大鴉の騎士、ヴァローナ③
この加速した世界で実際には鳴き声など聞こえはしなかっただろうが、鴉面の騎士は有利を確信したはずだ。
『残り0.47秒』
脳裏で動作を組み立てて、転げながら姿勢を起こし、行進聖詠服の下で脚をたわめる。
こちらの姿勢が完全に崩れたと見たか、鴉面の少女は思い切り斧槍を振りかぶった。
『残り0.41秒』
繰り出された斧刃の旋回、遠心力の乗った一閃が、真昼の三日月となって迫り来る。
斧槍の不朽結晶純度は比較的高い。直撃すればミラーズの矮躯は行進聖詠服ごと胸の辺りで両断されるだろう。
死なないにせよ、身動きできなくなればそのまま人工脳髄を破壊されて終わりだ。
ただし、それは、シィーに対手の狙いが分かっていない場合の結末である。
敵の動きを鈍らせて自分に有利な間合いを確保出来たならば、必殺の一撃を打ち込みに行く……それは当然のことで、予測の範囲内。
シィーには全てが手に取るように分かる。
百戦錬磨の戦士を演算するミラーズは斧槍の刃に断ち割られる寸前で雪原に片手を突き立て、そして突き飛ばすようにして己の肉体を跳躍させた。
そして意図的に危うさを演じながら間合いの外へと逃れた。
左腕が死んだが支障はない。
ぜぇ、と必死の表情を造るのも忘れない。
『残り0.38秒』
あと一息だと誤解させろ。
あと一歩で仕留められると。
あと一突きを誘惑しろ。
……鴉面がさらにもう一撃、と斧槍を振り抜くために背を向けた。
ミラーズの身を借りたその戦士は、そのコンマ数秒にも満たない隙間へと入り込んだ。
たなびいた金髪は稲妻のよう。全身の発条を使って、指呼の間合いから一息で飛びかかったのだ。
だが、敵方も無闇に背を晒したわけでは無かった。
実際には視界から逃れた場所で、柄を短く持ち替えているのだと、動きで分かる。
無防備な背を見せたのは次の攻撃への布石だ。
敵は焦ってはいるが、戦闘的な思考は冷静らしい。
ミラーズがか弱く喘いで攻撃を誘ったのと同様、あからさまな起死回生のチャンスを餌にして、確実性の高い一手を呼び込んだのだ。
ミラーズは、このままでは、腹を刺突され、切り裂かれ、串刺しにされる。
だが、次の手が見えているなら、やはり対応可能だ。
近接戦闘とは畢竟、如何にして場を掌握するかに尽きる。
状況という名の女神の髪は、既に矮躯の少女が捕まえた後だった。
『残り0.36秒』
少女は雪原に足を突き立て、金髪を尾のようにしならせた。
勢いを付けて回転し、行進聖詠服の裾からを片足を伸ばし――準不朽素材のブーツで回し蹴りを放った。
『残り0.35秒』
果たして、迎撃のために手の中から滑るようにして繰り出された斧槍の刺突は、シィーに触れることなく、ブーツの爪先によって軌道を逸らされた。
鴉面の少女が斧槍を手放さないよう強く握りしめたのを視界の端に捉える。武器への拘りが強いのか、予想外なほど大ぶりな蹴撃によるカウンターへの反射的行動か。
いずれにせよ、これで状況は完全にミラーズの有利に転んだ。
もしもここで鴉面の騎士が武器を捨てて、格闘戦に切り替えていれば、厄介なことになっていたかもしれない。
『0.32秒』
ミラーズは艶美な笑みを湛えながら、『不利な状況で戦うのは得意でね』と淡く色づいた唇で囁く。
脚を曲げて、上げる。
次の運足の準備が出来ているのを見せつける。
唇を読んだのか、鴉面の奥で翡翠色の明るい瞳が逡巡した。
その瞳に映る狂奔のミラーズの眼球が血走って爛々と輝く。
赤い色を求める翠玉の世界が鴉面の標的を捉えている。
体は熱い。
心は冷えている。
必勝を呼び込む者は、いつでも狂気を装う術を身につけている。
ミラーズは己の脚が浮いた勢いに任せ、さらに大胆に踏み込んだ。
『0.30秒』
