142:安寧の階層

「この階層に留まる、ですか……?」


 ふと思いついて口にした竜昇の言葉に、静が『意味が解らない』とでも言いたげな表情で首をかしげる。

 どうやら静にとっては、こんな考えは完全に考慮の対象外だったらしい。

 確かに彼女の性格やものの考え方を思えば無理もない話なのかもしれないが、実のところこの考えは、誠司たちがと言うよりも、竜昇達自身が陥るのではないかと少し前から危惧していたものでもあった。


「こう言っちゃなんだけど、この階層は酷く居心地がいい作りになってる。施設としてもくつろぐにはもってこいの作りたし、衣食住――、ああ、いや、食と住には困らない。……そして何より襲ってくるエネミー、【影人シャドー】が一体も存在しないと来ている」


 衣食住のうちの『衣』が欠けた結果、だいぶアレな服しか着られない事態になっている女性陣の衣服事情を思い出して、竜昇は発言の一部を修正しながらそう言葉を紡ぐ。

不自由な点が無いとは言えないし、『襲ってくる【影人】がいない』という部分も実際には多大な疑問符がつくわけだが、それでもこの階層の平穏さはいつ襲われるかわからなかったこれまでの階層と比べれば雲泥の差だ。

 流石に外と同等とまでは言えないにしても、これまで突破して来た危険に満ちた階層に比べれば、この階層はまるで天国のような環境である。


「これまでが危険の連続だっただけに、下手に安全な階層に出てしまったことで危険な次の階層に進むのが嫌になってしまった、って言うのはもしかしたらあるかもしれない」


「……ここはまだ【不問ビル】の中だというのにですか? この階層にしたところで敵の出現率が低いというだけで安全と言うわけではないと思うのですが……?」


「確かに理屈の上ではそうなんだけど、ここまで安全な場所で過ごしていると、なんというか緩むんだよ。一応頭では、この階層だっていつどんな形で襲われるかわからない危険地帯だってことが分かっていても、実際に襲われている訳じゃないからどうしたってこれまでの階層よりは安全に見えてしまう。ボスがいるはずだとわかっていても緊張感を維持するのが難しい。

……ひょっとするとこの階層、たどり着いた人間がそうなるように誘導する意図でこんな構造になっていたのかもしれないな」


 もとより人間と言うのは、そうそう長期間緊張状態を維持できるようにはできていないのだ。

 平穏が長ければ長いほど、危機感はその平穏に溶けるようにして薄まって、だんだんとこの階層が本当に安全な場所なのだと錯覚するようになって来る。

 最初のうちはまだいいだろう。この階層に着いたばかりのころならば、どんな迂闊な人間でも何かあるのではないかと警戒し続けるはずだ。

 だがこの敵がいない、何者にも襲われない状況が何日も続いたらどうだろうか。

 このまま何日も何もされないまま、安全で平穏なこの環境の中に閉じ込められ続けたら、果たしてその者は今の緊張感をそのまま維持し続けられるだろうか。

 もっと言えば危険が待ち受けるこの先に、進みたいと思えるだろうか。


「……正直に言うとあまりピンときませんね。そもそもつい今朝方、これまでとは形が違うとはいえ攻撃を受けたばかりですし……。

ああ、でもそうでした、あの魔力は本来詩織さんのような特殊な感覚を持つ方にしか感じとれないのですね……。そうなるとこの階層のボスは、竜昇さんの言うようにこの階層に安住しようとするプレイヤーを討ち取るつもりなのでしょうか……?」


「……それに関しては何とも言えないな。全員が少なからず影響を受けたのならまだしも、城司さんと及川さんの二人以外、あの魔力は何ら効果を表していないようだし。例え魔力の存在を察知できなかったとしても、二人もの人間にいきなりあんな不自然な態度の変化があったら、やっぱり残ったメンバーは警戒していただろうから……。効果を表す前に察知されてしまったがゆえに、思ったほどの人数に影響を及ぼせなかったって言う可能性もあるけど――。

