第16話 乙女心


 風呂から上がり、もはや驚くことなどないと思っていた佳苗は、再度驚かされた。

 洗い髪を乾かす機械があるなど、佳苗の想像の範囲を超えていた。

 そもそも洗髪など月に1、2回のことである。

 その頻度のことのためにからくりを作るなど、すでにこれはかゆいところに手が届くなどという範囲に収まる話では済まない。


 それに、江戸で、洗い髪を乾かさないまま油を付けずに結うことを鯔背いなせという風潮がありはするが、あくまでそれは辰巳芸者など一部の話に過ぎない。

 普通の女であれば、洗髪後という状態がまれなのだから、乾いた髪に伽羅の油を引いて髪を結うものなのだ。



 佳苗は畳の部屋に戻り、まずは空気の感覚が違うのに驚いた。

 皮膚の感覚が、剥き出しになったと言っていい。糠袋と石鹸では、これほどの差が生じるとは。

 これほど気配を感じとる力が増すならば、湯浴みは日課にせねばと佳苗は思う。


 次に、置いてあった櫛とかんざしで、自分で玉結びに髪を結った。

 かんざしもとんぼ玉がついていて、今まで使っていたものとは明らかに出来が違う。あまりに美しいこれは、借りたという扱いなのか、貰ってしまったと思って良いのか、悩むところである。


「これは……」

 髪に挿したかんざしを手で弄びながら、佳苗は独り言ちた。

「お気に入られぬようでございましたら、リクエストいだければ華美にならぬ範囲でお作りいたしますが」

 と、ゾラックの声。


 とんぼ玉まで着いているこれが、華美ではない?

 あまりに自分と常識が異なるので、佳苗は再び絶句した。


「いいえ、これほど美しいのに、気に入らぬ訳が……」

「お似合いになるとか思い、私が見繕いました。

 お使いいただけたら幸いでございます」

「こちらこそ、どう申してよいかわからぬほどありがたきことにて……」

「鏡はこちらに」

 そう言われて振り返れば、自分の全身が映るほど巨大な鏡が現れていた。どうやら、壁の一部が反転するらしい。


 佳苗はまじまじと自分の姿を見た。

 江戸に、このような大きな鏡はない。したがって、自分の全身は初めて見たと言っていい。

 今まで、せいぜいが手鏡で顔を見るか、結髪のときに頭の後ろを見るぐらいしか経験はないし、父の木刀の下で修行に明け暮れていたときはその手鏡すら覗かぬ日が多かった。


 自分はこのような姿だったのか。

 初めて見る自分の全身は、記憶にある江戸の他の娘の姿と比べて、美しいのか可愛いのかすら、佳苗には判断ができなかった。

 そこそこかとは思うのだが、どうにも自信がないのだ。

 生まれて初めて、自分の容姿を比較の俎上に乗せたのである。無理もない。


 ただ、それでもこうは思った。

 比古はこんな自分を見ていてくれたのか、と。

 そう思った瞬間、佳苗は落ち付きを失った。


 かんざしの位置を変えてみた。

 次に髪を解き、丁寧に再度結い上げてみる。

 帯も、きつく結び直してみた。

 でも、大して変わったようには見えない。


 そもそも、歯の欠けた櫛、竹の棒に等しいようなかんざし、古着の着物、帯も古着で選ぶ余裕などない中で育ってきた。

「はずれ屋」で稼ぎ、いくらか自由になる金を持ち、着物も買えるようになったとはいえ華美なものには程遠い。

 そんな佳苗に、どうやったら自分がおしゃれな姿になるのかなど、わかるはずもない。

 それなのに、もうすぐ比古がこの部屋に来てしまう。


 佳苗は困ってしまって、泣きたくなった。

 もっと給仕班の女子たちの話を聞いておけばよかったと後悔するが、今さら取り返しはつかない。給仕班の女子たちの元締めとして、あまり馴れ合わないようにしてきたのが裏目に出た。


 風呂に入って髪を洗い、新しい着物を着て、きれいなかんざしまで挿した自分の姿が、比古に気に入られなかったら……。

 これはもう、潔く脇差で喉を突くか、舌を噛んで死ぬしかない。

 死を武の鍛錬とともに叩き込まれてきた佳苗は、一足飛びにとんでもない結論を出していた。それがいかに舞い上がっている思考なのか、自分自身では気がついていない。


 ただ、比古が来るまでに、できる限りのことはしておくべきであろう。

「ぞらっく、紅なり、おしろいなり、化粧のものは……?」

「ここに」

 鏡の横の壁が引き出しになっていて、自動で開いた。覗き込むと油っぽい匂いと香料の香りが鼻を突く。

 だが、今まで化粧をしたことのない江戸の娘が、いきなりファンデーションから始まる未来のメイク道具一式を見て、理解できるはずもない。


 瓶だの金具だの筆だの、理解できない道具や、理解できても使い方がわからない道具を持ったり離したり、迷い抜いている間に佳苗はパニックになった。

「どうしよう、どうしたらいい?

 これ、どう使えばよいのか、全然わからない」

「どうされたいのですか?」

 そう聞くゾラックの声は、取り乱した佳苗に合わせて、上ずっていた。これは、相手の感情に合わせるミラーリングがプログラムされているからである。


「私は、あの、とても、いや、せめてほどほどでよいから、きれいになりたい」

「きれいとは?」

 ここで、ゾラックがそう聞き返したのに下心はない。

 単に、AIの限界だった。

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