1:問われないビル
たったの数日で、そのビルの異常性というものを竜昇は嫌と言うほど認識させられた。
実際、調べれば調べるほど異常な建物である。いや、そもそもの出現状況、街中に何の前触れもなくいきなり超高層ビルが出現したという時点で、これ以上ないほどに異常な事態なのだが、しかしことによるとそれに輪をかける異常な事態が調査の結果として明らかになった。
いつのころからだったか、竜昇はこのビルのことを【不問ビル】と呼称するようになっていた。
問われることが無い。不問にされている。そんな言葉ほど、この【不問ビル】にまつわる異常な状況を言い表すに相応しい言葉はない。
推定される高さはおよそ三百メートル。もちろん、竜昇が簡単に計測しただけのおおよその高さだが、それでも見間違いようもないほどの世界的超高層建築物であるはずのその建物は、しかし異常なほど周囲の、竜昇以外の人間に注意を向けられていない。
見えていない、と言うのとは少し違う。実際、竜昇が聞いて回った周囲、学校の友人や家族などに問うた限りでも、ビルの存在そのものは誰もが認識しているようなのだ。
だが、そのビルについて問うた時、帰ってくる反応は酷く淡白だ。
地上三百メートルと言う、本来ならば誰もが注目してしかるべき大きさの建物だというのに、【不問ビル】について聞かれた人間は皆一様に『ああ、そういえばあったな』と言うような顔をする。
ビルの巨大さはおろか、そのビルが突如として現れたものであると、そのことすらも認識しているはずなのに、まるでそれがとるに足らないことであるかのように、周囲の人間たちは焦燥に駆られる竜昇の表情に首をかしげるのだ。
しかも、そんな反応を返すのは竜昇の周囲の人間だけではない。
地上三百メートルもの高さがあるということは、当然そのサイズ見合っただけの影が地上に差す訳で、住宅の多いこの近辺にそんな影が生まれれば当然日光のほとんどを遮られてしまう家庭というものが現れる。
甚だしい日照権侵害と言う、そんな事態に直面している近隣住民ならばあるいはと思い、ビルの影になる地域を訪ねてみた竜昇だったが、しかし返って来た反応は決して芳しいものではなかった。
ならばと思い切り、今度はそうした人権侵害の事実を役所に行って訴えてみた竜昇だったが、しかしこちらの反応もやはり芳しくない。
一応日照権の問題などの建築関係の法律違反は向こうも認識してくれるのだが、しかし対処するべく動き出す様子もなく、まるでその自覚もないままに、誰もがビルの存在を有耶無耶にしようとしているかのようだった。
「なんなんだよあの建物、なんで誰もあれをおかしいと思わないんだよ……!!」
誰にも興味を持たれない、そんな周囲の反応に苛立つ竜昇だったが、しかし彼が胸に抱く焦燥を周囲は誰も理解できない。
自分の常識と周囲の反応、そのどちらが正常なのか、それすらもだんだんとわからなくなり、それでも己の認識にしがみつくような気分で【不問ビル】について調べ続けて、そうして十日が過ぎたころのことだった。
誰も見向きもしないはずのそのビルの足元で、ビルを睨むように見上げて立つ少女の姿を竜昇が見つけたのは。
その姿を見止めた時、竜昇はちょうどジョギングの真っ最中だった。
学校から帰ってジャージに着替え、小銭入れやタオルなどの最低限のものをウエストポーチに詰めての走り込み。
とは言っても、その目的は陸上部の部活動でも体を鍛えることでもなく、言ってしまえば【不問ビル】の監視である。
それとて何らかの成果を期待してと言うわけではなく、どちらかと言えば【不問ビル】の調査に行き詰った竜昇が、せめてもの抵抗として始めた悪あがきの意味合いが強かった。
地上三百メートルと言う、全国的に見ても有数の建物達と肩を並べられる高さを持つ【不問ビル】だが、巨大なのは高さだけではなく、その敷地面積の方も相当な広さがある。
百メートル角の正方形を底面に、地上三百メートルまで伸ばした四角柱の形をした【不問ビル】だが、実はその根元部分にはビルからおよそ半径百メートルほどの円形状の巨大な広場が広がっている。
竜昇のジョギングは、この【不問ビル】周囲の広場からさらに距離をとり、通り一つ分外を回るというコースをとっていた。
