121:立ち上がる者達

 二人の視線が交錯する。

 隠形を暴かれた、耳から血を流すフジンと、足を負傷して壁に寄り掛かる互情竜昇。

 負傷し、身動きすらままならないそんな二人が、それでも潰えぬ戦意を視線に込めて、互いを目がけてぶつけ合う。


 どうやらフジンは、先ほどの【絶叫斬】なる技によって耳にかなり重いダメージを受けたらしい。

 あるいはそれこそが詩織の狙いだったのか。

 考えてみればそれも当たり前の話だった。なにしろこの相手は、詩織同様音によって周辺の状況を察知していたはずなのである。当然、聴覚とてそれ相応に強化していたはずであり、そんな状態であの大爆音を浴びせられたのだからたまったものではない。


 音とともに浴びせられた衝撃波、それによるダメージが深刻だったというのもあるかもしれないが、それ以上に【光陰隠れ】で自身に届く光を捻じ曲げ、姿を消す代わりに自身の視覚すら断っていたフジンにとって、耳をつぶされるというのは想定外の、そして致命的なダメージだったことだろう。


 そんな分析に、しかし竜昇がかけた時間はフジンを見つけた後のほんの一瞬。

 そしてその一瞬のあとに、すぐさま竜昇は蹲るフジン目がけて容赦なく右手を突きつけた。


「【迅雷撃フィアボルト】――!!」


 魔本からの魔力提供を受けて、竜昇は準備していた魔力を用いて再度最大魔法を解き放つ。

 巨大な電気エネルギーの塊がフジンに正面から襲い掛かり、その身を飲み込むべく一瞬で彼我の距離を食いつぶす。


 とは言え、フジンもただでその攻撃を受けてくれるほど簡単な相手ではない。

 竜昇が【迅雷撃】を撃つべく腕を構えたその瞬間、フジンの方もすぐさま付近に転がる看守型の一体へと手を伸ばし、触れると同時にその全身を未知のオーラ系の魔力で包み込むと、直後に片腕で行っているとは思えないほど軽々とその体を持ち上げて前方目がけて投げつけていた。


 結果、竜昇の【迅雷撃】と空中に投げ出されて制止した看守型が激突し、放たれた極大電撃が空中の看守型の背後、フジンの周囲のみを残してその両側を焼き払う。


(あの野郎、看守型を空中に固定して盾にしやがった――!!)


 【遅延起動(スロースターター)】の思わぬ使い方に驚きながら、しかし竜昇は【迅雷撃】による魔力の放出を続行する。

 いかに【遅延起動】で空中に固定されていると言っても、看守型の体は別に鉄壁の強度を誇る盾ではない。

 案の定、看守型の肉体を構成する黒い煙状の魔力は【迅雷撃】の圧倒的な火力に瞬く間に霧散して、看守型の命とも呼べる核も数瞬と持たずに砕けて看守型の肉体そのものが消えうせる。


「グァ――!!」


 看守型を消滅させるために威力を失いながらも、正面から襲い掛かった電撃が今度こそフジンを感電させる。

 フジン自身、またもオーラ系の魔力で身を守ったようだったが、しかし今度という今度は流石にノーダメージでは済まなかった。

 衝撃によって跳ね飛ばされて床を転がり、焦げた服から覗く手足は、立ち上がろうとしながらも電撃による痺れで確実に自由を奪われている。


(行ける――!!)


 敵の様子にそう確信して、すぐさま竜昇は周囲に【光芒雷撃】の雷球六つを生成しフジンの元へと向かわせる。

 対して、フジンもダメージの抜けない体ですぐさま身を起こすと、先ほどの【神造物】とみられる苦無を即座に一閃、現れた五本の苦無と元の一本を合わせ、両手の指に三本ずつの苦無を挟んで構えると、迫る雷球目がけて連続で両腕を振り回す。

 振るわれた左右合計六本の苦無がその軌道上で分裂して遠心力で前へと飛び出し、投射される過程でネズミ算式に数を増やして、弾幕となって迫る雷球を次々と撃ち落とす。


(流石に【遅延起動】と合わさらなきゃ着弾までに増える数はせいぜい二ケタに届くくらいか――、それでも十分に厄介ではあるんだけどな――!!)


