難攻不落の不問ビル

数札霜月

第0層 正体不明の不問ビル

0:プロローグ

 その日は、本当に普段通りの一日だったと思う。

 高校一年の冬の始まり。特に変わったイベントもない平日の終わり。朝起きて学校に行き、授業を受けて、友人づきあいで入った部活動をゆるく流して、終わった後はその友人たちと会話しながら帰路につく。

 そんな当たり前の一日を、互情竜昇≪ごじょうたつあき≫はその日も過ごし、しかし校舎を出たあたりで、妙に周囲が暗いことに気が付いた。


 最初竜昇は雲でも出てきたのかと思った。空に大きめの雲が立ち込めて、それが日差しを遮っているのではないかと。

 実際、その考えはある意味ではあたっていた。確かにその暗さは日光が遮られているが故の、今いるこの場が影になっているが故の現象だったからだ。


 ただし、見上げた空にあったのは、雲などとは比べようもない異質物。


「……え?」


 唖然とする。口を半開きにした状態で硬直し、見上げたそれを理解しようと竜昇の頭がのろのろと眼球に入ってきた情報を処理していく。


 見上げたその先にあったのは、見たこともない高さの摩天楼。

 第一印象がとにかくでかいの一語に尽きる。

 いったい地上何十階建てなのか、少なく見積もっても二百メートル以上は下らない、どうかすると三百メートルはあるのではないかと思える、そんな馬鹿げた高層ビルが、いつの間にか町の中心部に生えていた。


(……あれ、いつからだ? あんなビルいつからあったんだ?)


 朝にはなかった。少なくとも朝学校に来る際には、こんなビルは存在していなかった。

 それ以降はわからない。今日は一日授業を受けていたし、体育の授業もこの日はなかった。いや、考えてみれば部活は陸上部なのだ。グラウンドの位置から見えるかどうかは微妙だが、しかし部活中になかったかどうかまでは見ていなかった。


(……いや、違うそうじゃない)


 自分がいつの間にかまるで意味の無い思考をしていることに気がついて、竜昇は目を見開いたまま首だけを振ってその思考を振り払う。

 そもそもあんなビル、何か月何年と工事をしなければできるはずがないのだ。だというのに、竜昇は今日のこの日、つい先ほど影が差していることに気付くまで、それを作る建設工事すら見ていない。


 本当にいつの間にか、何の前触れもなく突然に、このビルは町のど真ん中に生えてきたのである。


「おい互情、話聞いてっか?」


 唖然とする竜昇に対して、不意に先ほどまで前を歩いていた友人の声がかかる。

 まるで異常なことなど何もなかったという調子で。目の前にあんな異質なビルがあるというのに。


「……いや、悪い、聞いてなかった。それより――」


「――ああ? なんだよまったく。折角こいつが大会出場の快挙を遂げたから、それを祝おうって話してたのに」


「いや、大会出場って言ったって、まだ予選を突破しただけだから」


「それがすごいって言ってんだよ。正直うちの部活なんて弱小すぎて、予選落ちが常態化してたんだから。おら、互情も分かったら行こうぜ。こういう時は盛大に祝ってやるのがダチってもんだ」


「あ、ああ……」


 何となくそんな返事をしながら、竜昇は先ほどまで交わされていた会話を思い出す。

 友人づきあいだけで、特に深くも考えずに陸上部に入り、日々の部活動を流している竜昇だが、しかし部内には少ないとはいえ本気で努力している人間と言うのも存在していた。

 そしてそのうちの一人であるもう一人の友人が、この度予選を突破して、大きな大会への参加をもぎ取ったのである。

 これは弱小校としては大きな事件だ。普段それほど熱心でもない竜昇でさえ今回ばかりは大いに盛り上がり、直前まで結構な興奮の中に居たのを思い出せる。


 だが確かに大きな事件でも、それはこのビルの出現に勝るものであろうか?


「なあ、おい、それより、さ……。あれ、見てくれよ。あのビル。……あんなの、今朝までなかったよな?」


 恐る恐る問い掛ける。気付かないはずがない大きさなのに、先ほどからこの友人二人はあのビルにまるで反応していない。

 まさか竜昇以外の他人には見えていないのではないだろうか。ビル自体が竜昇の妄想や幻覚で、実は存在していない、竜昇が勝手にあると思っているものなのではないかと言う可能性が頭をよぎったが、しかしそんな恐怖さえともなった竜昇の考えは、直後に友人の呆れたような一言によって、予想外の形で否定されることとなった。


「んん?……ああ、そういやなんかあるな? けど、それがどうしたんだよ?」


「…………は?」


 再び茫然。言われたことを理解するまでに数秒の時間をかけて、しかしそれでも意味が解らず震える手で友人の肩を両側から掴む。

 いや、厳密にいうならばわかっていないわけではない。言っている意味が解ってしまうからこそ、竜昇にはそれが理解できないのだ。


「いや……、どうしたって、あのビルだぞ? あんなビル今朝までなかっただろッ!? それが突然現れてんのに、どうしたって言うのはどういうことだよ?」


「互、互情君?」


「おいどうした、落ち着けよ。ビルって、まあ、確かに今朝まであんなの無かったけど、あんなの、そんなに気にするもんじゃねぇだろう?」


「気にするものじゃ、ない……?」


 そびえ立つ巨大な建造物に対するその物言いに竜昇は、巨大な認識の溝を感じて愕然とする。あの巨大なビルが見えていて、しかも今朝まで存在していなかったことまで認識していて、なおもこの友人はビルに対してそんな感想しか抱いていないのだ。

 いや、この場合認識に差があるのは目の前の友人との間だけではない。その隣に立っているもう一人の顔を見ていても、やはりあのビルに対して興味を抱いていないのが伝わってくるのだ。

 そう、興味が無い。先ほどから異質と感じる、二人の反応はその一語に終始する。見えていないわけではない。突然現れたという事実に気付いていないわけではない。だというのに、二人は全くあの建物に興味を抱いていないのだ。

 これだけ異質な建物なのに。いったいこの反応はどういうことなのか。


「おい、変なもん気にしてないでとっとと行くぞ。途中でファミレスにでもよってドリンクバーで乾杯だ。目指すは優勝。そしてプロ、オリンピックってな」


「別にそこまで大げさな話じゃないんだけどね」


 勝手に盛り上がり、それに対して困ったように笑う友人たちの背中を見ながら、竜昇は呆然とその場に立ち尽くす。

 混乱した思考で、それでも吸い寄せられるように見上げたそのビルは、まるでそんな竜昇の様子をあざ笑うように確かな存在感を周囲に示していた。



 それこそが、互情竜昇とそのビルの最初の遭遇。


 のちに【不問ビル】と自ら名付け、そして竜昇の人生を根底から覆す、そんな難攻不落の建造物との、逃れ得ない最初の邂逅だった。

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