足先を滑らせて一息に大きく両足を広げて開脚の姿勢で雪の上に身を伏せる。死んだ片手を軸にして体を回しながら勢いを付けて右腕を伸ばし、ナイフの切っ先で鴉面の兵士の利き足を狙った。
上段への攻撃を警戒していた対手も、寸前でこの奇異なる動きを予期したらしい。
権杖の柄が完全にナイフを食い止めた。
常ならばそのまま弾き飛ばして石突きによる打撃等に繋げるところだろうが、鴉面の翼は寸時動きを止めた。
弾けないからだ。
『残り0.27秒』
斬り込んでいる。
取るに足らないはずのナイフが、戦車砲の直撃すら意に介さぬ斧槍の柄に斬り込んでいる。
適切な角度で叩き込まれた調停防疫局純正の不朽結晶連続体製コンバットナイフに切断できない物体は、理論上、この世に存在しない。
『見たかよ。元の体ならこの一太刀で隻脚に仕立てていたところだぜ』
『やせっぽちで悪かったわね。あと0.27秒……これ何の意味があるの?』
決定打にならないことはシィーとて承知している。
シィーが求めたのは、本能的な恐怖の喚起だ。
鴉面の兵士は不朽結晶の純度で武器が劣ることを突然に理解してしまった。
行動として出力されるのは、当然、反射である。
『残り0.26秒』
鴉面の兵士は斧槍全体を半月状に回転させて、ナイフを跳ね上げようとした。
反射的な防御としては、適切だろう。
『いいか、ミラーズ……スチーム・ヘッドは、反射に逆らうことが出来ない。人間だからだ』
だが、反射は半ば自動的に生じる行動であって、思考に基づいた戦闘の理論からは遠く離れている。
己の身体損壊すら計算に含めるべきスチーム・ヘッドの戦闘に、反射などと言うものが入り込む余地は存在しないし、あってはならない。
先手を取られることが敗北に直結する。
全ての行動は戦闘論理に基づくものでなければならないのだ。
シィーは相手の鴉面の少女が何を恐れたのかを考える。
調停防疫局製ナイフの威力は、確実に見せつけた。
斧槍に刃を通すことが可能なら、大口径機関銃ですら貫けない突撃行進聖詠服であっても、当然に豆腐の如く切り裂くことが可能ということだ。
そんなものは、相手の手から取り除きたいに違いない。
だから、跳ね上げて、遠ざようとした。
シィー=ミラーズに、その行動を誘発させられてしまった。
理屈ではなく、感情として、当然の動きだ。これさえ無くなればどうとでもなる、という驕りの発露でもあったか。
あるいは、全身を不朽結晶連続体という最高の装甲で覆っているがために、予想もしていなかった凶器の「出現」を、過剰に恐れたのかも知れない。
何にせよ、論理的に考えれば取るべき選択肢は一つだった。
そんなものは、無視する。
行動の前後でミラーズの体躯やリーチが変わったわけではないのだ。切れ味がどれほど鋭かろうと、短いナイフ一本で出来ることなどたかが知れる。
『人間は無意識的な動きに行動を遮られ、縛られる……ビビって動けなくなるのはまだマシだな。ビビって予定外の動作を取るのは、最悪だぜ』
不死であろうとも、機械にエミュレートされた人格であろうとも、あるいはそうであるからこそ、予想外の一撃は心胆を寒からしめる。
そして直観が誘発した反射は、絶対だ。逆らいようが無い。この脆弱性を突かれた肉体は、己が何を考えていたのかをその瞬間に忘却してしまう。組み立てていた戦術を失って無防備になる。術理を思考をする前に、恐怖心から結果を求めて行動してしまう。
『制御不能な行動は、斯くも致命的な結果を招くわけだ……』
シィーはその制御不能な反応を引き出したのだ。
下段からの利き足を狙っての急襲。その程度のことに咄嗟に反応出来ない相手だとは、元より考えていない。
適切に防御してくれるという信頼、そして異常な切れ味のナイフがどれほどの脅威かを即座に理解してくれる可能性を高く見積もった。