 負けぢと追加の雷球を生成しながら、同時に竜昇は相手の動きに明確なダメージの大きさを感じ取る。

 先ほどからフジンは、今のように起き上がって応戦こそしてくるものの一向に立ち上がる様子が無い。

 竜昇に受けた電撃のダメージもあるのだろうが、それ以上に恐らく耳をやられた際にそのダメージが、平衡感覚をつかさどる三半規管にまで及んでいるのだ。

 だから先ほどからフジンは碌に立ち上がることもできず、それどころか苦無の投擲にも正確に投げることを最初から捨てて、神造苦無の性能に任せて弾幕を張るような投擲でどうにか攻撃をしのいでいる。


(あと一押しだ――)


 足を負傷して身動きが取れない状態で、しかしだからこそ竜昇は雷球の生成と操作に全力を注いで、撃ち落とされるそばから雷球を補充してフジンに圧力をかけ続ける。


 ここを逃せば次にチャンスが来る保証はどこにもない。

 だが逆に言えば、敵がまともに動けない今は間違いなく竜昇にとって形勢を逆転できるチャンスなのだ。

 ならばこそ、今この瞬間に全力を傾けるべきだ。そうすれば今度こそこの相手を捕らえることが――。


(――こいつを殺すことが、できるッ――!!)


 と、そこまで考えて、ふと竜昇は自分の中で、本来の目的とは違うはずの凶暴な衝動が自身を内から動かしていることに気が付いた。


(――ん?)


 おかしいと、そこまで明確に言えるほどはっきりした疑念だったわけではない。

 ただ何かがおかしいと、そんな思考、あるいは理性が頭の中で微かな警鐘を鳴らして――。


 直後、それを上回る危険な気配が、竜昇たちの視界の、その片隅に現れた。


「「「――!?」」」


 その場にいた全員、竜昇や詩織だけではなく、それと相対していた看守や囚人の残党や、フジンまでもがその気配に反応する。

 耳につくのは鎖を初めとする多数の拘束具の金属音。そして布がはためきこすれる音が混じりあって、気配に引かれて視線を向けたその先で一つの影が立ち上がる。


「な、に……!?」


 そこにあったのは、黒い霧を帯びた拘束衣と正面が割れた鋼鉄のマスク、そして鎖のついた手かせ足かせという見覚えのありすぎる拘束具のラインナップ。


 それがいったいなにであったかは、いかにフジンとの戦闘にかかりきりになっていた竜昇でも簡単に思い出せる。


(最凶悪囚人の残骸――? 待て、なんであんなものが今さら――)


 だがあり得ない。それはあくまで残骸であって、あの敵はフジンに【弾力防盾】を破られたその段階で、確かに倒されていたそのはずだ。

 実際核があった顔面、それを覆っていた鋼鉄製のマスクは正面部分から砕かれていて、明らかに城司の攻撃によって破壊された、そんな痕跡が残っている。


 だがそう考える間にも、残骸でしかないはずの拘束具たちはまるで生き物のように動き出す。

 竜昇たちの方に、ではない。それとは逆方向、拘束衣の向こうに倒れていた、恐らくは最凶悪囚人を倒したはずの入淵城司のほうへと向かって。


「――が、ぁ――」


 止める間もなく血塗れの城司の両手と首に鎖の千切れた枷と首輪が打たれ、それに引かれる形で城司の体が無理やり上へと引き起こされる。

 気絶していた城司が痛む体に呻きを漏らし、そしてそんな城司を目がけて残る拘束衣とマスクがその身を分解するように襲い掛かる。


「まさか――!?」


 その瞬間、竜昇は見た。

 まるで分解するように小さな布やベルトへと変わる拘束衣の中に、黒い煙の魔力と共に赤い核が煌々と輝いて存在しているその事実に。

 だが気付いた時にはもう遅い。

 現れた核は城司の胸板にめり込むように接触し、直後に手枷が城司の体を操作して、まるで核を抱え込むように両腕を胸の前で交差させ、その上から布が覆いかぶさって、それらが繋がって城司の全身を拘束していく。

胸の前で拘束された城司の腕に替わり肩に新たに袖が造られて、そこから黒い煙状魔力の腕が出現し、最後に正面が割れた鋼鉄のマスクが城司の頭にかぶさって、その姿を見覚えのある拘束衣姿へと変えていく。


「『ガァァああアアあああアアっっッ!!』」


 雄叫びがあたりに響く。

 ノイズがかったような声が城司の声と混じりあい、マスクの割れ目から見える城司の表情は、目に殺意を漲らせた凶暴なものへと変わっていた。


(憑りつきやがったって言うのか……!!  あの拘束衣の方が……。城司さんに自分自身を着せることで――!!)


