祭礼②
「リリウム、聞いて欲しい。我々は重大な事実を発見したのだ。裏面の文章には非常に高い価値がある。二〇六八年か。この記述が正しいならば、我々がアイスランドに逃れてから最低でも二十年が経過していたことになるが、誰にも全く、そんな自覚はなく……」
「そういう話もしていないのですが! 真面目に奉神礼に参加してくださらないと困るのですが! いいえ、いいえ、いいえ! あなたがそういう存在であることを、神の恩寵から零れ落ちた魂であることを失念していた、私の落ち度でしょうか?」
リリウムはがっくりと肩を落とし、それからふるふると首を振った。
「救いの訪れていない時代の、使い古しの紙を使ったのも、配慮が足りなかったのかも知れません。けれども、ええっと、あのですね、わたしは、この祝福の時代で、なおも使命の囚われ人として、罪業の惨禍に身を投じている、その気高い姿勢に、せめて神の御慈悲があるようにと……」
銀髪の少女は熱心な身振りで、とにかく悲しみの感情を表現しようとしていたが、動きがあまりにも大袈裟で、何か前衛的な劇団の奇妙な踊りのようだった。
そして虚空へと指をさして、熱心に弁を振るった。
「ユイシスさん! これは笑い事ではないのですよ! 今まさに信仰が試されてようとしているのですから! そう、わたしは、これしきのことで怯んではならないのです! 我らが神よ、親愛なる聖父よ! ご覧あれ、私の心の動かざることを……! どうかお聞き下さい、御言葉に
「ユイシス、彼女には何か見えているのか? 君の他に、支援AIがいるのか」
リーンズィもまた、虚空へ問うた。
「……見えていない? 支援AIもいない? そうか。人間、どこまで行っても色々あるようだな。こういうのはどうなっても治らない」
「ええ、ええ! わたしの信仰は、悪徳と厭悪の中で穢されようと、必ずや成聖の血と肉に天国を相続するでしょう!」
あんまりな言い方に、リリウムは少し自棄になったようだった。
「うう、聖父スヴィトスラーフ様、わたしは、わたしはこの未明のともがらを、どのように導けば良いのです? どのようにして神の御国の威光で、かの者の蒙を導けば良いのですか? ああ! これはどのような試練なのですか……?」
「これは……良くないのではないか? 神経活性の情報を取得しろ。興奮、混乱、怒り、憐憫? 脳内麻薬の数値が異常だ。やっぱり、良くないなこれは」
リーンズィは視線をうろうろとさせて、何者かの言葉に聞き入って、一人で頷いていた。
「それでいこう、ユイシス。聞いてほしい、リリウム、大主教リリウム。スヴィトスラーフ聖歌隊の一翼を担う者よ。要するに、私がこの聖典と真摯に向き合って、内容を頭に入れさえすれば良いわけだろう」
リリウムは眉を顰めて、恨み言を操るのをやめたが、まだ不服そうだった。
「……そういう、神性を軽視する即物的な物言いをする場面でもないと思いますが!」
「良いから、聞いてほしい、リリウム。私の
ライトブラウンの髪に覆われた側頭部を、それから首に嵌めた輪のような機械を、こんこん、と指で叩く。
「神の言葉であるところの聖典は、文字通り私の血肉とか……知らないが……そういうのになったのでは?」
「ん? うーん……」
大主教を自認するらしい白銀の少女ははっとした。
「そう! そうですよ! あなたは今、案外良い線を行っていますよ!」
不滅の聖性を、そのわちゃわちゃとした身振りから思い出すことは、もはや不可能かも知れない。
ただ、魂無き信徒たちは、二人のやり取りを無視して、虚無的な祈祷を静かに奏で続けている。
「それで、リーンズィ、あなたはいったい何を掴んだのでしょうか?」
