第42話 夜鷹蕎麦とは
僕たちは宿の主の老爺に「ちょいと出かけてくる」って話をして、すっかり暗くなった江戸に繰り出した。
佳苗ちゃんという女性連れのせいか、夜鷹の女性たちは近寄ってこなくて、ま、是田は残念だったんじゃないかな。
夜鷹蕎麦の屋台をいくつか冷やかして、そのうちの清潔感があるところで蕎麦を手繰った。ちなみに、メニューはなかった。つまり、かけ蕎麦以外はないんだ。
どうせなら、
屋台では蕎麦は蒸せないみたいで、「茹で」だった。それを見ているだけで、僕たちの時間の蕎麦に近い気がした。
そして、屋台の七輪は担いで移動する前提があるから、決して大きなものじゃない。そのたった一つの小さな炭火で、蕎麦を茹でるための湯を沸かし、つゆも温めるっていうのには自ずから限界がある。
もちろん、持ち歩ける水の量にも限界があるから、茹で湯の更新もできはしなくて、見るからにどろどろだ。
これだけでもう、味の予測はついちゃったよ。
で、いよいよ実食。
それでも少しは食べ慣れているものが出てきたせいか、正直蕎麦よりは美味しく感じたけど、全体的にぬるぬるしていて、べとべとだ。
そして、なんか量は少ない。2杯食わなきゃ、腹は一杯にならないぞ。そう考えると、これだけで済まそうと思ったら、案外高くつく食事かもしれないな。
そして2回目だけど、やっぱり味噌味だ、味噌味。茹でだと、さらにその違和感が際立つ。蒸しだと、全然別の料理だと認識もできたけど、茹でだとそれもできないからね。
正直蕎麦と同じで、なんか妙なフレッシュ感があって、味噌汁に蕎麦が入っているっていうのとは違う感じだ。提灯明かり一つでは確認できないけれど、やっぱり大根おろしが入っているんだと思う。蕎麦とは、この時代、「こういうもの」なんだろうね。
慣れてくると、味噌味も味自体は純粋で、とりたてて不味いと言うほどではないって思えてきた。
ああ、美味くはないけれどね。
僕と是田と佳苗ちゃん、6文の蕎麦を1杯ずつ食べながら、屋台の主からいろいろと話を聞いた。同じ日本人のありがたさで、多少の訛りは感じられたけれど、屋台の主とのコミュニケーションに問題はない。
寒い夜に立ち尽くす商売は厳しいとか、炭がここのところ高くてとか、愚痴もたっぷり聞いたけど、僕たちは相当に良いお客だったみたいだ。
ま、夜鷹蕎麦はこんなもので、この屋台の主の言うことが正しければ、まだまだかけ蕎麦一本槍で、他のバリエーションはないみたいだ。
落ち着いて考えれば、これは商機かもしれない。
僕たちは昼間、蕎麦汁は鰹出汁でと元締めに注文している。これだけで江戸の町では最先端だ。七味唐辛子だって、醤油味の方が合う。味噌味が悪いわけじゃない。むしろ素朴な良さがある。
でも、洗練という意味では、醤油味に軍配が上がる。
それに今からの季節は大根が美味しいからいいけど、夏になると大根がなくなるだろうから、暑い中の味噌味は野暮かもしれない。蕎麦自体の味も相当落ちているだろうし。
そういう意味でも味が安定する醤油はすごい。
問題があるとしたら、醤油がやたらと値段が高いかもしれないのと、入手が難しいかもしれないってことだ。
とはいえ、江戸料理の成立は、野田あたりの醤油の大量生産によるものだったはずだ。
蕎麦も天ぷらも、鰻の蒲焼もみんな醤油が味の決め手で、その素地はもうできあがっている。
もしかしたら……。
今、僕たちがいるこの江戸の時間、醤油が出回りだしたところだけど、まだそれを応用した料理が出回っていない短い期間に当たっているのかもしれない。そうだとしたら、これはものすごく運が良かったってことになる。
僕と是田が見知っている料理は、現時人の人にはみんな物珍しいものだということになるし、しかも「改正時間整備改善法」違反にならずに済むよな。
是田の料理の腕は、インスタントラーメンにバターを落として満足する程度だけど、僕はもう少しマシだ。
カレーを錬成できるほどじゃないし、うどんや蕎麦も打てる気はしないけど、出汁のとり方くらいは知っている。そこに酒と醤油が入ればいいんじゃないかな。
「かえし」なんて単語も知っているけれど、それがなにかは知らない。でも、それはこの時代以降の人が考え出してくれることだから、僕たちの料理がそこまで至らないものであっても問題はないんだ。
普通の鰹節出汁の醤油の汁のかけ蕎麦売るだけで、僕たちは左うちわの大金持ちになるのも夢じゃない。
それに、この時代、かけ蕎麦しかないのだとしたら、かまぼこ乗せるとか、玉子乗せるとか、鴨を乗せるとかするだけでさらに相乗効果が望める。
どこかの天ぷら屋台とコラボしてもいいかもしれない。
海老天蕎麦なんか、大ブームになるはずだ。
それにね、夜鷹蕎麦、値段は安いけど、量が多いわけじゃない。
当然、物足りなさが残る。
でも、力蕎麦とか言って、焼いた餅でも乗せたら、これだけで8文に値上げしても爆発的ヒットになりそうだ。
ちょっと、口元がにやにやしてきちゃったよ。
それこそ、無双ってヤツだ。
で、その帰り道。
佳苗ちゃんが、先程の母娘の身の上を話してくれた。
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