 その光景に、竜昇はようやく自分がとんでもない思い違いをしていたことを理解する。

 この階層のボスは、結局のところ最凶悪囚人などではなかったのだ。

 先ほどまでの囚人は所詮中身にすぎず、ボスと言える本体はその外身、あの囚人が着せられていた拘束衣や、付けられていた拘束具の方だった。


拘束衣の方が本体・・・・・・・・……!! それも自分自身を着せることで他人に憑りつく寄生型の――!!)


 そのデザインコンセプトは定めし、監獄で死んだ者達の怨霊、あるいはそれに“呪われた”拘束具と言ったところなのか。

 そうと知ってみれば拘束衣でありながらまったく動きを制限できていないという、当初から感じていた矛盾にも合点がいく。要するに先ほどまでの囚人は、自分の意思では少しも自分の体を動かせていなかったのだ。


(ふざっけんな、わかるかそんなの――!! この階層、監獄ものじゃなくて監獄を舞台にしたパニックホラーだったのかよッ――!!)


 性格が悪いにもほどがある、この階層の設計者のやり口に怒りを覚えるが、生憎と竜昇にはそんなことに思考を割けるほどの余裕はない。

 見れば、城司の体を乗っ取った怨霊は既に新たに形成した魔力の腕、そこにはめられた手枷の鎖を、すでに攻撃に使うべく構えをとっている。


「まずい、詩織さん――」


 呼びかけて、慌てて竜昇自身も雷球の半数を差し向けるがそのときにはもう遅かった。

 鎖が振るわれ、怨霊の魔力に包まれて、その先端が刃物へと変わった鎖が付近の囚人や看守へと襲い掛かり、その攻撃に対応できなかったものから順番に、顔面の核が断ち切られて消滅する。

 直後にドロップアイテムとして現れたスキルカードや、先ほどからの詩織の奮戦によって付近に散乱していたカードが次々と鎖に打たれて粉砕され、飛び散った光の粒子がそれを成した怨霊の元へと見る見るうちに吸い込まれて消えていく。


(やられた、クソッ、何枚だ――!?)


 砕かれたカードは、一枚、二枚、三枚、四枚。


 どんなスキルだったのかは絵柄すら確認できなかったが、この場怨霊が破壊したカードの数は合計四枚。ここまでで習得しているスキル六系統と合わせれば、およそ十ものスキルをこの敵は習得している計算だった。


 たった一つであっても厄介なスキルがおよそ十。

 否、現在のこの敵に関して言うなら、さらに城司が習得している三つを加えた、合計十三ものスキルを習得している計算になる。


「『おルりぃぃヤァぁぁあああアアッッッ――!!』」


 竜昇が差し向けた雷球に反応し、呪いの拘束衣を着せられた城司がその全身に小さな鱗状の盾を表出させ、直後にそれを周囲目がけて散弾として撃ち放つ。

 差し向けた雷球が押し寄せる竜鱗の弾幕によって撃ち落され、接近を試みていた詩織がそれを中断して飛び退き、付近に打ち込まれる攻撃をぎりぎりのところで回避する。


(あの魔法は城司さんの――!!)


 互いの戦力を確認した際、少しだけ見せてもらった見覚えのある魔法に、竜昇はただでさえ高いこの敵の脅威度をさらに上方修正させられる。

 敵は自前のスキルだけではなく城司の持つ力も使用可能。しかもその城司の体、城司の腕によって自身の核を守らせているというのだから極め付けに始末が悪い。

 ただでさえ中身の人間の命の危険を考えるなら手加減を余儀なくされるというのに、よりにもよって最高の防御能力を持つ城司がその中身として使われているというのだから。


 思うさなかにも、怨霊は黒煙の腕で鎖を掴み、その全体を刀剣化させて肩に担ぐような構えをとる。

 これまで見せてこなかった、恐らくは新たに習得したのだろうなんらかの技の構え。

 それに対して竜昇たちが対応する暇もなく、直後に肩に担いだ鎖剣が莫大な魔力を纏い、同時に囚人の背中からジェット噴射のように魔力が噴出して囚人服の怨霊が一直線に標的目がけて走り出す。


 ただし向かう先は竜昇の方でもなければ詩織の元でもない。その向こうでどうにか体調を回復させ、立ち上がろうとしていたフジンの元だった。


(な――!?)


