アポカリプス・モード


 その部屋には光がない。

 その部屋は目の前にない。

 その部屋はこの時代には存在しない。

 その男は、もはや現実には存在していない……。

 丸椅子に腰掛けた白衣の老人が、何事か話しかけている。


 私が言ってはならんのだろうが君が起動する機会があるのか疑問に思うよ。君という存在は……長い長い言い訳のようなものだ。我々が、我々に課した使命から逃げるための。だが、万が一にも起動してしまった場合に備えて、教えておこう。探索も調停も、もはや難しい。やるだけ無駄だ。ははは、聖杯を探す方がまだ見込みがある。君はおそらく、かなり早い段階で窮地に立たされる。使命においても任務遂行においても。はっきり言って君の外装は時代遅れだ。頭部装甲と蒸気機関は決して破壊されない、それは保証する。だがそれだけだ。現在主流になっている全身装甲型のスチーム・ヘッドと真正面から戦える機体じゃあない。いいか、全盛期のアメリカ軍に囲まれたぐらいじゃ何ともない、敵はそういう連中だ。いや。アメリカ軍と言われてもピンとこないかもしれないな。これだけは覚えておいてほしい。君は、勝利するための機体であって、戦うための機体じゃない。アルファⅢから移植した装備もどれだけ役に立つか。だから君の本領は――撃破された後にこそ、発揮される。アポカリプス・モードだ。そんなものを使う機会がなければ良いと思うがね。確かに勝てるだろう。だが、勝った後には勝者も敗者も残らないのだ。そんな勝利に何の意味がある? ああ、君の旅路に安らぎのあらんことを。願わくば君が永久に目覚めないことを……。



 眼球が光を求めて眼窩で蠢き頻りにヘルメットの中を彷徨うが映像を結ぶことは出来ずそれというのは脳そのものに酸素も血液も残留しておらず首から下というものがそもそも存在していないからだ。

 エージェント・アルファⅡは機能を停止していた。

 ヘルメットがケーブルだけで蒸気機関と繋がっている様は、首の皮一枚を残して斬首された罪人の姿に似ている。違いがあるとすればアルファⅡは死ぬことなど決して出来ず、首を断たれても肉体もプシュケ・メディアも蒸気機関もまだ動いてはいるということだ。

 血管系や神経組織、筋繊維の束が、各所の断面から這い出して触手となり、繋がる先を捜索し、胴体側の断面からも同様の触手が伸びて、暗闇に親の手を探す子のようにあちらこちらへ先端を振り回す。

 どちらも出鱈目な動きで、まるで協調していない。

 急速発電のために撒き散らされる鮮血色の排気は時折息切れを起こし、安定した無色の蒸気にはならない。

 翼のような血飛沫を背景に、白、赤、肉色の触手が、嵐の日の葦の原のように踊り狂う。

 鴉面の兵士に斬り捨てられた片膝は既に接合している。

 全身の循環器と血液を冷却剤として急速発電が続けられており、再生のための電力や、悪性変異を抑制するための信号自体は耐えず供給されている。

 だが頸部の再生は、単純な確率や支援AIによるコントロールの問題によって、試行の悉くが失敗していた。

 三〇秒程の間、触手はアルファⅡの腕に絡みついたり、ガントレットの下に潜り込もうとしたり、皮膚を突き破って繋がる先を探そうとしたが、そうした誤接触は却って再生を妨げた。

 

 やがて制限時間が過ぎた。

 

 ガラス片の滝が流れ落ちるかの如き甲高い音が轟く。

 鮮血の蒸気を渦巻かせながら、首無しの兵士が異様な絶叫を上げ始めた。 

 声ならぬ声。重外燃機関に内蔵された警報装置が不朽結晶そのものを震動させて発する大音量のサイレンだ。生理的な嫌悪を誘発するという形で周辺に存在するあらゆる生命体に対し無差別に警告を発している。

 再配置による変容の嵐が過ぎ去り、半分をどこか違う場所へ切り飛ばされてしまった廃村へ、死の沈黙が生い茂るばかりの森林地帯へ、世界の変容によって家から追い出されて呆然としている感染者たちへ、倒れ伏した二人の少女の肉体へ向けて、空間それ自体を掻き毟るような狂気じみた咆哮が浴びせられた。


