第76話第五十三段 これも仁和寺の法師(3)

(原文)

医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。

ものを言ふもくぐもり声に響きて聞えず。

「かかることは文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、又仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引き給へ」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻かけうげながら抜けにけり。

からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。


(舞夢訳)

医師の屋敷に入り、対面している様子など、実に異様である。

の中からの声なので、何を言っても、こもってしまって聞き取れない。

そして都の医師は、

「こんなことは、医学書には書かれていないし、治療法など教わったことがない」

と、言うので、仕方ない、また仁和寺に帰った。

日頃親しくしている者たちや、老いた母が、枕元に集まって泣いて悲しむけれど、当の本人には、その声が届いているのか、まったくわからない。

そうこうしていると、ある者が、

「こうなってしまったら、たとえ耳や鼻が切れて無くなってしまっても、命だけは助かるだろう」

「ただただ、力で引き抜こう」

と言ったので、わらしべを周りに差し入れて、首がちぎれるくらいに力を込めて引っ張った。

耳と鼻が取れてしまい、その跡には穴が開くほどの状態ではあったけれど、とにかく抜くことはできた。

そのようなことで、かろうじて一命はとりとめたけれど、この時の傷は、長らく治らなかったと言われている。



頼みとした都の医師にも見捨てられ、また仁和寺に、スゴスゴと戻る。

枕元には、仲間や老母まで、心配して集まっている。

「耳や鼻が切れて無くなっても、力で抜いたらどうか?」

ある者が言った言葉は、残酷と言えば、そうなる。

しかし、そうでもしないと、息は苦しいし、食物を取ること、目が見えず、話をしても何を言っているかわからない状態が続くし、やがては、そのまま衰弱して死んでしまうのが必定。

まさか、かなえを被ったまま、死ぬのも、しのびないだろう。

残酷なようで、窮余の一策である。


そして、耳や鼻は、なくなったにせよ、一命はとりとめた。

それと、かなえを被ったままの、奇妙な死体になることだけは、避けられた。


これを因果応報の仏罰と捉えるか、命だけは助けてくれた仏恩と捉えるのか、それは、それぞれの考え次第だけど、やはり、両方と捉えるのが、正解かもしれない。

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