第91話 誰かが私のためだけに……


 僕は、次長の言葉に従って、密かに芥子係長に相談した。

 3月31日以前に、テンポラルという言語をマスターする必要があるからだ。つまり、その勉強に使える期間はたった20日に満たない。

 テンポラルは、時間語と呼ばれる更新世ベース基地で使われている独自の人工言語だ。

 時間管理部は、世界中のあらゆる時間の人たちが集まっているから、共通認識を得るためにもこれが必要なんだという。


 先行した内示のことは他の人には話せないし、芥子係長が更新世ベース基地から交流人事できたこともおおっぴらにはされていない。また、相談内容は間違っても、誰かに聞かれるわけにはいかなかった。

 こうなると、僕の相談は極めてイレギュラーな形を採らざるをえない。


 僕は、江戸から帰ってきた時の、スペインバルでの約束を果たすとして、係長をご招待した。「係長、今度僕がなにか作るんで、食べてみてはくれませんか?」って、言ってあったんだよ。

 たとえそうだとしても、独身の係長を独身の僕が自分の部屋に引っ張り込むのは、本来とてもまずい話だろう。

 でも、1回限りだったらバレないんじゃないかな。

 そう思うしかない。

 


 係長も僕の人事は知らされていたらしく、僕の誘いにオッケーを出してくれた。そこで、僕はホームセンターでいろいろと買い物をした。

 薄い鉄板、炭、細い薪、藁、そして耐熱レンガと羽釜だ。


 僕の部屋のミニキッチンに、僕は薄い鉄板を張り巡らせて耐火壁とした上で耐熱レンガを積んでかまどにした。

 それから芥子係長が来る2日後まで、何回も何回も米を炊く練習をした。

 失敗したご飯はみんなおにぎりにして冷凍したから、10日分は確保できただろう。

 ま、異動の前日までに食べ切れればいいや。


 細かくデータを取りながらの炊飯で、12回目にして僕は初めておひささんの炊くご飯に近づけた。

 そして15回目で、なんとか同等と言えるまでに近づけたと思う。

 改めてデータ取りしたノートを見て、おひささん、すごい人だったんだなあって思ったよ。


 味噌汁は、そこまでの試行錯誤はなかった。

 自分で大豆を煮て、ハンドミキサーで砕いてガーゼで濾して豆乳を作り、それを固めて豆腐を作った。煮干しで出汁をとって、その豆腐と葱だけの味噌汁だ。

 それから焼き魚は塩した鰯。

 品川で、佳苗ちゃんが一番食べたであろう魚だ。

 ご飯を炊いたあと、蒸らしている間にかまどの熾火で焼くんだ。


 江戸で食べてきたおひささんの味に、トータルでどこまで近づけたかはわからないけれど、それでもわかることがある。

 直火で調理したものって、口に入れたときに、美味しいという以前にエネルギーに満ちている感じがするんだよ。

 たぶん……、芥子係長が欲しいのは、これだと思うんだ。



 ぴんぽーん。

 呼び鈴が鳴る。

 うん、係長は遅刻をしない。時間厳守の人だ。だから、僕は食事の支度が完璧に済ませておくことができた。


 玄関を開けて、なんか知らないけど大荷物を持った係長を招き入れる。

 そして、係長は驚愕って表情になった。

 ま、無理もない。

 僕の住処はワンルーム。玄関開けたら左がバス・トイレ、右がキッチン、奥が居間兼寝室。ガス台の上に築かれたかまどが、まっさきに目に飛び込んだはずなんだから。

 そして、その上では鰯が煙を上げて焼けつつあって、換気扇がその煙を景気よく吸い込んでいる。


「まずは、お食事を差し上げます」

「……そうか」

 珍しく、気圧されたように係長が応える。

 なかなか見られない反応だな。

 ともかく居間に通して、座卓の前に座ってもらう。


 そして僕、盛り付けに取り掛かる。

「これだけしか用意できず、ごめんなさい。

 僕には、おひささんのようには調理できませんけれど、精一杯真似ました。

 御飯と味噌汁、焼き魚です」

 僕は、お盆の上に載せたその3つを係長の前に置く。

 本当はたくあんも用意してあげたかったけれど、さすがに無理だったんだ。


 自分の前にも同じものを置いて、「いただきます」と手を合わせる。

 係長も僕と同じく手を合わせて箸を取り、ご飯を一口、口に運んだ。

「……ん」

 僕は、自分の膳に目を据えて、あえて係長の方を見ない。

 なにかの反応を強要するみたいになりたくないからだ。

 それでも、係長の箸が動く気配は伝わってくる。


「雄世さん」

「なんでしょう?」

「更新世ベース基地での食事は、人類の最高峰と言っていい」

「そうなんですか?」

「あそこでは、生活に必要なものすべてが合成されている。食事も例外ではない。

 世界最高峰のシェフや板前の作ったものがデータ化されていて、そのまんま合成されて出てくるんだ」

「……それではこれ、お口汚しでしたね」

「違う、違うんだ……」

 ここで僕、初めて係長を見た。

 係長の声が可怪しい。


「私が食べたかったのは、そんなものじゃなかった。

 なにを食べても美味しいのに、美味しかったのに……」

 えっ、泣いてんの!?


「誰かが私のために、私のためだけに作ってくれた食事を食べるのは、江戸を出てから今が初めてなんだ……」

「……僕は、僕はなにをしていたんですか?」

「更新世ベース基地に行けばわかる。

 あそこは美味に溢れていても、料理なんかできないよ」

 そうなんだ……。


 予想は付く。

 きっと基地は高度に整備されていて、生活は完璧に快適。だからこそ、不完全なものを、あえて一から作るなんて選択肢はないのだろうな。

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