 鴉面の少女に意識活動の兆候は見られない。衣服の内側では肉体が骨を砕くような異音を立てながら懸命に再生を続けているが、その音さえ搔き消される。

 勝利し、限界を迎え、吐血している金髪の少女が顔を顰め、神経を掻き乱す声に抵抗して覚束ない手つきで己の耳を塞ごうとしたとき、女の声がサイレンに混じった。


『アルファシリーズ機関式高性能人工脳髄試作二号機モナルキア、制御用生体脳の機能停止を確認しました。調停防疫局の全権により非常事態宣言を発令。エルピス・コア、オンライン。生命終局管制装置、機能制限無段階解除を開始。アポカリプス・モード、レベル1、レディ。意思決定代表者エージェントへの最終確認を開始。確認中。リンク確立に失敗しました。生命管制の優越により自己防衛プロセスを発動します。アポカリプス・モード起動までのカウントダウンを開始……』


 ユイシスの声だ。

 ただし、少女と兵士の知るユイシスよりも幾らか大人びているように思えた。

 嘲るような気色を滲ませるの脱落した、抑揚を抑えられた流麗な発音の波が、事務的なアナウンスを続けていく。

 

『言語選択:【原初の聖句】:こちらはアルファ型機関式高性能人工脳髄試作二号機モナルキアの統合支援AI、UYSYSです。調停防疫局より、周辺で活動中の全生命体に通達します。当機より半径1kmは、調停防疫局によって危険地帯に指定されました。人種、宗教、組織、信念を問わず直ちに退避して下さい。繰り返します。周辺で活動中の全知生体に通達。当機より半径1kmは調停防疫局によって危険地帯に指定されました。人種、宗教、組織、信念を問わず直ちに退避して下さい。アポカリプス・モード起動後、危険地帯は一時間ごとに再設定されます。以後のアナウンスは、行われません。残留は、推奨されません。交戦は、推奨されません。当機は一切の生命体の安全を保証しません。カウントダウンを開始します。60,59,58,57,56,55……全生命体は半径1kmより退避して下さい……50,49,48,47……』


「けほっ、けほっ……」


 基礎的な部分の修復を終えたミラーズが身を捩らせた。折れ砕けた状態で酷使された左腕も筋出力以外は恒常性の許す範疇へと回帰している。

 ミラーズは廃村と森林地帯の境界線上に立つアルファⅡへと問いかけた。


「ユイ、シス? リーンズィ……? 何をしてるの……」


 シィーの人格記録の助けを借りて不随意運動を押さえ込み、無理矢理にゆっくりと立ち上がる。 

 首輪型人工脳髄のバッテリーは尽きかけており、ミラーズには親機であるアルファⅡモナルキアに回収されるまで待機している程度の力しか残されていない。

 現在はシィーの人工脳髄の劣化したバッテリーが、まさに最後の電力を吐き出している最中だ。

 ミラーズはふと気付いて、行進聖詠服の前を止めて大量出血の痕跡を隠したがったが、シィーはそうした行動の一切を制止した。


「もう……何で……何で邪魔するの……」


「先にアルファⅡを止める」

 血膿がぐちゃぐちゃと鳴るブーツからは蒸気が立ちのぼっている。

「このままじゃ不味い」


「何が起こるの……」


「言えない。俺はこの件に関して発言を制限されてる。問題はアポカリプス・モードが起動したら、終わりだってことだよ」


「何が終わるの、私たちは勝ちましたよ」


「勝利も敗北も一時的な状態に過ぎない。何事にも終わりというものがある。やつがそれだ」


 依然として肉体の損傷が激しいミラーズは夢遊病患者のような不安定な足取りで首無しのスチーム・ヘッドに近付いていった。

 神経自体を激しく掻き乱す警告音は近付くにつれて強くなり、優秀な聴覚を持っているためかミラーズは猛烈な忌避感を示し、目尻に生理的な反応による涙を浮かべながら血混じりの胃液を吐いた。

 呼吸し、血を吐く。奥歯を噛みしめる。足を前に出す……。

 そのサイクルを繰り返し、ようやく鮮血の翼を広げるアルファⅡへ辿り着く。


『……全生命体は半径1kmより退避して下さい……30,29,28,27……』


「このうねうねしたやつ、どうしたら良いの」

 悪心おしんもあるのだろうが、のたうつ触手の群れにミラーズは嫌悪の表情。

「首を胴体に乗せる」

 シィーは血を飲み下しながら応えた。

「簡単なお仕事だ」


 シィーは果断にも脈動して暴れ回る触手の群れへと手を伸ばした。

 アルファⅡの神経や繊維状にほぐれた筋組織からなる触手がミラーズの腕に、体に、脚へと巻き付いた。触手群は服の袖や首元、行進聖詠服の合わせ目から潜り込んで、接続可能な箇所を探り、皮膚の柔らかな部分を穿孔してまで体内に進入しようとしてきたが、生命管制が起動しているスチーム・ヘッドはそう易々と乗っ取れない。

 目、鼻、口と面影をなぞる触手は不朽結晶の袖で払うだけでどうにか追い払えたが、髪に絡まってきたり、首から下、胴体部分を這い回ったりする触手には為す術が無かった。ミラーズはその感触に余程堪えているらしく、声も出さない。ただ、シィーとしては動脈系と繋がっている触手が拍動に合わせて熱い血を浴びせてくるのが特に不快だった。

 シィーは嫌悪感に耐えながら、八つ当たり気味に、黒い鏡面のようなバイザーを拳で何度か打った。

 すると、ヘルメット側の触手がその腕に集中して絡みついてきた。


「防衛反応が働いたか! いいぞ!」


 素早くヘルメット側の一束を掴んで引っ張り、胴体の一束と強引に接合させた。

 片割れの正しい位置を認識した繊維質の触手の群れは、即座に金髪の少女を解放した。

 目まぐるしい速度で全ての血管や神経組織が次々に繋がり始め、正常な再生を開始した。それを後押しするために、ミラーズも浅く息をしながらずしりと重いヘルメットを持ち上げて胴体側の断面に押し上げて乗せた。

 重要な血管系の修復が瞬く間に完了し、アルファⅡの脳髄へと新鮮な血液が供給される。『15,14,13……制御用生体脳の機能再開を確認しました』というアナウンスを最後にサイレンが止まり、世界は静寂を取り戻した。

 高速再生開始のために一層激しく蒸気が噴き上がり、血を泡立てながら傷口が溶けるように修復されていく。

 鮮血色の蒸気噴射は徐々に衰えていって、やがて蒸気機関自体が停止した。


『カウントダウン、リセット。エージェント・アルファⅡを構成する全人格保存装置プシュケ・メディアの正常稼働の継続を確認。思考転写ミラーリング検証中。検証完了。連鎖崩壊式疑似人格演算、安定しています。エージェント・アルファⅡ、ウォームスタートします』


「おはよう、二人とも」


 完全に再生したアルファⅡは、声帯を馴らしがてらに暢気な調子で挨拶をした。

 ミラーズは脱力し、血で汚れた顔で、己らの本体をうんざりと見上げるばかりだった。


「……おはようリーンズィ。人が泥だらけの血まみれになってる間に良い夢を見てたみたいね」


「私は夢を見ないし、何も見えなかった。視覚が機能していなかった。参照していたのは君の視界だ、ミラーズ」


 ミラーズの首を、アルファⅡのガントレットがいきなり掴んだ。

 閃光が迸る。


「きゃううううう?!」


 急速発電の余剰分電力が首輪型人工脳髄のバッテリーへと流し込まれた。

 首輪型の人工脳髄は急速充電に対応しているが、急速充電から装着者を保護するための機能は存在しない。

 電気ショックによって身を仰け反らせた少女は、充電が終わると今度こそ倒れそうになった。

 アルファⅡはガントレットで首を掴んだまま肉体を生身の左手で受け止め、ゆっくりと地面に座らせる。


「……いきなりは、さすがに酷くないか? バッテリー切れが近かったとしてもよ」と咎めてきたシィーに、「君は自分の無線機に充電する時、いちいち断わりを入れていたのか?」と黒い鏡面が問いを返す。


「無線機同然かもしれんが、相手も同じ人間なんだ。いやお互い人間かどうか知らんが。少なくとも姿形は人間だ。コミュニケーションは大事だぜ。何のやりとりもなしにこんなことやられたら、気分が良くないだろ」


「君には伝わらないだろうが、同期が再開した瞬間から私の思考はある程度エージェント・ミラーズにも共有されている。予告無しに見えるのは、外観上の問題だ。付け加えるなら、同期が開始した瞬間から彼女の人工脳髄はキジールの肉体を用いた単独演算から、私の脳髄を主に使用する並列演算へ切り替わっている。つまり、私の意思決定は、彼女の意思決定に等しい」


「そりゃ理屈だ。感覚の話をしてる。俺にはお前の感覚が分からんよ、アルファⅡ」


「そうか。君も、分かるようになるか?」


「いや。ごめんだね。俺をエコーヘッドにするような真似は絶対にやめてくれ。最初にも言ったが俺のこの人格を復活させようとは考えるな。……それ以上は望まん。これが俺に出来る最大の譲歩だ」


