第118話第八十五段 人のすなほならねば
(原文)
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。
されども、おのづから正直の人、などかなからん。
おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。
至りて愚かなる人は、たまたまた賢なる人を見て、これを憎む。
「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名を立てんとす」とそしる。
おのれが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを賢といふべし。
(舞夢訳)
人間の心というものは、素直で単純というだけではないので、嘘や偽りがないわけではない。
しかし、時々には、正直な人がいないとは、言い切れない。
自分が素直ではなくても、他人の賢さを見て、うらましく思うのは、この世の常である。
しかし、愚かさが極まるような人の場合は、ふとした折りに賢い人を見て、これを憎む。
「大きな利益だけを欲しがり、少々の利益などは受け付けない」
「それは、表面だけを偽って、名声を得ようとするのだ」
などと、悪口を言う。
要するに賢人のすることが自分の気に入らないので、こんな程度の低い悪口を言うのである。
このような人は、生まれつきの愚か者であって、何ら向上することができない。
そして、うわべを取り繕って、少々の利益を遠慮することもできない。
かりそめにも賢い人からは、何も学ぶことができない程度の人なのである。
そもそも、狂人の真似をして、都の大路を走れば、その人はその時点で狂人なのである。
悪人の真似をするといって、他人を殺すのならば、悪人そのものである。
驥をめざす馬は、驥の同類であるし、舜に教えを求めれば、舜の仲間である。
偽りであっても、賢人の行為を模範とするならば、賢人と言える。
※驥:一日に千里を走る馬。
※舜:古代中国の伝説的聖帝。
※徒:同類、仲間。
人の心の難しさを綴っている。
他人に対する評価が、しっかりとできない。
常に、自分より上位の人を嫉妬し、難癖をつけて、引きずり下ろそうとする。
そんなことをしていながら、自らの向上努力など、いい加減なもの。
かくして、程度が低いまま、何ら成長がない。
古代ローマの賢人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉を思い出した。
「貧乏が罪なのではない、貧乏から抜け出す努力をしないことが罪なのである」
また、いつまでたっても仕事に向上が見られない人の特徴として、
「何でも他人や環境のせいにする、自分は悪くない」と強弁する。
「仕事の段取りを何年たっても立てられず、後輩に指導をされ逆ギレ」し、周囲を呆れさせるなどがある。
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