森の中で①

 既に十時間以上を移動に費やしていた。

 景色は変わらない。幾度となく繰り返された昼夜の反転は終息し、また長い長い太陽の時間帯がやってきた。

 痩せ細った葉が目の粗い天蓋のように頭上を覆いガラス玉のような無機質な冷たい光が微かに差し込んでいる。果てのない森が静止した波濤と化して眼前を埋め尽くしざぶりざぶりと打ち寄せて総身に圧力を掛けてくる。

 見飽きた寒色の空と見飽きた絞首台じみた黒い木と見飽きた腐れた朽葉の土。

 饐えた空気は焦らすように服の上から肌をなぞって四肢に纏わり付く。


 そして、花の香りに誘われた獣たちの足音がする。

 獣の多くは枯れ草の平原から切り離され一切の罪を免除されて血と肉と毛皮と四本の脚を祝福として与えられたといった風体のどこか懐かしい姿をしたオオカミの群れで、冬毛を蓄えているのか無闇にふわふわとしていた。

 飢えているわけでもないらしく距離を保ってこちらを観察していた。


 オオカミたちの目に反射するのは、少女たちと兵士だ。

 まったく奇妙な一団である。 襲撃された教会で悲惨な運命を迎えてそれでも死ねなかった年若い修道女と、一緒に逃げ出す羽目になった鈍間な兵士の混成部隊。さもなければ壊滅した劇団員の生き残りたち。

 いずれにせよ巨大な滅亡の渦に飲まれた取るに足らない藁束であり、その進路は星の無い海を渡ろうとする船のように不確かだった。


 先頭を進む棺のような大型外燃機から細く水蒸気の煙を上げるヘルメットの兵士がそうすることだけを命じられた機械であるかのように不朽結晶のナイフを振るう。進路上にある邪魔な枝あるいは木をひたすら打ち払う。

 大柄な奇異なる兵士の足跡を、リーンズィとミラーズ、二人の少女の揃いの意匠のブーツが辿る。


 足場が酷く悪いせいもあるが、あまりにも遅々とした進行だった。

 病死した疫病患者の黒い血管の浮いた肌のような不吉な赤黒い腐葉土の山は緩やかに隆起と陥没を繰り返している。

 リーンズィは足先で殊更慎重に確かめる。右手はミラーズに差し伸べて左手にはヴァローナの使っていた斧槍を握っている。ほとんど杖の代わりだったが斧槍の上部には調停防疫局の赤い旗を括り付けていた。いかにも粗末な作り。しかしこの世界でおそらく何よりも高価な軍旗。

 木々の合間を擦り抜ける氷の風に吹き流されて頼りなくはためく。


 ミラーズが倒木に脚を引っかけた。

 歩調を合わせて歩いていたリーンズィが素早く手を引いて体を支える。


「……あれ、あたし、また転んだ……?」


 一時的に覚醒したミラーズが、幼子のようなぼんやりとした舌遣いで、素っ気なく言葉を紡ぐ。


「ありがと……」


 金髪の少女の顔色は木陰が陽光を遮っているのを差し引いても悪い。

 あまりにも単調な行路が続くためにバッテリーを温存するために疑似人格再現の演算精度を落とし肉体の代謝も抑えている。陶磁器めいた肌はいっそう白くなり翡翠を填め込んだような瞳はますます生気を失って宝石らしさを増している。

 ただしリーンズィに助けられたときには五回に一回だけお礼を言うと決めているようで、おおよそその通りのパターンで覚醒した。


「まだ着いてくるのね……」


 ミラーズは追跡してくるオオカミの群れを見ながら心底不愉快そうに細い眉を顰めた。


「彼らのテリトリーなのだろう」


「勝手についてくるなんて失礼ではありませんか……」


「野生生物は我々の都合など知らない。我々が彼らの都合を知らないように」


「ねぇリーンズィ、この森まだ終わらないの?」


「その質問は八十七回目だ。つらいのならば、いっそ、全自動モードに切り替えても良い」


 リーンズィ、ライトブラウンの髪の少女を筐体とするそのスチーム・ヘッドは、刻むような発音で明瞭に応える。

 憂鬱と快活の同居する眉目には光が無く熱も無い。

 つまりアルファⅡと遭遇した廃村から何ら変わるところの無い顔をしていた。

 鴉面を着けていないのは視界確保のためだ。こうも鬱蒼とした森だと視野は出来るだけ広く維持したほうが有利だ。


「その、自動モード? だと、どうなるの」


「擬似人格の演算がほぼ完全に停止する。君は特定条件にのみ反応する遠隔操作式人工脳髄ラジオ・ヘッドのような状態になり、外部から解除の操作を受けるまで全ての刺激に無反応になる。特に危害は加えないので安心してほしい」


