第252話第百七十九段 入宋の沙門、道眼上人

(原文)

入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、ことに首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号す。

その聖申されしは、「那蘭陀寺は大門北向きなりと、江師の説とて言ひ伝へたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、さらに所見なし。江師は如何なる才覚にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺は北向き勿論なり」と申しき。


※道眼上人 延慶2年(1309)年ごろ元に渡った禅僧。詳細不明。ただ、この時点は宋ではなく元の時代。

※一切経:仏典。7000巻ある。あらゆる分野の経典をまとめ分類もなされている。

※やけ野:位置は未詳。七条大橋を東に渡った北側と推定されている。

※首楞厳経:『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』の略。禅の根本を説く十巻の経典。

※那蘭陀寺:未詳。首楞厳経の別名が「中印度那蘭陀大道場経」であったことに由来するもの。インドの那蘭陀寺はマガダ国の首都王舎城の北にあった。五世紀の創建。インド仏教の中心地として栄えた。

※江師:大江匡房(1041-1111)正二位権中納言大宰権師。博学・多芸で知られる。

※西域伝:唐の玄奘三蔵の旅行記。

※法顕伝:東晋の法顕三蔵がインド・西域を旅行した時の記録。

※西明寺:唐の高宗が玄奘三蔵に命じて長安に建てた大寺。日本の大安寺のモデルとなった。


(舞夢訳)

入宋をした沙門の道眼上人は、一切経を持ち帰り、六波羅あたりのやけ野と言う場所に安置した。

その中でも、特に首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号した。

その上人が言っていたことは、「那蘭陀寺は大門が北向きに設置されていると、江帥の説として言い伝えられているけれど、それは西域伝にも法顕伝にも見たことがないし、文献上には全く所見がない。江帥はどのような所見により、そんなことを申されたのか見当がつかない。中国の西明寺が北向きになっているのは、勿論のことである」とのことである。



大江匡房の「大門を北に」の話は、藤原頼通の質問に答えたもの。

頼通は平等院の建立にあたって、地形上どうしても大門を北向きにせざるを得なかった。そこで博学で知られる大江匡房に確認したところ、インドの那蘭陀寺、中国の西明寺、日本の六波羅蜜寺の三つは大門が北向きとなると答えた。しかし、どれも文献による根拠が無い。頼通の期待に添うべく無理やりに北向きと言ってしまったようだ。

それを道眼上人が批判した説となる。


権力者に都合がいいように、適当なことを言って、それが世間にも定着してしまったのだろうか。

いつの世でも、世渡名人はいるけれど、確かな知識を持つ人から見れば、間違いは間違い。

批判したくなるのも、道理である。

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