「『死ネェぇェェぇェええエエええッッっ!!』」


 二重の声で雄叫びを上げ、城司の体を乗っ取った囚人服の怨霊がフジン目がけて斬りかかる。

 一番近くにいた詩織も、足を負傷して身動きの取れない竜昇も、残りたった二体になっていた看守型の敵すらも無視して行われた突然の凶行。

 とは言えそれでも仕掛けられた方とてやはりただものではない。

 突然の攻撃にフジンは特に慌てた様子も見せず、逆手に持った苦無を振り下ろされる鎖剣に合わせるように構え、受け止めた。

 否、受け止めると見せかけて実際にはそうしなかった。

 鎖剣が苦無に接触するその瞬間、手の中の苦無を分裂させたうえで【遅延起動】を用いて空中にそれを固定。自身は背後に飛び退いて、まるで変わり身のような動きでその攻撃から逃れ出る。


 直後に響く激突の轟音。空中に固定された苦無がものの見事に怨霊の鎖剣を受け止めて、剣が帯びていた魔力と衝撃だけが共に真下の床へと叩き付けられてその場に深いクレーターを刻み付ける。


「――ッ!!」


 まともに受け止めようとしていた命はなかった。そう思わされる力任せの一撃を目の当たりにして、竜昇は先ほどまでとは別の意味でこの状況をまずいと感じとった。


「『――死ねェっ!!』」


 退避したフジンを追いかけて、怨霊が城司の体で鎖剣を振るう。

 対して、フジンの動きには先ほどまでのキレがない。いかにフジンと言えどもまだ詩織の【絶叫斬】によるダメージが抜けきっていないのだろう。その動きはどこか精彩を欠いていて、襲い来る連続攻撃をどうにか回避している状態だ。


「『ジねぇッ――!!』」


 刀剣化した鎖がフジンを襲う。首をもぎ取るような足刀が、内臓を貫く岩槍が、弾丸と化した竜鱗が。次々と攻撃手段を切り替えて、放たれる攻撃がフジンを追いかけ、回避し損ねたいくつかがフジンの体をかすめて少なくない血痕が周囲に残される。


「『しねェっ――!! ゲッせン二ぃ十シぢ士ィィぃィいイイッ――!!』」


 このままでは捕らえるどころではない。暴れ狂う城司を放置すればいずれその手によってフジンが殺されてしまう。

 なお悪いことに、そうして暴れる城司すらも、決してその身が無事というわけではなかった。

 見れば、一心不乱にフジンを追って暴れる城司の拘束衣は、しかしその各所で赤黒い染みが広がっている。

 理由は考えるまでもない。拘束衣を着せられている人間、中身である入淵城司が、先ほどのフジンによる苦無の一斉掃射によってその全身に傷を負っているのだ。

 ただでさえ深手を負った状態であんな暴れ方をしているのだ。中身となっている肉体がこのまま放置して無事でいられるはずがない。最悪の場合多量の出血によって、フジンより先に城司の方が先に命が尽きかねない状態だ。


「くそっ!! 詩織さん――!!」


「うんっ――!!」


 我が身の出血など何も考えずに暴れる城司に対し、竜昇は少しの逡巡のあとそれまでフジンに差し向けていた雷球の、その全てをまとめて差し向ける。

 同時に、残っていた二体の敵を切り伏せたらしい詩織もこちらに参戦。二人がかりで取り押さえるべく城司のいる方へと突っ込んでいく。


(――っ、ダメだ――)


 とは言え、当然二人の戦力が城司に集中し、そしてこれまでフジンを追い回していた城司が竜昇たちによってその動きを阻害されれば、避けられない帰結としてフジンが一人自由になる。

 そして当のフジンもその隙を逃さない。

 それまで自分に向いていた戦力が目減りしたその瞬間、すでに自身の不利を悟っていたらしいフジンはあっさりと戦場から離脱して、監獄中央の吹き抜けへと迷わずその身を投げ出した。


 空を蹴り、上の階へと向かって空中を飛び回るフジンの姿が、しかし直後には彼自身の隠形によって止める間もなく消えていく。


(逃げられる、くそ、ここまで代償を払ったってのに――!!)


