第107話第七十五段 つれづれわぶる人は
(原文)
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。
まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世にしたがへば、心、外の塵にうばはれてまどひやすく、人にまじはれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。
人に戯れ、ものにあらそひ、一度はうらみ、一度はよろこぶ。
その事定まれる事なし。
分別みだりにおこりて、得失やむ時なし。
惑ひの上に酔へり。
酔の中に夢をなす。
走りていそがはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし。
いまだ誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を閑にし、ことにあづからずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。
「生活・人事・伎能・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。
(舞夢訳)
所在なさに困惑する人とは、どんな心持ちなのだろうか。
世間とか他人に余計な心配を持たず、ただ一人やりたいようにしていることが、一番である。
世間の流れに従って生きていると、その塵の多さに左右されて迷いが生じやすいし、他人とのお付き合いをするとなると、口に出す言葉も相手の心情を配慮することになって、自分の本音などどこにあるのかわからなくなる。
そして、人と戯れ、争論をし、恨むこともあるし、喜ぶこともある。
結局、安定した心などは持てない。
様々な思いが、不意に起きるようになるし、損得を常に気にするようになる。
迷いの上に酔う。
その酔いの中に、夢を見ているようなものだ。
常に動き回って忙しく、自分自身を見失う、全ての人は同じようなものである。
いまだに真理に至る仏道を理解していなくても、世間の縁から離れ、その身を静謐な場所に置く。
世事に関わらず、心の安定を得るとすれば、ただ一時の人生であったとしても、心が満たされるというものでである。
「生活・人事・技能・学問のあらゆる縁をやめよ」と、摩訶止観にも書かれていることである。
※摩訶止観:天台宗の根本聖典。摩訶とは大という意味。止観は「心を静めて物事を正しく観る」という意味。
これも兼好氏の遁世を勧める段になる。
世事にあくせくして、自分自身を見失うよりは、遁世して心静かな生活をおくるほうが、まだましであるとの意味だろうか。
兼好氏のように、何もしなくても、所領からの収入で暮らしていければ、それも可能だけれど、普通の人はそうはいかない。
摩訶止観の「生活・人事・技能・学問のあらゆる縁をやめよ」も、無理。
それを意識しなければ、縁を結ばなけば、生きていけないのだから。
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