優秀な兵士であればこそ、致命的な武器を遠ざけようと、無意識の行動をしてしまうに違いないと。
『残り0.24秒』
ミラーズの手は、とっくにナイフの柄から離れている。
鴉面の下で緑色の瞳が見開かれた。
何をしても、もう遅い。
杖の部分で強引にナイフを跳ね上げた結果、斧槍の分厚い刃は、何の力も加えられないまま下を向いている。軌道修正も不可能。この姿勢から何か行動を取るとすれば、単純に後ろへ下がるしかない。
相手がその動作に移るよりも速く、キジールの肉体は攻撃準備に入っている。
『0.22秒』
死んだ左手で再び体を跳ね上げさせる。前方へ、眼前の敵へと向かって。雪を踏む。ミラーズは女としての丸みを僅かに帯びただけの生白い脚にオーバードライブの出力を載せた。
後退を許さない。
鴉面の利き足の膝関節を、全力の蹴りで粉砕する。
『0.20秒』
この最大の隙にさらに腿へ一発、腹に膝撃ちを一発、無事な右手で肘打ちからのアッパーカットと流れるように打撃を重ねる。
『0.19秒』
いかな不朽結晶連続体の衣服と言えども、服の形に編まれている以上は衝撃までは殺せない。アルファⅡの分析は正しい。姿勢が崩れているなら尚更だ。
鴉面の下から血反吐と呼気が僅かに漏れ、斧槍を握る手が緩んだのを見計らってさらにステップを刻み、握られたままの斧槍の柄を掴んで手繰って引き寄せ、彼我の体重差を利用して己の矮躯を前方へと滑らせる。
夏の日の影のように少女の胸元へと潜り込んだ。
『0.18秒』
片足を軸にくるりと回って半回転する。
背を相手の乳房より下、水月の辺りに押し当て、屈んで溜めを作る。
0.05秒の集中。
そこから全身全霊、思い切り突き上げるようにして、タックルを見舞った。
『残り0.13秒』
二次性徴を完全には終えていないような未成熟な肉体でも、大地の反発力と武術の術理、そして対手の体重まで活かして最大効率で力を打ち込めば、目標に対して十分に破滅的な衝撃をぶつけることが出来る。
肋骨を粉砕した感触。心臓を破裂させるほどの衝撃が胸郭から臓腑までを貫いたことだろう。
鴉面の下からいよいよ花の香りのする鮮血がゆっくりと吹き出した。各部より漏れ出す血が激しさを増した。おそらく急性の多臓器不全によるショック状態にある。
『0.12秒』
実を言えば、ナイフなど最初からあてにはしていなかった。
アルファⅡの残留させた電撃と打撃による、鴉面の少女の、その体内へのダメージ。
それを拡大させること。
シィーの勝機は、戦闘開始の時点でそちらにこそあった。
相手が手傷を負っているならば、その損傷を悪化させれば盤面はこちらに自動的かつ決定的に傾く。
ナイフで些かでも有効な損傷を与えられるなど期待していない。自壊を顧みない猛攻自体が、恐ろしい切断能力のあの武器こそがメインアームだと、そう強く印象づけるためのブラフだった。
本命は最初から、一連の肉弾による猛打である。
衝撃に対して無力であるという聖詠服の特徴は理解しているのだ。
ならば打撃による臓器破壊を狙うのが最も容易い。
ナイフが最高の武器だったというのは嘘ではない。
致命的な状況においては、最も強力な武器とは、手放したときにこそ真の破壊力を発揮するものである。
『0.11秒』
ミラーズがカウントダウンする。
調息して、連打の後の血流の乱れを整える。
加速した時間感覚の中では、全てが遅い。
変則のタックルを受けて悶絶する鴉面の少女は未だ宙に浮いただままだ。
そのすぐ側に浮かぶ斧槍を取り上げ、抜かりなく脇へ除ける。
『0.10秒』
鴉面の少女の甲冑の腕を掴んで引き寄せ、背後に回り、縛り付けるように胸に抱きしめた。
これまでの攻撃で既に衝撃を全身に浸透させており、鴉面の臓器の幾つかは破裂している。
