第83話第五十八段 道心あらば(2)

(原文)

そのうつはもの、昔の人に及ばず、山林に入りても餓をたすけ、嵐をふせくよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たる事も、たよりにふればなどかなからん。

さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。

さすがに一度道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、藜のあつもの、いくばくか人の費)をなさん。

求むる所はやすく、その心はやく足りぬべし。

かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善にはちかづくことのみぞ多き。

人と生まれたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。ひとへに貪る事をつとめて、菩提におもむかざらんは、万の畜類にかはる所あるまじや。


(舞夢訳)

今の世に生きる人は、その器量が過去の人には及ばない。

山林に入ったとしても、餓えをしのぐとか、強い風から身を守る技術なしには、生活を続けていくことが困難であり、そのままの姿を見られれば、世俗に染まっていると判断されてしまうことも、場合によっては無きにしも非ずと思う。

しかし、そうだからと言って、

「そんな姿では、遁世した意味などない」

「そんなことをするなら、何故、遁世したのか」

と批判してくるのは、間違いと思う。

そもそも、一度決心をして、仏道に入り世間を捨てようとするくらいの人となると、それはある程度の欲望ぐらいはあるにしても、世間に跋扈する強欲の人々とは、次元が違うのである。

紙で作った夜具。、麻で編んだ衣、ほんの一鉢の食物、あかざの飲み物程度であるならば、たとえ物乞いをしたとしても、ほとんど他人に迷惑はかけないと思う。

簡単に手に入る物であるし、手に入りさえすれば、その時点で心も満ち足りることになる。

そもそも、遁世者としての自分のあるべき姿を常に意識しており、その身を慎むべきと思っているのだから、多少の欲望を持つとしても、悪行からは遠ざかることにもなり、善行には近づくことが多くなるのである。

人間として生まれた以上は、そのしるしとして、何とかして遁世するのが理想なのだと思う。

欲望だけに捉われて、悟りへの道を歩かないのは、世の動物類と全く違いがないのではないだろうか。



「遁世したのだから、世間とは全く隔離して、完全自給自足を貫け」

「世間の人に、物乞いをするなど、とんでもないことだ」

などと言って、遁世人に厳格な生活を要求する人がいたのだろうか。

それに対して、兼好氏は、「程度の問題ではないか」と、反論する。

強欲に利益や名誉を求め、他者からの簒奪も平気な人々が跋扈する中、少々にして必要最小限の物乞いをして、何の問題があるのかと言う。


さて、兼好氏は、この段の最後に、「人はみな遁世を目指すべし」などと、ある意味過激で現実離れしたことを書いている。

その前の文から推察するに、「遁世人に厳格要求する人たち」から、兼好氏自身の、もしかすると「のん気で優雅な生活」に対して、相当な皮肉でも言われたのではないだろうか。


「兼好さん、世捨てをなさったとおっしゃられますけどな、案外裕福やな、お気楽でええな、吉田家からも何やらいただいているんちゃうか?」


それで、

「いや人は、遁世を目指して、清廉に暮らすべきなんだ、(吉田家から多少は入るけれど、たいしたものではない)。あなたたちみたいな強欲ばかりの人たちは、そこらの動物と一緒の類だ」

と、反発したのではないだろうか。


あくまでも、訳者の推察に過ぎないけれど、どうもそんな感じがする段である。


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