第115話第八十二段 うすものの表紙は

(原文)

「うすものの表紙は、とく損ずるがわびしき」と人の言ひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりて覚えしか。

一部とある草子などの、おなじやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具にととのへんとするは、つたなきもののする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。

「すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。し残したるを、さてうち置きたるは、面白く、いき延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず作りて果てぬ所を残す事なり」と、ある人申し侍りしなり。

先賢のつくれる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。


(舞夢訳)

「薄い織物を使った表紙は、すぐにいたむのが困る」と誰かが言ったところ、頓阿が「うすものの表紙は上下がほつれてから、螺鈿の軸は貝が落ちてしまってからが雰囲気が出る」と反論した。

まさに、その意見には感心させられた。

それと、何冊かで一部になっている草子などについて、全ての冊の体裁がきちんと整っていないと見苦しい思うのが常識のようになっているけれど、弘融僧都が「物を全て完璧に整えようとするなどは愚かな人のする事である。不備があるほうがよいのだ」と言った。

その意見にも感心させられた。

「全てが全て、物事が完璧に整っているのはよくないことである。やり残したことをそのままにしておくほうが、より面白いし、心がなごむ。内裏を造る際にも、必ず未完成の部分を残す」とある人が言っていた。

過去の賢人が書いた内典・外典の類にも、章段が欠けている場合が実に多い。


※頓阿:時宗の僧。兼好の友人。和歌の名人。

※弘融僧都:兼好の友人。兼好より四歳ほど年下。仁和寺の僧。



確かに整い過ぎていると、余裕を感じないという面がある。

難しいのは日本人ならではの「丁寧で完璧」を求める意識。

少しでも、傷や痛みがあると、二束三文扱い。

ある意味、心に余裕がない、狭いのか。

崩れかけたもの、散りはじめた花の美しさ。

未完成のものの面白さは、その完成形を想像する面白さか。


人間でも同じだと思う。

完璧でとりつくしまもない人よりは、少々欠点があるほうが愛嬌を感じる。


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