「この聖典は私たちが想像しているよりも遙かに真理に近い場所にあるということを、共通の認識としなければならない。聖句は絶対だ。そして聖句が刻まれた以上、この安楽死薬配布のビラも聖典の一部として属性を獲得するわけだ。それを音読したということは、究極的には祭礼に参加したとみなして良いのでは?」
「……なかなか良い発想です! それです、それでいきましょう! ハレルヤハ! あなたの内にある聖なる教えの萌芽は、主の威光のもとに枝を伸ばしています!」
リリウムはリーンズィに抱きつこうとして、聖餐台に阻まれてつんのめった。
その拍子に火の付いた燭台が倒れそうになったので、銀髪の少女は慌てて手を伸ばして台を支えた。
熱した蝋に手を焼かれて「あつっ、あっ、熱いですね!? 平気ですがっ!」とよく分からない悲鳴と強がりを発した。
「聖性とはこういうものかと感じたのは私の間違いだったのだろうか。ユイシス、解析を」
しばしの沈黙。
「そうか。この娘の……残念さというのか? これは我々の共通見解として記録しておこう」
「こほん。取り乱してしまいました。さぁリーンズィ、我らが来たらざる同志、殺戮の地平線から訪れた煉獄の代弁者よ! 時は満ちました。あなた自身の痛悔機密と参りましょう。これまでにあなた冒してきた罪の告白をなすのです!」
言われて、しかし、リーンズィは静謐な無表情を崩さない。
「しかしリリウム、疑問に思っていたのだが、私は信徒ではない。こういった儀式は信徒でなければ無意味だと記憶している」
「再誕者リーンズィ! お聞きなさい……」
少女に目に、暗黙の真理を語る奇怪な神聖の輝きが再来した。
そして歳を経た神父のドッペルゲンガーであるかのように厳かに呼びかけた。
「あなたが使っている肉体は我が同志、使徒ヴァローナの所有物です。であれば、あなたは使徒ヴァローナの、神の花嫁としての性質を通して、既に神の御胸にあると言えます」
「言えるかな……?」
「言えるんです! あの、あのですね。わたし、確信しました、話の腰を蹴るのは……悪い癖です! 話の腰を、こう……えいっ、えいって」
銀髪の少女はぎこちない動きで、何も無い空間を蹴るジェスチャーをした。
「それはいけないところだと思いますよ!」
「話の腰を蹴るという表現は初めて聞いたがそういう表現があるのか?」
「ええ、ええ、そうです! そういうところ! そういうところですよっ! これはわたしにとってもギリギリの妥協なんです。もしも受け入れられないと仰るなら、わたしもこのお話はなかったことにしても良いのですよ? 組織間の婚姻儀礼は、お互いに悪い話ではないと言うことで同意したのに。嘆かわしいことです!」
「これは……よくないのでは? 神経活性情報を取得しろ。極度の興奮。怒り。不安……悲嘆」
少女は眉を潜めた。すぐ無表情に戻った。
「うん。分かった。私が悪かった」
降参した、という調子でこっくりと頷き、両手を挙げる。
「別に張り合う気はない。私はただ、こういう行事には不慣れで、混乱してしまったんだ。許してほしい。許してくれる?」
「ええ、ええ、もちろん許しますとも!」
豊かな白銀の髪と、黒と金に彩られたウエストポイント帽が、舞い遊ぶ小鳥の羽のように弾んだ。
「赦しを与えることこそが、大主教たる我が身に与えられた神命なれば!」
つぼみが綻ぶような、見る者を惑わせる艶やかな笑みを浮かべる。
「さぁ、わたしの身を通し、父なる御名の元へ、告白を。この地に至るまで、あなたはどのような旅路を辿ってきたのですか? どれほどの罪を犯してきたのですか? 主は全てを見ておられます。そして、真に悔い改める者には、必ずや慈悲を給うことでしょう……」
リーンズィは、気高い横顔に、そのとき初めて笑みを浮かべた。
苦笑だった。それも、すぐ無表情に戻った。
