第32話  蕎麦屋台の元締


 僕たち、奈良茶飯のお店を出て、再び歩き出す。

 佳苗ちゃんが、手ぬぐいを細く裂いて、僕と是田の足の指に巻きつけてくれた。

 これで一歩ごとの拷問からは開放されたけど、今晩この布を外すのが怖いよ。

 きっと傷口に張り付いてしまって、剥がすときに目も眩むほどの痛みが味わえること、間違いなしだ。


 とりあえず、僕たちが向かうのは深川。

 さっきの正直蕎麦で、屋台の蕎麦について聞いてみたんだ。

 したら、蛇の道は蛇ってヤツなのか、深川に元締がいるって教えてくれたんだ。業務用に使えるほどの安定した蕎麦粉の供給は、やっぱりルートがあるらしくって狭い世界らしい。


 割りとできて間もない新しい感じの両国橋で隅田川を渡り、道行く人たちに聞きながら元締の家に向かって歩く。

 深川だっていうのに、まだまだ畑とかの農地があるのが新鮮だ。

 さっきまでは大根だったけど、このあたりは蕪の産地みたいだ。かなりの密度で植えられた蕪が、大きな葉を揺らしている。蕪が畑で生えている姿なんて始めて見たけれど、それでもひと目で分かるほど土から盛り上がった蕪の白い肩がなまめかしい。農家の人がいたら、1個買って齧りたいくらいだ。

 時間が進むにつれて、道路は舗装されて畑はなくなり、建物しかない町になっていくんだろうね。


 浅草からなら、深川は近い。

 ましてや腹いっぱい飯を食ったあとだから、身体も軽い。

 ま、都内なんて、どこへ行くにもそう距離はない。本気で歩くつもりなら、旧山手線の跡を一周するのだって一日でできるんだ。


 そういう意味じゃ、いっそ上野の不忍池周りの出会い茶屋ラブホで張っていれば、芥子係長を見つけることだってできるかもしれない。けれど、どうせ見つけたって絶対に相手にされない。話しかけたら、生宝氏の話を聞いてもらえる前に、時間跳躍機の空間転移で逃げられてしまうのがオチだ。だから今はまず、係長の弱みを作ることだ。

 つまり、カレーうどん、もとい表向きは天竺蕎麦だ。



 蕎麦屋台の元締は、昼間は必ず在宅だという。

 というか、家にいないと務まらない仕事だな、こりゃ。

 屋台蕎麦って、セントラルキッチン方式なのかよ。

 江戸時代にもう、こういうやりかたが確立していたってのは驚きだ。


 板の間では丁稚が2人、必死でカンナで真っ黒な鰹節を削っていた。

 鰹節ってのは、あんなに真っ黒だったかねぇ。

 厚く削るのには力も必要で、すでに疲れ果てているらしい。とんでもなく辛い仕事みたいで、なんだか泣かんばかりだ。一歩間違うと手の皮も削っちゃいそうだし、実際、見ていておっかない。

 体力だけでなく、気力も削られる仕事なんだろうな。


 大人の職人も数人いて小麦粉や蕎麦粉を捏ねているし、庭の隅には大根の束や屋台がいくつも置いてある。蕎麦商売の一式を貸すだけじゃなくて、材料まで供給しているっていう、是田の知識は間違いじゃなかったみたいだ。

 正直蕎麦で聞いた範囲じゃ、25人ほどの配下を持つ元締らしいから、一屋台20人分の蕎麦を持たせるとしたら、毎日500人分を用意しないといけないことになる。これって、機械化されていないこの時代としたら、相当の規模だよね。


 この時代の蕎麦の価格は、まだ16文には達していない。

 安くて6文、高くて8文だ。正直蕎麦は8文だったから、高い方だった。とはいえ量は半端なかったけれど。

 で、これは単に安いというより、通貨供給量マネーサプライの不十分さに拠るデフレなんだ。

 江戸の悪政の象徴ともいわれている小判の改鋳だけど、実際にはこれがなされるまで、流通貨幣の不足が江戸経済の足かせになっていた。

 働けど働けど、低価格の中で収入は伸びない。

 それでも、僕としては、楽して金持ちにはなりたいよね。

 使っちまった小粒分を稼ぎ出しておかないと、戻ってから給料から天引きされかねないし。

 ……それでも、戻れるなら戻りたいし。所属長の顔に辞表を叩きつけるとしても、だ。


 さて、6文×500人と考えれば、3000文。つまり3分だ。つまり、3/4両。

 ピンはね分を推測すれば、元締は毎日500文くらいはコンスタントに儲かっているんじゃないだろうか。となれば、年収45両だから、かなりのお金持ちだなー。

 一番辛い仕事をしている丁稚が無給なんだろうから、この時代としてはなかなかに良いビジネスモデルなのかもしれない。


「ごめんください」

 奥に向かってそう声を掛けると、是田が驚愕の表情で僕を見た。

「雄世、おまえのことだかから、『頼もう!』とか、道場破りみたいな失言しだすかとか思ってた」

「そんなわけあるかいっ!」

 ささやき声での応酬。

 僕たちのやり取りを聞いていた佳苗ちゃんが、やれやれって感じで首を振る。


「はい、どのように御用で?」

 出てきたのは、恰幅のいい、それでいて福々しいという印象より、目付きの鋭い男だった。

 頭は下げていても、下から見上げる目が怖い。ま、この時代はいくら恰幅よくても、僕たちより背が高い男はそうそういない。

 まぁ、この人が元締だとして、25人もの男を配下にして、自宅をセントラルキッチンにして経営している男が、馬鹿なお人好しであるわけがないよな。

 江戸のこの時代では、相当のやり手であることは間違いないだろう。


 ただ……。

 不本意ながら、あまりに海千山千の金持ちたちと付き合い続けてきた僕たちからしてみれば、そう怖いとは思えない。

 いわゆるその道のプロ、それも歴史の中で洗練されてきた連中に脅されてきた僕たちからしてみれば、まだまだヌルいよね。

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