循環器系は機能しておらず、神経系も麻痺しているだろう。
再生が終わるまでの間、恐ろしげな鴉面のインバネスコートは、しかし兵士ではなく、少女の形をした血袋でしかない。
相手に抵抗する術が無いなら、体格差は単純な術理で容易に埋め合わせ可能だ。
残り時間の数割を費やして姿勢を整える。
全身を発条に見立て、大地の反発まで利用して、後方へ跳ねた。
姿勢は真っ直ぐに重力の方向へ。
加速度を殺さぬまま強引に技を仕掛ける。
腹に膝を突き立て、空中で巴を描く。
膂力、遠心力、加速力。
ありとあらゆる力を投じ、鴉面の兵士をまだらの泥濘と化した大地へと蹴り出した。
翼ある黒い影が、空と地の狭間にあったのはひととき。
破壊的な暴風を伴って地に堕ちる。
『0.05秒』
強烈な速度で叩き付けられた鴉面から血反吐が吹き出した。
雪原の只中に半ば埋まるようにして打ち込まれ、蒸気機関を支点に背骨が粉砕されたのだろう、不朽結晶のインバネスコートの下で体があり得べからざる方向に捻れた。
ミラーズは頭の人工脳髄を庇いながら肩口から着地して受け身を取る。
素早く反転して、最後の瞬間を追い打ちに投じた。
飛びかかる速度のまま片足を上げて、最後に鴉面の少女の胸を蹴り飛ばす。
爪先で、砕かれた肋骨をさらに丹念に砕き、破壊された心臓に破片を食い込ませる。
押し潰された肺の残骸からガスが逆流し、鴉面の口元からの出血がより激しくなるのを見た。
人間なら、一連の攻防で鴉面の騎士は三度は即死している。
だが、スチーム・ヘッド同士ならこれだけのダメージを与えてもまだ戦闘の終結とは言えない。
ここまで徹底的に身体を破壊しても、生命管制が正常ならば、数分後にはこの兵士は蘇生するだろう。
防護装備を全て取り除いて、人格記録媒体を無効化した時、初めて闘争は終焉を迎える。
だが、時間切れだった。
静止していた雲が流れ出す。
墨絵のように中空に留まっていた黒煙が息を吹き返す。
何事も無かったかのように瞼の無い太陽が世界を見下ろしている。
勝利を確信した少女の頬から高揚の赤味が引いて、滞留した血液が目元に深く隈を彫り込んだ。
ミラーズは乱れた行進聖詠服を整えることもせず、全身を襲う激痛に悶え、細く長い、幽かな悲鳴を漏らした。
息さえ出来ない。
オーバードライブに伴って強化された再生能力は既にその身にない。
反動でありとあらゆる体組織の機能が低下し、脊髄反射すら満足に機能していない。
断裂した筋肉は中枢神経から指令を受取ることなく小刻みに痙攣するばかりだ。
自然とその体はぱったりと背中から倒れた。
内臓の損壊が著しい。浅い息に合わせて気道から血が吐き出される。
制御を喪った肉体のありとあらゆる箇所から出血が始まった。
咳き込むことも困難で、陸上で打ち据えられて窒息した人魚のようになったその金髪の少女は、苦痛の中で涙ぐみ、「全然話が違うじゃない。非人道的な扱いはしないっていうのは、何の約束だったわけ……蹴って殴って投げ飛ばしてまた蹴って……こんなみっともない格好で倒れるなんて」などと内心でボソボソと毒づく。
「お疲れ」と明滅する意識の中でシィーがねぎらいの言葉を紡ぐと、「人の体だと思って滅茶苦茶しないでよね」と冷えた口調の反論が返る。
「玩具じゃないんだから……」
震える手でどうにか口元の血を拭ったのは、かつてキジールの表層意識がミラーズに遺した、せめてもの矜持の表れだった。
最後の力で荒れた黄金の髪を軽く指で梳いて整える。
あとはふっつりと力尽きて、花の香りを孕んだ風の中で痛みに喘いだ。
こうして、ミラーズの三秒間のオーバードライブが終了した。
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