第206話第百四十三段 人の終焉の有様の
(原文)
人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ、しづかにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく異なる相を語りつけ、言ひし言葉も、ふるまひも、おのれが好むかたにほめなすこそ、その人の日来の本意)にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。
博学の士もはかるべからず。
おのれたがふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。
(舞夢訳)
人の最期の尊い様子を、他人が語るのを聞いていると、ただ、静かで取り乱していなかったと言うなら、それだけでも感心させられるのに、愚かな人は、不思議で異変が起きていたような様子を語り添え、故人最期の言葉や振る舞いまで、自分に都合のいい方向に引きつけて誉めたりする。
しかし、そんなことは、その故人が生前中に持っていた意思ではないと思う。
この人の最期という大事は、神仏の化身と言われるような人であっても、その判別は不可能。
博学の人でも、予測は不可能である。
当人が、日頃の本意のまま終えられれば良いのであって、他人が見聞した様子によって、良い悪いを決めるべきではないのである。
その人の最期に、光る雲が現れたとか、不思議な香りが漂ったとか、様々な奇蹟が起きたというような人がいたのだと思う。
しかし、兼好氏は、それに嫌悪感を示す。
余計なことを言わず、静かに往生させればいい。
勝手に大騒ぎをするのは、大騒ぎしたい人の自分勝手で、命を終える人には実に迷惑千万。
自分の死に様とて予測がつかないのに、他人の死に様で良い悪いを言うなど、これも不見識で傲慢の極み。
ただ、兼好氏の言うことなど、全く考えていない僧侶は、今でも多い。
悲惨な死に方をするのは、「生前の行いが悪く、寺への布施が少なかったから」と説教をする。
情けないことながら、それが宗教界の大半。
宗教界というよりは、死後の不安をあおる恐喝集金界と言う人もある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます