大鴉の騎士、ヴァローナ②

 霧に飲まれ白く霞む廃村と、瘴気を孕んだ黒く淀んだ森林の、その狭間。

 吹き抜ける零下の風すら置き去りにする速度で、二つの黒い影が踊り狂っていた。

 熟れた果実のような、あるいは咲き誇る花のような甘い香りのする旋風が、致命性の輝きを散らして刃を鳴らす。


 鴉面の騎士のインバネスコートの下、腰の辺りに取り付けられた小型の蒸気機関が黒煙を吐く。

 その黒煙を割り裂き疾駆するミラーズの華奢な骨格が軋む。


 開かれた服から剥き出しになった白い脚を伸ばして大地を蹴り、己の肉体を弾丸の如く打ち出して、擦れ違いざま切りつけ、鴉面が長柄の武器を回して反撃に転じる前に強引に大地を蹴って突進し、曲芸師のような仕草でさらなる斬撃を見舞う。


 四方八方から絶え間なく繰り出される苛烈な攻撃に晒されて、しかし鴉面の騎士は無傷だ。

 捨て身に等しい突撃を繰り返すミラーズに対し、鳶外套のマントを翻しながら一撃一撃を斧槍で精妙に受け流す鴉の姿は、衣服を香木で燻された闘牛士のように華麗ですらある。


 シィーは翠玉の目玉を頻りに動かし、刃を徹す隙間を探す。脇や足首など露出部が無いわけではない。だがこの攻防においては狙えない。巻き上げた土が重力に引かれるより速く、返しの斧槍を躱すための空間を作り、逃げ込む。


 過熱して脳を焼く人工脳髄が『全く、お前さんで良いのは顔と声だけだ』と思考すると、首輪型人工脳髄から『悪態を垂れる暇があったら、伊達じゃ無いっていうところをさっさと見せたら? あと2.5秒でバッテリー切れよ』と不機嫌そうな信号が返ってきた。


『誉めてるんだぜ、他人に酷いことをするには向かない体ってことだ』


『酷いことされるための体でもないわよ』


『そうだとも。そうさせないために努力してるんだ、ヘソ曲げないでくれよな』


 一合切り結ぶ毎に行進聖詠服の中で腕の筋肉が引き千切れ骨が異音を立て関節が砕ける。

 音速を大幅に超過した世界で、己の操る肉体、キジールという名をした少女の肉体が壊れていく音を聞く。

 アルファⅡの用意していたオーバードライブは存外に強力だった。三秒とは言え加速倍率は相当なもので、生命管制の強度も申し分ない。自壊、すなわち限界を超えた機動の副産物としての身体損壊程度であれば、瞬間的に再生される。

 総じて、相手にハイレベルな対抗オーバードライブが無いなら、敵に知覚される前に瞬間的に決着を付けられる。それほどの水準だ。


『だってのに振り切れない! 聖歌隊のスチームヘッドは雑魚揃いだったはずだろ、こいつ何なんだ』


『大主教の使徒だもの、弱くはないはずよ。いいえ、具体的な強さは知りませんけれど』


『そりゃあな。加速の倍率だけなら継承連隊の上澄みと同等だ。戦わないお前さんには分からない次元の話だ』


 それほど高性能な装備を持っているようには見えないが、鴉面の騎士は何らかの手段でこちらの速度に食いついてきている。再生能力の程度では相手も同じかそれ以上。しかも体格と武器のリーチでミラーズ=シィーに勝る。

 過度の自己破壊と再生を頼りにした、攻撃という名の防御。

 捨て身の剣戟を繰り出してなお、キジールの肉体は鴉面の兵士に大きく劣っていた。


 刃を打ち鳴らすための肉体にあらず、ただ神と愛のために高らかに歌うことしか出来ない永遠に未成熟な少女である。対手は間違いなく戦闘用。勝つのは難しい。

 シィーの判断としては、最善手は逃走だ。しかしキジールの儚い筋出力と、エージェント・ミラーズのオーバードライブ継続時間では背を向けるなど選択肢にならない。大本体であるアルファⅡから離れたときエコーヘッドがどうなるのか、という懸念も捨てきれない。

 キジールとは厳密には別人だとしても、シィーは彼女が苦しむ未来を見たくなかった。

 自然、この局面で選択肢は一つに定まる。


 苛烈に攻めること。

 攻める手を決して休めないことだ。


 バッテリーの枯渇まで残り2秒を切った。

 無謀を装った突進の連続は既に軌跡を読まれつつある。いずれカウンターを仕掛けてくるだろう。

 それを牽制して、ナイフ、身を預けるには余りにも頼りない刃を振るい、今まで以上の頻度でステップを刻む。そして両足が地面についた時には膝から力を抜き慣性に任せて滑るように移動した。

 姑息な技でしかないが、相手に東洋の兵士と戦闘した経験が無く、オーバードライブに伴う思考のクロックアップが強烈なものでなければ、加速度を見誤らせることが可能だ。


 果たして、幻惑効果は想定以上でも以下でも無かった。

 敵の蒸気機関が吐き出す黒煙のベールの向こうで、斧槍の刺先が迷いに揺らめくのを確認し、オーバードライブ機能自体は自分ミラーズと大差ないか、若干低いレベルだと改めて判断する。

 ありふれた一時しのぎの技を見抜けないとは、そういうことだ。戦闘後に専用の調整が必要になるほどの超高負荷のオーバードライブならば、摺足だろうが縮地だろうが、小手先の技術は初見で見破ってくるはずだった。

 

 もっとも、これは相手の性能が低いということ意味しない。

 シィーの認識では、戦闘用スチーム・ヘッドの肩書を持つには十分な性能を発揮している。

 むしろ、限定的であるにせよ、同水準の破壊的抗戦機動オーバードライブが可能なアルファⅡの簡易型人工脳髄が異常に高性能すぎるとも言えた。


『1.391秒経過。ねぇ、あと2秒よよよよ』


『いや2秒もないっての』


 生命管制で処理能力がオーバーフローしているらしいミラーズへ軽口を返しながら、不朽結晶の衣服を頼んで、斧槍の先端に飛び込んでいく。

 突き出されたポールを左手ではたき退ける。コートで動きを誤魔化しながら前蹴りを繰り出してきたがその攻撃は見え透いていた。

 白い息を口元から一条引きながら跳躍して回避。回転を加え、開脚して行進聖詠服を翼のように広げつつ踵落としの要領で重心を変化させ、落下の勢いを加速させながら上段から蹴りつける。

 さらには迎え撃ってきた斧槍の矛先をブーツの足先で払い、さらに着地の寸前に斧槍を握る手目がけてナイフを振り抜いた。

 鴉面もむざむざ打たせるような手合いではなく、一瞬だけポールから手を離してこの斬撃から逃げおおせた。落下していく金髪の少女がついでとばかりに繰り出した生白い脚の横蹴りまでも、甲冑の拳で難なく迎撃される。

 ミラーズが着地すると同時、鴉面は遅滞した時間の中でいまだ宙に浮いていた斧槍を再度掴み、石突きによる最短動作での打撃を突き出してくる。

 ここではキジールの小柄さが活きた。

 身を屈め、あるいは逸らし、細い素足を振り子のように扱って肉体を素早く操縦し、重い一撃とそれに続く分厚い刃の乱打を現代舞踏家のように紙一重で避ける。

 

 無論、超絶的な身体操縦の根底にあるのはシィーの積み上げてきた戦闘経験だ。

 かつての敵は悪性変異体に、城の如き大型蒸気甲冑スチーム・パペットども。

 自分より大柄で強力な相手に対して立ち回るのは慣れている。


 シィーは片時も休むことなくひたすら動き続け、あらゆる機動を次の攻撃に繋げる。

 身体動作は平時の十倍以上、思考速度に限れば数十倍にも加速された世界で、素足を晒した少女の金髪が、装飾を鳴らす黒服を背景にして雷光のように輝く。

 黒煙を身に纏う鴉面の斧槍が一つの攻撃を打つ間に、少女の体に不釣り合いな大ぶりのナイフが五つの閃きを浴びせる。

 鴉面の兵士が肉体を大きく動かす度に花の香りの甘い風が吹き付けてくる。

 ミラーズの一閃が常に速い。

 手足を精妙に抜き差しし獣じみて転げまわるミラーズに対し、鴉面の兵士は防戦に徹している。


『1.58秒経過。これ、もしかして勝ってる?』


『全然だ。勝ってるならもうとっくに勝ってる』


『でも滅多斬りにしてるじゃない』


『一回も相手に届いてねぇんだよ。相手の武器に刃を滅茶苦茶にぶつけてるだけだ』


 どこまで攻めても、不利なのはあくまでもミラーズの方だ。

 積極的に間合いを詰めて攻撃を仕掛けなければ、斧槍の長さと体格差で押し切られかねない。

 リーチでも膂力でも足運びでも相手に及ばないならば、手番を回させないよう道理を外れた攻撃を徹底するしかない。現状は少女の未発達な肉体を限界を超えて酷使して猛攻を重ねることで、敵に最も確実と言える『防御』の択を選ばせているに過ぎない。


 印象とは裏腹に、この攻防の主導権は鴉面の方にあると言える。

 闇雲な全力攻撃こそがシィーに選択出来る最善の防御だった。結果として功を奏してはいるが、麻薬を濫用した踊り子か狂犬病の犬のように突進を繰り返し、矢鱈と転げ回って移動するのは、苦肉の策以外の何かではない。


 スチーム・ヘッド同士の格闘戦では、死後の戦闘経験と同程度に、生前の肉体の使用履歴が物を言う。

 ミラーズの肉体は、シィーがこれまで出会ってきた全てのキジールと同じく、単純に運動能力が低く、特に丁寧に脚を動かすのが下手だ。

 ここまでは奇天烈な機動でカバー出来ているものの、シィーの得意とする先の先、あるいは後の先を取るための精妙な剣筋、それを支える運足は中々再現出来ない。

 敵が思い切った攻撃に出たときには受けきれない。一気に形成が逆転してしまうだろう。 


 だから今は、攻めきれずとも、攻められることもない……。

 そんな膠着状態を維持することだけに注力する。


『だいたい何で聖歌隊がお前に襲いかかってくる? 大主教の使徒同士で直接的に潰し合いするなんて聞いたこともないぞ』


『ヴァローナに悪意を向けられる心当たりはありません。ちょっと思い詰めたところのある子だったけど、笑顔が可愛くて、リリウムのことが大好きな良い子です。あたしだってマザーとかシスターと呼ばれていて、結構仲が良かったのよ。私の家族も同然です。音楽の趣味は合わなかったけど』


『反抗期だってんならそれでもいいがな。しかし、なんでそんなやつが、こんな場所に再配置されたのかもよく分からん』


 支援AIとしてのミラーズの動作は安定しつつあった。打ち合うだけなら無駄な思考をしている暇もある。

 しかし、ミラーズがオリジナルの記憶の断片から再構築されたエコーヘッドであるためなのか、ヴァローナと呼ばれるこの鴉面の少女については然程の情報を得られなかった。

 唯一確かなのは、簡素な装備ながら油断出来ない実力の持ち主で、自分たちに敵意を持っているということだけだ。


『1.82秒経ったわよ。ねぇねぇ、あのね、どこがローニンなの? あんなに格好付けてたのに、上手いこといってないみたいだけど。もうすぐこの速くなるやつ終わっちゃうわよ』


『背丈も肉も得物も無いって状況で、長物相手に持ちこたえるってのはそれなりに凄いことなんだぜ、ミラーズ。お前がもっと……お前の娘ぐらい成長してりゃなと久々に思ったよ。あいつは内気だったけど筋は良かったし手足も長かった』


『そういうのはレーゲントになる前のあたしに言ってほしいわ。もっとも、このあたしはもう、死んだあたしですらないわけだけど……』


 余裕があるのは口ばかりだ。お互いが張り詰めた状況下で運動処理に全力を費やしている。

 ステップと歩法で認識を惑わせ、飛び跳ねては飛び退き、飛び退いては飛び込み、蹴られた犬のように転げ回り、それしか知らぬ異常者のようにナイフを振るい続ける。


 厳粛な高貴さと娼婦的媚態が入り交じるゴシック調の行進聖詠服は今や泥濘に塗れ、触れた汚物を片端から浄化する金髪と手先足先だけが汗に濡れて燃えるように煌めいている。

 一挙手一投足の度に服の下で超高速戦闘に耐えかねて体組織が自壊し、擦れた皮膚が炎症を起こし、ガス交換をすれば口腔から血が零れる。

 括約筋が壊れずに下半身からの出血を防いでいるのは、高度な生命管制の賜物だ。吐血は制御できないが制御できる出血は当然避けるべきだ。熱エネルギーの捻出と継続的な身体冷却、酸素の過剰供給が必要な高倍率オーバードライブにおいては、極端な話ではあるが五感や四肢よりも一定量の血液の方が重要だ。

 もっとも、その生命管制にしても、神経が麻痺するほどの重い一撃を受ければ壊れるだろう。

 無理が嵩んでいる。敵が致命打を繰り出す前に、時間切れか、あるいは肉体の限界が来る。


 だが、シィーは微塵の焦りも見せず、無謀で冷徹な攻勢を維持した。

 ナイフと斧槍では、土台リーチが違いすぎる。

 基礎的な身体能力もあちらが上だ。


 幸いなのは、敵側にこちらのオーバードライブが三秒しか持たないとは看破されていないだろう、ということだ。


 シィーの攻勢はある意味では悠長でさえある。対手からしてみれば余裕すら感じるほどだろう。己の消耗を全く考慮しない、少女の形をした殺戮の嵐のような攻撃を前にしては、こちらに時間制限があるなどと判断することは出来ないはずだ。

 そこにもう一つの事実を重ねれば、この事実は、危ういところで勝機に繋がる。


『残り0.99秒よ』


 仕掛け時だ。

 シィーは少女の小さな鼻で、すん、とにおいを嗅ぐ素振りを見せた。

 リアクションは無いが、鴉面の少女に兵士としての判断能力があるならば、ただ嗅ぎ取る素振りを見せるだけで危機感を与えられたはずだ。

 それはミラーズが、即ちこの金髪の翼を背負う可憐な狂犬が、己の重大な損傷を決して見逃していないという証明だからだ。


 戦闘開始からずっと、強化された嗅覚が補足してる。

 キジールの血の香りは花水木に似ている。シィーにとっては嗅ぎ慣れた香りだ。

 だがそれとは異なる血の香りが充満しているのをはっきりと感じていた。

 アルファⅡを無視すれば、香りの主は決まっていた。

 この攻防ではただの一閃も身に受けていないはずの、鴉面の少女だ。


 彼女は負傷しているのだ。

 インバネスコートに隠れているが、敵は血尿の失禁や下血に襲われていると見て間違いなかった。

 生命管制が万全ではないのだ。

 思い当たる節はある。アルファⅡが最後の足掻きで放った高圧電流。そして地面へと叩き付けるというシンプルな物理的破壊だ。それらのダメージがまだ残っているか、悪化し続けている。


 スチーム・ヘッド同士の戦闘は常に仕掛けた側が有利だ。

 ミラーズの戦闘の第一手は、ミラーズがナイフを掴む前に既に成立していたのである。

 鴉面の少女が破壊から復帰しているように見えるのはおそらく仮初めのこと。アルファⅡの捨て身の反撃で破壊された臓器は、結局完治出来ていないはず、とシィーは当初から分析していた。

 重要部位だけを簡易に修復して、肉体を再起動させる。戦闘用スチーム・ヘッドなら基本中の基本の技だ。だがオーバードライブ中は戦闘に即座に必要でない部位の損傷はケアを後回しにされる。そればかりか、負傷した肉体でオーバードライブを継続すれば、破損している内臓や神経組織は逆に加速度的に壊れていく。当然のことながら臓器は一つ一つが独立しているわけではない。一部が完全に崩壊すればその影響は凄まじいものとなる。

 その時を迎えれば、必然的に、敵側、即ちミラーズに主導的交戦優位イニシアチブが移ってしまう。

 負傷の著しい大鴉の騎士には、長期戦に拘る理由が無い。

 むしろ、本音では短期決戦を狙っているはずだ。


 シィーは敵が早い段階で攻勢に転じると踏んでいた。

 生き急ぐかのようなシィー=ミラーズの連続攻撃は、実際には防御であると同時に誘いである。

 敵が急いて仕掛けてくる瞬間を、虎視眈々と伺っているのである。

 刃を振る。転げ回って攪乱する。

 逆手にナイフを構えながらまた突撃する……。

 永遠とも思える攻勢を全力で継続する。


 オーバードライブ解除まで残り0.5秒の段階でようやくタイミングが訪れた。

 敵の爪先が僅かに震えるのを視界の端で捉える。

 下血か失禁か、纏まった量の赤い血が衣服の下から滲み出た。

 どこかしらの内臓が深刻な崩壊を起こしつつある。

 来る、とシィーは直観した。相手は限界だ。ここで必ず攻勢を強めてくる。

 しかし出血を注視することはしない。

 戦士の才覚が、肉体に勝機を掴んだことを知らさせない。

 決して気取られてはならない。


 果たして鴉面の兵士は勝負に出た。

 拙速にも、刃の側面による打撃で、強引に狂犬を払い除けようとしてきた。

 敢えてこれを受けて雪の上を転げる。

 衝撃で肋骨が割れ、ミラーズは喘ぐように苦鳴を漏らした。

 だがシィーの認識では、無視できないレベルの重大損傷では無い。

 肺は無事だ。

 しかしそこで敢えて誘うように鳴かせたのだ。


「きゃん!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る