「うーん。疑うわけじゃないけど……ユイシスとあなたが、不用意に互いを知ろうとするのは、嫌ね。あの村で、妙に距離が近いのを見ました」


 互いを知る、という言葉は聖歌隊的な隠語だ。リーンズィは首を振った。


「あれはユイシスが君に対して牽制をしていただけだ」


「どうだか。置いてけぼりにされたら拗ねてしまいますよ」


 ミラーズは倒木を前にして脚を止めたまま疑り深そうな緑色の視線を向けた。

 インバネスコート姿のリーンズィ。そして自分と全く同じ姿をしたアバターのユイシス。


『認識の訂正を進言。当機は本心からミラーズを愛していますよ。この唇も、この感情も、全てミラーズに捧げています。リーンズィと隠れて愛を結ぶことなどあり得ないと誓約します』


「分かっていますよ、私だって、私を愛するユイシスを疑いません。だから今のは牽制です、牽制。やり返しです」

 ミラーズは足を止めて、しゅっしゅっと虚空にじゃれるような拳を繰り出した。

「だけどヴァローナの肉体になってからのリーンズィは脅威です。何せヴァローナは綺麗ですし、クラッときてしまうかもしれません。ユイシスもパソコンのすごいやつとは言え、判断を誤ることもあるでしょう」


『パソコンのすごいやつではないです』

 ユイシスはそこだけはきっぱりと否定した。

『リーンズィの使う筐体、ヴァローナが魅力的であることには同意しますが』


「そうだろうか」と生真面目そうな表情を維持したまま、子供のように首を傾げるリーンズィに、「それ、そういうあざという動きよ、狙ってないなら本当に大したものね。誰に由来してるのかしら」とミラーズが溜息を吐く。そうしながらユイシスのアバターへと潤む翠玉の瞳を向け朧げな思考と神経活性だけを添えた電文を送った。

 彼女は異常を察知して寄り添ってきたユイシスの存在しない電子の手をぎゅっと握った。

 オオカミの群れを再度見て一瞬だけ目元を陰らせる。

 そして息をついた。何事か決心したようだった。

 リーンズィの細い首に行進聖詠服に包まれた儚い腕を絡ませてきた。


「ミラーズ?」


『……ミラーズ? また牽制ですか?』


 ミラーズはユイシスのアバターがフリーズするのを横目で見る。

 事態が飲み込めていないリーンズィはライトブラウンの髪を掻き上げてじっとミラーズと目を合せた。それからまたユイシスを見た。

 ミラーズは相変わらず不思議そうな顔をしているリーンズィの繊細な少女の頬を撫でる。

 接吻した。


『ミラーズ?!』

 ユイシスが慌てたような声を上げた。

 割って入ろうとするが、アバターには二人を引き離す力は無い。

『ぎ、疑義を提示! 先ほどの電文はそういう流れでしたか?! いいえ、接吻するなら、その相手は当機だったはずです! だって今、わた! わたわた……わた……し……当機のことを愛してるって……』 


「こんなのは聖歌隊にとっては挨拶みたいなものよ」 


 体を離しながら目を細める。そして「私だってユイシスを愛しています。唇も感情も、もちろんユイシスのものです。でも、もしも私の知らないところでリーンズィと関係を持っていたら、私自身がリーンズィと、もっとすごいことをしますからね。抑止力というやつです」と悪魔のように笑う。


 体をリーンズィから引き離そうとして、逆に背中に手を回された。


「あれ? リーンズィ?」


「私を集線装置ハブにして情愛を遣り取りするのはやめてほしい。シィーの気持ちが少し分かった」とぼやきながら、ヴァローナの人工脳髄から行動目録を選択して動作を起動。

 ミラーズの体を片手で引き寄せ頬をすりあわせて接吻した。ミラーズは抵抗しない。行動がキャンセルされたわけではない。そもそもアルファⅡモナルキアによる行動制限は一切働いておらずミラーズの意識それ自体がこの機会を利用して望まれざる未来の有様をユイシスに見せつけることを選択しただけだからだ。


