第190話第百三十七段 花はさかりに、月はくまなく(4)
(原文)
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなおざりなり。
片田舎の人こそ、色こく万はもて興ずれ。
花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手足さしひたして、雪にはおり立ちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見る事なし。
(舞夢訳)
そもそも、月や花は、目だけで見るべきものなのだろうか。
春は家から外に出ず、月の夜は寝室にこもりながら、その様子を思い浮かべることこそが、実に深い風情を感じるのではないかと思う。
風情を解するという人は、あからさまにそのようなものにとらわれることもなく、愛でる雰囲気もそれを気づかせない。
それに対して、片田舎の人は、全てしつこいほどに楽しもうと大騒ぎをする。
花の木があれば、他人を押しのけて近寄り、周囲におかまいなく花をいつまでも独占状態で見入り、酒を飲み連歌まで始めて、ついには大きな枝を、無神経にも折り取ってしまう。
清らかな泉には、その手足を浸してしまうし、雪が美しく積もれば降り立って足跡をつけてしまうなど、よそながら見るということを全く理解していないし、そうすることもない。
これも、徒然草全段の中、白眉の部分と思う。
「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは」
「よそながら見る」
直接、美しいものを見るだけが、風情なのではない。
見えない美しさを思い浮かべることが、実に深い風情であるということ。
少し離れた位置から、ゆっくりと、ひそやかに、その対象を愛でることが風情であると兼好氏は述べる。
それに対して「片田舎の人々」の描写は、実にリアル。
そのような行為は、現代でも、見かけるけれど、実に下品。
兼好氏でなくても、同席は遠慮したくなる人々である。
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