 暴れ狂う囚人服の怨霊を雷球の発砲で牽制しながら、しかし服の中の城司の存在がある故に止めることも追いかけることもできず、忸怩たる思いで竜昇はその背を見送ることを余儀なくされる。

 これだけの被害を出したのにという思いが頭をよぎる。血塗れで暴れ狂う城司の姿と、己の足の痛みに顔をしかめ、そして最後に背後で倒れる静の方へと意識を向けて――。


「静……?」


 そのときにはじめて、竜昇は床の上にもう一人倒れていたはずの、小原静の姿がどこにもないことに気が付いた。

 見れば、乱戦のさなかにフジンからの不意打ちを背に受け、倒れ込んでいたはずの彼女の姿はどこにもなく、代わりに彼女が羽織っていた血塗れのマントだけがその場に残されていた。


 【染滴マント】という、染料を一滴たらしてその箇所に魔力を注ぐだけで、その染料の色が・・・・・・・・マント全体に・・・・・・広がっていく・・・・・という、一滴の染料をマント全体に広げて染めることができる、そんな特殊効果を持った血塗れの・・・・マントが――。






 失敗した。目的を果たせなかった。

 そう思っていたのは、なにもフジンを取り逃がすことになった竜昇だけではなかった。


 当の本人、その竜昇に対して襲撃をかけ、今まさにいくつもの手傷を負わされて敗走を余儀なくされたフジンの方も、同じ思いを胸に抱いて逃走という選択肢を選んでいた。


 忸怩たる思いを抱え、フジンは監獄中央の吹き抜けに面した上へと伸びる柱の側面を駆け上がる

 空を駆け、地面ならざる場所を走る技能が無ければ追うことさえできない逃走経路。

 そんな場所を、現在フジンは姿を消した自身も周囲が見えない状態で、撤退のために走っている最中だった。


(――グ、ゴルレオ、べスド、レイリ――!!)


 とは言え、その所業を今のフジン自身が楽に行えていたかと言えばそんなことはない。

 追撃を受ける可能性を減らすためにやむなくそんな無茶な真似をしてこそいたが、全身に傷を負い、耳もやられて碌に音が聞こえない状態の今のフジンには、姿を消して自分も周囲が見えない状態で重力に逆らって走るというのは、それこそ目隠しをして綱渡りをするにも等しい危険な行為だ。

 加えて言うなら、その隠形とて決して完全なものではない。確かに見た目こそ完全に透明化はできているが、耳や各所の傷口から滴る出血を止める余裕はなく、恐らく今のフジンは何も見えない空間から血の滴が落ちているという、そんなあまりにも中途半端な隠れ方で走る羽目になっていたことだろう。


 それでも、そのまま何事もなければフジンは自身の隠形を解こうとはしなかっただろう。

 自身が走る柱ごしに、なにやら不可解な衝撃が柱自体と足を伝ってフジンに伝わってこなければ。


(――!?)


 足場である柱、しかもその中でも比較的近い位置に感じた衝撃に、とっさにフジンは周囲の様子を確認するべく隠形を解除する。

 普段ならば周囲の音である程度周囲の状況を推測できるところだが、今は音がまともに聞こえないためその手は使えない。

 やむなく姿を現して衝撃の正体を確認しようとしたフジンは、それによって目にした光景に、思わずその細い目を見開く羽目になった。


「――おや、こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」


 それはまるで自身に付きまとう死神のような気配を纏った、しかし同時にひどく美しい一人の娘。

 先ほどフジンが背後から、確かにその背に苦無を撃ち込んで殺害したはずの、あの四人のうちの一人である少女が、柱に自身の武器である長剣を突き刺して、それに掴まる形で柱の側面に垂直に立って待っていた。


「こんな場所でお会いしたのも何かの縁です。先ほどお世話になったお礼も兼ねまして、どうかしばしお付き合いいただけませんか?」


 凄絶で、しかし優雅な笑みでもってして、フジンに対して静がそう笑いかける。

 奈落の底へと通じる監獄の中心で、神造の刃を持つ二人が終結を前に向かい合う。

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