余談だが、それだけの面積の土地を一体どうやって確保したのだろうかと、以前竜昇はそんなことを考えてこの周辺を調査したことがある。
もっと言えば、この場所に立っていたはずの建物はどこに行ったのか、あったはずの建物が消滅し、暮らしていた人間すら消え去って、この【不問ビル】はそれらを塗りつぶすように現れたのではないかと、そんな恐ろしい想像すら抱きながらの調査だったのだが、しかしそんな竜昇の予想は非常に嫌な形で裏切られることになった。
少なくとも確認できた限りにおいて、【不問ビル】の出現によって消滅した家屋は存在していない。【不問ビル】の足元には以前からあったコンビニが今も存在していて、その隣にあったはずのラーメン屋は【不問ビル】のちょうど向こう側で何事もなかったかのように営業しているのである。
まるで建物と建物、土地と土地、その間の空間を裂いて割り込んだかのような不可解な立地。
すぐ近くにあったコンビニが突然遠方に追いやられたら普通なら不便に感じて怒り出す人間も出そうなものだが、しかしやはりというべきか、竜昇の知る限りそのような怒りを抱いた、あるいは抱くことができた人間と言うのは存在していないようだった。
この日も、ビルの周囲の人間は普段と変わらぬ様子で生活しており、竜昇はまるで織姫と彦星のようにコンビニと引き離されたラーメン屋の様子を横目に確認しつつ、コンビニと離れてしまったことで営業などに差しさわりはなかったのかと、そんなことすら気にして走っていたのだが。
ふと、走りながら視線を広場へと移した際、竜昇は昨日までなかった何かがそこに存在しているのを目にしてしまった。
思わず、【不問ビル】へと続く道の真ん前で足が止まる。
(……なんだあれ……? 昨日まであそこには何も置かれてなかったはず……)
広場とは言いつつも、しかし不問ビルの根元に広がるのは何もない、本当に何も置かれていないただの土地だ。噴水やらベンチやらと言った憩いの場所としての設備など何も置かれていないし、ビルの名前を示す看板やらビルの入り口を守る守衛など、ビルの正体を探る手がかりになりそうな物も何もない。ただ一面石畳が円形に敷き詰められただけのだだっ広い空間が、ビルを中心に広がっているだけなのである。
ただしそれは、あくまで昨日までの話だ。
今はビルの入り口のその前に、昨日まではなかった何かが立っている。
(銅像? いや、って言うよりもむしろあれは……!!)
人間か? と思考して、即座に竜昇はそんな馬鹿なと、すでに諦めていたその可能性を否定する。
これが普通のビルが相手であったならば、竜昇とてあれが人であるという可能性をこんなにも疑いはしなかっただろう。
だがここは、誰にも問われず、興味を抱かれることの無い不問ビル。
少なくとも今までは、竜昇が促した時以外で、あれに態々視線を送る人間など一人もいなかった。
そんな建物を見つめる人間などいるはずがないと、無意識にそう思い込んで諦めていた竜昇だったが、しかし目を凝らしてみれば見るほど、広場に見えるそれは見紛う事なき人影だった。
(……人間だ。あれは、確かに人間だ……!! 本当に人間があのビルを見上げてる……!!)
少なくない衝撃が竜昇の全身を駆け抜ける。
そうと気づいたその瞬間には、竜昇の足は自然にビル根元の広場に向かって歩き出していた。
自分でも意外に思う反応だった。具体的に想定したことはなかったが、しかしそれでも竜昇は、同じように【不問ビル】の存在に疑念を抱く人間に会えた時、自分はもっと理性的に動けるものだろうと思い込んでいた。
だが実際は、まるで灯りに引き寄せられる虫のようで。
踏み込むその前にそれを自覚し、竜昇の足が広場の十メートルほど手前でぴたりと止まる。
(落ち着け、がっつきすぎだぞ)
大きく息を吐き、迂闊に近づこうとする己の気分を一度落ち着かせる。
自分はこんなにも同類に餓えていたのかと、そう自嘲しながら、しかし竜昇はすぐさま近くの建物の影へと身を隠し、その同類“かもしれない”人影をじっと観察することにした。
幸いある程度近づいたおかげで、問題の人物の背格好などは先ほどよりも良く見える。
(……あれは、どこかの制服か?)