 いや、この話はまたの機会にしよう。どれも推測の域を出ない上に話が脱線する」


 わき道にそれかけた思考を軌道修正し、竜昇は一度話題を誠司たちについてのものへと引き戻す。

 この件に関しても後々話し合う必要はあるとは思ったが、今は先に誠司たちについての話を片付けてしまいたかった。


「ともかく、もし仮に誠司さんたちがなんらかの理由で前に進むことを躊躇しているのだとしたら、俺達と共闘態勢を敷くことで今後の攻略に参加させられて・・・・・・・・しまうのを恐れている、と見ることもできる。だからこそ俺達と友好的な関係を築くことには積極的だけど、先に進むうえで有利なことには必ずしも積極的になり切れていない、とか……」


 言いながら、しかし竜昇の声からはどうにも自信の色が抜けていく。

 実際竜昇のこの考えは、決して的外れなものだとは思わない。今自分達が置かれている環境は、人の思考をそういう方向に駆り立てるものだと、竜昇自身が本気でそう思っている。

 ただそう思う一方で、果たして昨晩、そして今朝見た誠司たちの姿に、この階層に留まることを望んでいるような、そんな気配があったかと問われると、どうにもそうは思えない部分があるのだ。


「私には、むしろあの方々は先に進むことに意欲的に見えます。むしろどちらかと言えば、前に進むことしか考えていないようにさえ思えます……」


「そうなんだよな……。けどだとしたらなんなんだろうな……。単に及川さんがあんな状態になったことで、いろいろと慎重になっていると見ることもできなくはないけど」


「まあ、確かに今の彼女は言ってしまえばただの足手まといですからね」


 竜昇が避けた表現をあっさりと使い、静はあくまでも客観的な視点で躊躇なく及川愛菜を『足手まとい』とそう断言する。

 とは言え実際その通りなのだ。これは今の城司にも言えることだが、あの状態になってしまった以上、二人は現状戦力としてはほぼカウントできない。

 それどころか危険が迫った際自衛すらできないだろうことは予想に難くなく、さらに言えば危険が迫ってもその危険を認識することなく、危険のそのさなかにのこのこと歩いて行ってしまう可能性すらある始末である。

 それは言ってしまえばこの階層にいるだろうボスに操られての行動と言えるのだろうが、しかしどう言いつくろったところで考えうる危険性が消えてなくなるわけではない。


 ただ、この場合竜昇が彼女について明言したことには実のところ別の意味合いもあった。


「ああいや、それもそうなんだけどさ。誠司さんたちが慎重になっているかもって言うのは別に理由があって……。ほら、夕べ会議をしたとき、及川さんには重要なスキルを優先して回していたみたいなことを言っていただろ? だからもしかしたら、彼女が習得していた何かのスキルが使えなくなったことで、誠司さん達が必然的に慎重にならざるを得なくなったんじゃないか、と――」


 実のところ、竜昇はこの時なにがしかの革新や意図があってこんな話をしていた訳ではなかった。

 竜昇にしてみれば、思考が行き詰まったがゆえにただ何となく思いついたことを口にしていただけで、特段なんらかの意図や思惑があってその言葉を口にしていた訳ではない。


「……そう、でした。確かに言っていましたそんなことを……。――そうです、なんで言われたときに気にしなかったんでしょうそのことを――!!」


 だがそれでも、竜昇の言葉へのその反応を見れば、静が自身の言葉によって何かに気付いたのだということだけは容易に理解できた。

 そして静が何かに気付いたというのなら、今竜昇がするべきは彼女の思考の邪魔をせず、彼女が答えにたどり着けるようサポートしてやることだけだ。


「そうです、なにを習得していたかはこの場合重要じゃない。問題なのはそれを習得したのがなぜ及川さん・・・・・・だったのか・・・・・――。

 竜昇さんッ、すぐに詩織さんのところに行きましょう。早急にあの方に聞かなければいけないことができました」


「――わかった。けど一応隊列は乱さないで。場所は入浴エリアだけど、わかる?」


「はい。昨晩のうちに地図は頭の中に叩き込んでありますから」


 静が何に思い至ったのかは気になったが、しかし竜昇はそれについて特に問い掛けることもなく、彼女の思考に必要なものを迅速に用意するべく最低限のやり取りだけをして走り出す。