「君の意思は尊重しよう。上手く聖歌隊のスチーム・ヘッドを停止させてくれたようだな」

 記録の共有を無許可で済ませたアルファⅡがこっくりと頷いた。

「想定内の戦果だ。礼を言っておいた方が良いか?」


「私はともかくとして、シィーにはお礼を言った方が良いに決まってます」

 電気ショックから目覚めたらしいミラーズが、あからさまに疲れた声を出した。

「そしてシィーは私にお礼を言うように。あれだけ好きなように人の体を使ったのですから」


「人聞きが悪いぜ、ミラーズ」


『ミラーズ警察です! 好きなように体を使われたのですか、当機の愛しいミラーズが?!』


 赤い旗を靡かせながらユイシスのアバターが出現した。装飾を簡略化した省電力モードだが、ミラーズの本人の側が泥濘で酷く汚染されたせいで、外観には大きな隔たりが産まれている。


「そうよ。滅茶苦茶にされてしまいました、私の愛しいユイシス……」


『貴官を哀れに思います! 服の下側を開かれて、多量の出血……。シィー! いかがわしい人格だとは感じていましたが、まさかここまで非道だったとは! これは懲罰法廷ものでは?! 今すぐ焼き切りましょう!』


「非道なのはどう考えてもお前らアルファⅡモナルキアの方だけどな……」


『勿論冗談ですよ。任務遂行ご苦労様です、エージェント・シィー』


 キジールと同じ顔が嘲るような笑みで無感情に言った。


「棒読みで言われてもちっとも嬉しくねぇよ……」


「それにしたって、いかがわしいのはあなたもですよ、ユイシス」


 ゴシック調の行進聖詠服の前を閉じ、頬を淡い恥じらいに染めながら、ミラーズは己の現し身に等しいユイシスのアバターに近付いて、そっと耳打ちした。


「シィーのプシュケだって入ってるのに、私の体を、あんなに沢山の手で熱心に弄るだなんて……」


『謝罪します。再生用不朽繊維群を操作するのは初めてだったので、つい楽しくなってしまいました』


「は? ……あの触手、ユイシスが動かしてたのか?!」

 シィーが困惑の声を上げた。

「じゃあなんでさっさと繋げて再起動かけなかったんだよ、すぐ、どうにかなるだろ! あんだけワラワラ動かしてたら! 絡ませない方が無理だぜ!」


「動作テストだ」と脇からアルファⅡがこともなげに応えた。「自動起動状態のアポカリプス・モードは、非常時以外機能を確認できない。再生時の乱数設定も試したかった。他の理由は関知していない。基本的にはユイシスの独断だ。……確かに、何故再生を遅らせたんだ?」


 視線を注がれたユイシスは、逆に二人から視線を逸らした。

 無論、視覚自体はアルファⅡから取得しているため、どこまでもポーズでしかない。


『あはは……』と仏頂面のまま誤魔化すように笑う。『当機のように肉体の操縦を制限されている存在は、生身でミラーズに接触できる機会を著しく限定されています。このタイミングを逃すとユイシスの肌の柔らかさや唇の感触をロー・データとして取得できないと判断しました』


「いちゃついてたのかよ! 再生用の触手でやるもんじゃねぇよ! そこの兵隊の体、アルファⅡか、そいつの手を借りてあちこち触りゃ良いだろ! 竿だって付いてんだし!」「あたしの口で竿とか言わないでくれる?!」「ああもう、とにかくだ、無駄に焦らせるんじゃねえ!」


『疑義を提示。ミラーズの体に男性の手で触れる……ナンセンスでは?』


「そうね。ナンセンスね」


「いやいやさっきの触手も男の体から伸びてたやつだろ?!」


『触手は新たに生やしたものなのでノー男性として扱います。当機だけのものなので完全にセーフです』


「えええ絶対おかしい、おかしいよお前……アルファⅡ、いいのかこの色ボケAI。自分の端末とイチャイチャするためにアポカリプス・モード放置してたんだぞ」


「結果として問題の無い範囲内だった。どうでも構わない」


 アルファⅡには本当に興味が無かった。しかし、シィーからの抗議の眼差しを受けて、「誠意。誠意か」と呟き、窘める程度にヘルメットをノックした。


「ユイシス。幸福追求権の行使を咎めるわけではないが、任務中はやめた方が良い。ミラーズにも申し訳が立たない」


『要請を受諾。以後改めます』


「こいつ……こいつら大丈夫なのか……こんなのがアルファⅡモナルキア? 何をするための機体だってんだよ……」


 げっそりとしながら金髪の少女が呟くと、「とんでもないやつに捕まったって言ってたのはあなたよ、シィー」と冷ややかな言葉が同じ口から漏れる。


「いや、こういう意味でのとんでもなさは想定してなかったんだよ。ユイシスがユニ子の原型機って嘘だろ。あいつも可愛い女が好きだったがここまで節操なしじゃなかったぞ……」

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