驚いたことに、ビルの前に立つ人物は竜昇と同年代の、学校の制服に身を包んだ少女のようだった。
しかもその制服には竜昇も憶えがある。ここからそう離れていない、電車で数駅のところにある霧岸女学園と言う女子校の制服で、竜昇自身電車に乗るたびに頻繁に見かける格好だった。
(霧岸の生徒……? あんなお嬢様学校の生徒が何で……、いや、なんでって言うのはこの際あんまり問題じゃないか。むしろ問題なのは――)
――何のためにあそこにいるのだろう。
そんな疑問と共に、竜昇はもう一度そこに立つ少女の姿を見つめ、観察する。
探し求めていた不問ビルを意識する人間を前にして、竜昇がなおもすぐには近寄らず、足を止めたのは、一つにはあの少女が“ビルの側の人間”である可能性を考慮したからだった。
いくら不可解な現れ方をした建物であるとは言っても、一応人工物の形をとっている以上、この建物の“関係者”とも言える人間は存在しているはずである。
その人間がいったいどんな意図を持ってこんなビルを出現させたのかはわからないが、しかし仮に何らかの企みを持っての行動であった場合、ビルの存在に関心を持つことのできる竜昇が迂闊にその存在を知らしめてしまうのはあまり賢い選択とは言えないはずだ。
考えたくもない可能性だが、仮に竜昇が『ヘイ彼女、君もこのビル気になんの? 偶然だねぇ俺もなんだよ、ちょっとそこでお茶しない?』などと言って声をかけたら、あの少女が『そうですか、では口封じです。グサリ』とこちらを殺しにかかって来る可能性も否定はできないのである。
ただ、そんな警戒を抱きつつも、竜昇は見える少女の後ろ姿から、何というか、ただならぬ気配のようなものを感じていた。
両出で鞄を前に下げ、じっと己の目の前にあるビルを見つめる一人の少女。
いや、感じられる雰囲気では見つめているというよりも睨んでいると言った方が印象としては近い。
背中から感じる少女の感情は、ただの興味や観察とは明らかに違う、怒り、あるいは敵意。
まるで不倶戴天の仇でも見つめるようにビルを見上げていた少女は、しかしすぐにその不穏な気配を収め、替わりに竜昇も想像していなかった大胆な行動へと打って出た。
(――っておいおいおいッ!! 嘘だろ!?)
竜昇が見守るその先で、少女は視線をビルの正面口へと向けなおし、まったく迷いの感じられない歩調でその場所目指して歩き出す。
(おいおい、乗り込むつもりなのか!? こんなわけのわからないビルに、たった一人で――!?)
不問ビルに直接乗り込む、と言う選択肢は、竜昇とて一度も考えなかったわけではない。むしろその方法は、ビルについての情報が周囲の人間から得られなかった時点で、ある種の最終手段として常に頭の中にあった選択肢だ。
ただ、それはあくまでも最終手段。実行には流石に躊躇していたのが現実である。
なにしろこのビルはまったくもって得体が知れない。突如現れたにもかかわらず興味すら抱かれないという異常性は、行ったはいいが帰ってこられなくなるという、そんな危険な可能性をいやでも彷彿とさせていた。
だというのに。問題の少女は何ら躊躇することなく、ビルの入り口へとどんどん歩いて、近づいていく。
(どうする、今からでも追いかけて止めるか……? いや、この距離じゃもう間に合わない。声もこの距離じゃ届くかどうか……。ならほっとくか? ビルの関係者って線を考えるなら確かにそれが一番だが、けどそれは――!!)
一瞬の間に、迷いと躊躇が竜昇の脳内で暴れまわる。
保身を考えるなら、ビルの中へと入らなくとも広場に足を踏み入れることすら避けた方がいい。
なにしろこの広場には、見ている限りではほとんど誰も足を踏み入れていないのだ。その癖一切隠れる場所などないから、一度広場に足を踏み入れてしまうと、こちらの姿がビルの中から丸見えになってしまうのである。
もし仮にビルの中に悪意ある人間がいた場合、広場に足を踏み入れるということは、その相手に自分の存在を堂々と宣言するようなものなのだ。だから竜昇も、直接踏み込むという選択肢を思いつきながら、不用意に近づくようなまねはこれまでことごとく避けてきた。
だが今目の前には、そんな竜昇の危機意識などお構いなしに、今まさにビルに踏み込もうとしている少女がいる。
(――ええい、ままよ!!)
ヤケクソ気味に心中で叫び、竜昇はせめてもの悪あがきにと、ジョギングの際に腰に付けたウェストポーチからタオルを取り出して顔に巻き付ける。
顔を隠す最低限の用心。正直言って心もとないにもほどがある備えであったが、これ以上準備に時間をかけている余裕はない。
タオルを頭の後ろで結び、竜昇が物陰から飛び出すと同時に、件の少女もビルの入口へとたどり着き、自動で開いたドアの向こう、その中の暗闇へと消えていく。
(とにかくダッシュで中に入って急いであの娘を連れ戻さないと――!!)
中の探索を危険と見て、とりあえず竜昇は己の目標を少女を連れて戻ることへと設定する。
そんな撤退前提の覚悟をもって、この日竜昇は初めてビルの敷地内へと足を踏み入れた。
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