 幸い、先を走る静は後ろから特に道を指示しなくても迷わず入浴エリアへとたどり着いた。

 どうやら地図は頭の中に入っているという彼女の言葉はまさしくその通りであったらしい。


 ウォーターパークの一部故に、水着のままで入る入浴エリアへと飛び込んですぐ、静は目的の人物を探し当てて声をかける。


「詩織さんッ!!」


「うぇッ!? 静さん――と、竜昇君ッ!?」


 二人がいたのは、数ある入浴スペースの中でも一人用のジャグジーがいくつも並んでいるエリアだった。

 どうやら二人で湯船につかり、疲れをいやしていたらしい。

 件の魔力の影響なのか城司の表情はどう見ても緩み切っていたが、詩織の方は流石にそこまで油断していなかったらしく、彼女は入浴しつつもすぐ手の届くところに彼女の武器である【青龍の喉笛】を立てかけて、足にも魔法効果を持ったグラディエーターサンダル――【天舞足】を履いたまま風呂に入っていた。

とは言え一方で、入浴するにあたって流石にこちらは脱いだらしく、今朝がたまで水着の上に着て頑なに脱ごうとしなかったパーカーは少し離れた濡れない場所に折り畳んでおかれている。


 そして、そんな状態だったからだろう。詩織は静と、そして竜昇が浴場エリアに飛び込んで来るのを目にすると、慌てて湯船を飛び出して、その両腕で水着の胸元を隠して焦り出した。


「う、わ、ちょ、ちょっと待って。今はッ、その、ダメっ!!」


 慌てて畳んでおいてあったパーカーに飛びつき、急いでそれを着るべく腕を袖に通そうとするが、しかし焦っている故なのか、あるいは濡れたままの体で着用しようとしたせいなのか、詩織はどうにももたついてなかなか上着を着られない。


 そして、そんな様子の詩織に気を使えるほど、今の静には心の余裕がなかったらしい。

 上着を着ようと悪戦苦闘する詩織の元へいつものポーカーフェイスのまま詰め寄ると、ガッシリとその両肩を掴んで詩織の体を揺さぶり始めた。


「すいません詩織さん、そんなことはどうでもいいので教えてください。大事なことなのです、早急にッ!!」


「うぉッ!?」


 がくがくと詩織の上体が揺さぶられ、それによって二人の少女の真ん中で二つのものが揺れる、跳ねる、踊るッ。

 これは不味いと理性が叫んでいるのにどう頑張っても視線を逸らせない。

 昨日見た時も詩織は着やせするタイプだったのかとは思っていたが、実際にここまで薄着になったその姿を見れば予想以上だった。彼女にとってはあのパーカーでもなお拘束衣と同義だったのかと、悲しき男の性に支配された理性がそんな余計な分析を叩きだし、当の詩織の顔色もこの場が浴場であることとは無関係にどんどん真っ赤になって、そうして場の空気が酷く弛緩したものとなりかけたその瞬間――。


「教えてください詩織さん、もしかして及川さんは――」


 この場で唯一、元凶でありながら真剣シリアスさを保っていた静が、決して聞き逃せない一つの質問を投げかけた。


「――え、なん、で、そのこと……」


 直前まで顔色を真っ赤にし、涙目になっていた詩織の表情が劇的に変わる。

 そして返答としては、その反応だけで静には十分だった。


 あっさりと詩織の体をその両腕から解放し、二・三歩後退りながら天井を見上げて、静は感嘆の吐息を零す。


「ああ、なんてことでしょう。こんなに簡単な……、いえ、こんなにもそのまま・・・・の答えだったなんて……」


「静、今聞いたことって、まさか――」


 思わず投げかけた問いかけに、静は表情をいつものポーカーフェイスへと戻すと、竜昇と詩織に順番に視線をやって一度だけ頷き、決定的な言葉を口にする。


「ええ。少しですけどわかってきました。なぜ朝方の魔力で私達には症状が現れず、あのお二方だけが精神に変調をきたしてしまったのかというその理由が……。そしてその理由の根本にある、私たちと城司さん達との決定的な違いが……!!」

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