに体力的にきつすぎた気がする。
まぁ、その道行きの中でも夕闇は空に広がり、西の空が朱色から紫に変わり、星がまたたきだすのが見えて、通りの人混みは潮が引くようになくなっていった。
……そして、1日が終わった。
「本日の売上、ご報告いたします」
佳苗ちゃんの声が遠くに聞こえる。
全身が痛い。
筋肉痛が酷すぎて、いくらか発熱もしている。小屋掛けの中で仰向きに横たわっているけど、ぴくりとも身体は動かない。
よくもまぁ、心臓の筋肉まで疲れちまわなかったもんだ。
そんな状態だけど、最後に残った好奇心を耳に集中させる。
我ながら、金銭欲ってのはすごいやね。
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