第82話第五十八段 道心あらば(1)

(原文)

「道心あらば、住む所にしもよらじ」

「家にあり、人に交わるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。

げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でんと思はんに、なにの興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。

心は縁にひかれてうつるものなれば、閑ならでは道は行じがたし。


(舞夢訳)

「仏道を求める心があるならば、必ずしも住む場所にこだわりを持つ必要はない」

「自らの家に住み、世間の人と交わりを持ったとしても、来世での往生に支障などはない」

と言う人があるけれど、来世ということを全く理解していないと思う。

現実問題として、この世のはかなさを感じ、必ず生死に迷う世界から脱却しようと思う人であれば、朝夕主君に頭を下げるとか、家事の様々な営みに熱心に取り組むだろうか。

心は、縁というものに導かれて移り変わるものであるので、静けさの中にいないと、なかなか仏道を修行することは困難なのである。



「仏道を求める心があるならば、必ずしも住む場所にこだわりを持つ必要はない」

「自らの家に住み、世間の人と交わりを持ったとしても、来世での往生に支障などはない」

この考え方は、在俗のままでも、仏道を立派に行うことができるとした、維摩居士のもの。

確かに、御仏の前には、清浄、不浄などの区別はないし、仏を求める心があれば、あるいは念仏一つでも、往生が約束されている。

しかし、兼好氏は、それを、問題をはらむとする。

現実社会では、上下関係があり、必ずしも仏道に沿ったことばかりを行うことができないし、家事やら何やら様々な雑事がある。

そうなると、気が落ち着いた状態で仏道など出来ないではないか、いい加減な修行になってしまうのではないか、だから静かな環境の中で、仏道修行をするべきとの意味だと思う。



さて、この兼好氏の考え方には、コメントが難しい。

一遍上人曰く、「疑いながら念仏を唱えても、往生する」を考えてみると、懸命に修行したから、往生するのではないということ。

阿弥陀如来は、念仏を唱える人の状態にかかわらず、阿弥陀如来の誓いに基づき、もれなく救いの手を差し伸べるのである。

そもそも、阿弥陀如来は、救いにおいて、清らかな場所が確保でき、懸命に修行を積むことが出来る人を優遇するわけではない。


実際は、生活や生活をささえるべき仕事に追われ、「清らかな場所で懸命に修行を積む」などは、世俗の人には無理なのである。

そもそも、そんなことができるのは、僧侶とか、世捨て人の兼好氏のような人たちだけになる。

そして、そんな考え方をするほうが、より問題があるのではないだろうか。



この段の兼好氏の考え方については、訳者としては、納得が出来かねるので、いずれ往生したら、尋ねてみることにする。



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