そうして首に取り付けた金属製の輪に触りながら「リリウム。君は私が、何か……立派な大冒険をしてきたと思っているんじゃないかな」と、どことなく茶化すような口調で言った。
リリウムは小首を傾げた。
「だって、それは、そうでしょう。現代まで活動を継続しているスチームヘッドですから、少なくとも数十年の稼動期間があるはずです」
「まさか。そんなはずはない。生後一週間というところだよ、私は」
「え」
銀髪の少女は狼狽したようだった。
「えーっと、これ、じゃあ、もしてかして痛悔機密とかじゃなくて、聖洗とかになるんですかね……? うう、幼児洗礼はやったことがないのですが……」
「肉体が既に洗礼を受けているんだから良いんじゃないか? 君の論理を適応すると」
「うーん、そう、そうですよね……重要なのはあなたではなく、魂の持ち主である肉体の性質なのですから……じゃあ良いということにしましょう」
「……これが本当に大主教なのか?」とリーンズィは疑問を口にした。何度か瞬きをした頃には、そうした疑念は消え去っていた。「いや。実際的な部分とは関係が無いのか」
大主教リリウム。
その顔と名前を、リーンズィと名付けられた少女は知っていた。
出会う前から、生まれる前から、彼女のことを知っていた。
白銀の少女の顔と名前は、かつて存在した全ての組織が把握していた。
大主教リリウム。
天使の似姿のような可憐な狂信者。
全世界の敵たる『スヴィトスラーフ聖歌隊』。
その幹部の一人。
直立不動の状態で、一秒の休みもなく聖詠を続けている人々――大主教に行動の全てをコントロールされた感染者たちに、そっと目を向ける。
彼らは、本来ならば、自分の意思では指一本動かすことも出来ない。
意思それ自体が備わっていないからだ。
彼らを支配し、敬虔な信徒としての振る舞いを刷り込んで従わせているのは、紛れもなく眼前の、銀髪の愛らしい少女なのだ。
人知の及ばぬ外法の奇跡。
言葉を通じて人間の脳に命令を書き込む異能。
通称を『原初の聖句』と言う。
この常軌を逸した能力こそが、彼女が大主教の位階を与えられている証である。
そして何よりも、重要な事実がある。
この世界にはもはや、善も悪も残されてはいない。
全ては無意味だ。
全ては無価値だ。
リーンズィがその事実を忘れたことはない。
もはや全てが手遅れだ。
だからこそ、目覚めてからこれまでのことを、彼女に余さず伝えようと決めた。
「そう長い話じゃないんだ。最初、私は移送先のグリーンランドのノード基地で目覚めた。そうして飛び立ったんだ。おんぼろの戦闘ヘリに我が身を預けて、極寒の北極海へと飛び立った。気の狂った渡り鳥みたいに……そうするしかなかったんだ」
白銀の少女、リリウムは、真剣な眼差しで、訥々としたその告白を聞いていた。
彼女の首にも、リーンズィと同じ首輪が取り付けられていた。
見つめ合う二人の揃いの首輪は、運命の囚われ人の証にも似て、埃に曇る陽光の下、揃いの婚約指輪のように輝いていた。
「私の任務は三つ、たったの三つだけだ。各地の旧国際保健機関事務局の安否確認。遭遇したあらゆる戦闘への介入と調停。そして……ポイント・オメガへの到達」
あらゆる歴史は朽ち果てた。
あらゆる催事は失われた。
あらゆる生誕は拒絶され、あらゆる葬列が散逸した。
全ての未来、全ての苦難、全ての時間は久遠の地平へ遠ざかり。
神の御国は来たりて、神はこの地にあらず。
目指す先は彼方。
最果てを逃れ、さらなる地平を目指す。
辿りついた先に楽園など無い。
何故ならば、この地こそが既に、楽園だからだ。
命脈尽き果て倒れた後に残される不滅の機械――
それこそが、象られた魂の墓標に相応しい。
時は数日を遡る。
永久に遡り続ける……。
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