第11話第七段 あだし野の露消ゆる時なく

(原文)

あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。

世はさだめなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。

かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。

あかず惜しと思はば、千年を過すとも一夜の夢の心地こそせめ。

住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。

命長ければ辱多し。

長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、栄ゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。


(舞夢訳)

あだし野の露がすぐに消えてしまうことがなく、鳥辺山の煙がいつまでも残っているとしたら、情趣などはありえない。

この世は、無常であるからこそ、尊いのだと思う。

全ての生き物を見るにつけ、人間ほど長生きをするものはない。

朝に生まれ、その夕には命を終えるかげろうや、夏のみに生きて春や冬を知らない蝉のようなものもいる。

心を込めて暮らすとならば、一年限りの間であっても、この上なく、のどかなものではないだろうか。

いつまでも長生きをしようと思うのなら、たとえ千年生きたとしても、一夜の夢のような虚しさを感じるだろう。

そもそも、やがては去らねばならないこの世に執着して、醜くなった老境をさらして、それが何になるのだろうか。

長生きをすれば、その分だけ、恥をかくことも多くなる。

長くて四十足らずで死ぬのが、恥ずかしくないところだろう。

その年代を越えて、自らの醜くなった容姿への羞恥心など気にもせず、人前に出たがる、余命もほとんどないのに子孫に執着する。

彼らが成長した将来を見届けられるような長生きを願い、ただただ、執着を持ち続けて、人としての情趣を理解することなくなっていくなど、実にあさましいことである。


※あだし野:「化野」とも書く。嵯峨野の奥、小倉山のふもと。風葬の地だった。

※鳥辺山:清水寺南の丘陵。火葬の地。


兼好氏が何歳の時に書いたのかはわからない。

ただ、兼好氏は40歳を過ぎ、70歳前後まで生きたとされる。(詳細は不明)



確かに若くし美しい時に死ぬと、美しいままの印象が世に残る。

何歳になっても強欲で品がない人よりは、ましだろう。

自分自身の内的充実などは、何も気にかけず、ただただ、表面的な外面的な美観やら要望に執着し続ける、「醜い老人」のなんと多いことか。

それは古代日本であっても、兼好氏の生きた中世日本、そして我々の現代日本でも変わりはなく、世界に目を向けても同じこと。


さて、この段中の、「世はさだめなきこそいみじけれ」は、本当に名言。

この無常の世、いつ何があってもおかしくない世、あっと言う間に滅びる、命まで落とすかもしれない、そんな世であるからこそ、尊いと言う。

この考え方は、仏教の無常観に根本を持ち、「一期一会」にも深く通じている。

いつ、どうなってしまうかわからない、だからこそ、将来を慮るよりは、まず、今を大事にしよう、目の前のこと、目の前のあなたに、出来る限りの誠心誠意を尽くそうという考えに通じている。


私にとって、この言葉は、一人の人間として、忘れたくない言葉の、一つである。






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