第85話第五十九段 大事を思ひ立たん人は(2)
(原文)
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。
身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。
命は人を待つものかは。
無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
(舞夢訳)
近所で火事が発生した場合、逃げる人が、「もう少し様子を見よう」などと言うだろうか。
我が身を助けようとすれば、恥ずかしいなどとは言っていられない、財まで投げ捨てて逃げるものである。
命は、人間の都合など待つことはないのだから。
定めなき運命は、水や火に襲われるよりも、迅速であって逃れることはできない。
その時になれば、老いた親、いとけなき子供、主君の恩、他人からの情けまで、捨てたくなくても、捨てる以外にはないのである。
兼好氏の出家論の結論となる。
世は無常、人間の命も、いつ何時どうなるのかわからない。
自分の命が消え去る時に、老いた親も、可愛い子供も、主君も、友人も消え去ってしまう、どうにもならないではないかということ。
だから、出家を決めたなら、即出家せよとの、論である。
なかなか、現代人には難しい出家ではあるけれど、兼好氏は、出家ができないと、往生もできないと考えていたのだろうか。
そうなると、出家ができない、ほとんどの人間は、救いなど得られず、苦しみ続けることになるのではと思う。
そして、それが本当に、御仏の考える仏道なのか。
「衆生を救う」という阿弥陀如来の誓いは、出家した清らかな人を救うという意味ではない。
この無常の世に苦しみながら、救いを求めて阿弥陀如来の名前を呼ぶ、全ての衆生を漏れなく救うという誓いである。
他人に迷惑をかけても出家して、謹厳実直に仏道修行に励まないと、「往生をさせない、救わない」など、そんな指導を兼好氏に行なった仏道の師匠でもいたのだろうか。
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