第145話第百六段 高野の証空上人

(原文)

高野の証空上人、京へのぼりけるに、細道にて、馬に乗りたる女の行きあひたりけるが口引きける男、あしく引きて、聖の馬を堀へおとしてげり。

聖いと腹悪しくとがめて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくのごとくの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曽有の悪行なり」と言はれければ、口ひきの男、「いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ、非修非学の男」と荒らかに言ひて、きはまりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。

尊かりけるいさかひなるべし。


(舞夢訳)

高野山の証空上人が、京にのぼる時に、細い道で、馬に乗った女と出会った。

すると、女の馬を引く口取りの男が、馬の手綱を下手に引き、証人の馬を堀に落してしまった。

すると上人は、激怒立腹して相手をとがめ、

「なんというありえない狼藉だ。四部の仏弟子と言うものは、比丘より比丘尼が劣り、その比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷が劣るのである。お前は、そんな程度の低い優婆夷の分際で、私のような比丘を掘に蹴り入れるなど、聞いたことのない悪行だ」

と言うと、相手の女の口取りの男は、

「何をおっしゃっているのか、全くわかりません」

と答えた。

上人は、ますますの激怒にかられ、

「お前は何を言っているのか、修行を積んだことのない無学の男のくせに」

と、荒々しく言い放った。

それでも、きわまりない方言をしてしまったのと思ったようで、馬の向きを変えてお逃げになられたとのこと。

なんとも、尊い御叱責であったようだ。


※証空上人:伝未詳。同名の僧侶が多い。

※聖:上人。

※四部の弟子:仏の弟子を四種に分け、総称した言葉。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷からなる。比丘(男)と比丘尼(女)は、出家して受戒し、僧侶となった人。優婆塞(男)、優婆夷(女)は、在俗のまま、仏教に帰依する人。



中世の交通トラブルで、偉いお坊さんが、無学の男に「身分違いだ」と叱責するけれど、あっさりと「さっぱりわかりませんな」と言い返され、また怒りながらも、結局はスゴスゴと引き返したという話。


最後の「なんとも、尊い御叱責」が、皮肉である。

そもそも、馬を落とされた程度で冷静さを失う、怒るなど、修行を積んだ仏弟子として、ふさわしくない。

「怒りを抑える」ことも、僧侶の戒として、大切なことなのだから。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る