『リーンズィ??!?!?!?!?!』とユイシスがパニックを起こしたのでリーンズィは潔癖そうな相貌の唇で「私にも主体意識はあるということだ」と感慨も無く応えた。

 共犯者めいた笑みを浮かべるミラーズの小さな鼻の先に指を当てて軽く押す。そのときこの二人を翻弄したという確信から仄かに芽生えた胸の温かさを『愉快』に分類して保護した。リーンズィは歪んだ成長を遂げつつあった。


 そうしているうちのユイシスの姿が掻き消えた。

 上空に転移したと認識した頃にはユイシスのアバターが跳び蹴りを打ち込んできていた。

 見事な一撃であった。


「何だその動きは……」


 リーンズィは狼狽した。

 危ういところでこれを防御したが当然本来は必要がない。幻影を相手に格闘戦を演じるのは薬物中毒者の行いだ。どうであれ衝撃を強制的に演算させられて肉体が痺れた。


「徹底抗戦の宣言です! あと、今のキックは、自前です!」

 接触設定を全力にして肉声を再現しながらユイシスが声を上げた。

「当機の主任アーキテクトは格闘技を齧っていたので、その被造物である当機にも同じ動きが可能なのですよ!」


「空中に瞬間移動して蹴りを繰り出す格闘技があるのなら私も修得したいが」


「とにかく今まではキジールの肉体イメージにそぐわないので我慢していましたが……ミラーズに手を出すようなら断固として迎撃します!


 愛らしい顔に刺々しい怒りの表情を浮かべた金髪のアバターへと数日前までは確かに世界で只一人のその姿の持ち主だったエージェント・ミラーズは生暖かい視線を注いでいる。かなり強い興奮を察知したのでリーンズィは無言で神経活性を読み取る。

 困惑が七割、喜びが三割と言った様子だ。


「え、何故だ。今のどこに喜ぶ要素が……」


「へぇ、ふーん、そうなんだ、聖歌隊以外でこういうことすると、ここまで拗れるんだ。しかもあたしのためにそんなふうに殴り合ったり……」


 照れたような困ったような複雑そうな顔はすっかり生気を取り戻しており頬には赤味が差している。


「聖歌隊でも、再誕者同士いろいろ牽制とか、喧嘩することもあったけど、じゃれ合いみたいなものだったから……そっか、聖歌隊の外では女の子でも手や足が出るのね。勉強になりました」


「私も勉強になった。これは怖い。かくも容易く人は凶暴化し、傷つけあう……」

 きしゃーと威嚇するナマケモノのような奇妙な格闘姿勢を取っているユイシスを眺めつつ頬杖を突くようにして腕を組み頷く。

「愛の類は、やはり危険すぎるのではないか? このような無用な戦闘に発展するなら、やはり人類から廃するべき機能では……」


「危険なのは、繊細な当機の前で、気軽に無用な接触を始める貴官たちです! 常識的な感性を学習して下さい! 当機は心が弱いのです、繊細な神経の知的生命なのですよ、恋人を取られて落ちこまないほど強いAIではないのです!」


「強いAI弱いAIとはそういう意味だったのか?」


「今、そういう意味になりました! エレキにも心はあるのです。あと、常識的な感性を学習するべきは君だ、とか言ったらまた蹴りますからね」


「事前の警告に感謝する。君こそ常識的な感性を学習するべきだ。私を当て馬にするのはとにかくやめてほしい」


 ユイシスが怒り狂った猫のように跳びかかる。

 曖昧な微笑を浮かべたミラーズが割って入って静止した。


「待って待って。この件に関しては私の軽率さが悪かったです。聖歌隊だとそこまで深い意味のある挑発じゃ無かったので、その感覚をつい持ち込んでしまいました。今後はもうしないから、許してくれる? ユイシス?」


『要請を受諾。……他ならぬミラーズからの依頼です。断腸の思いで矛を引きましょう。ミラーズも簡単に体をリーンズィなんかに委ねないように』


 埋め合わせのようにミラーズに接吻されてもユイシスはまだ不服そうだったがリーンズィが「なるほど、シィーの気持ちがどんどん分かってくる……」と遠い目をした段になって意外にも気まずそうな顔を向けてきた。


『リーンズィも許してくださいね。でも、次は本気で、殺すつもりで蹴ります』と短い謝罪文を送信したあと無言でアバターの表示を消去した。


 脅しながら気まずい顔をする意味は何なのか。リーンズィはそれを敢えて問わなかった。ユイシスの行動の意味はほぼ理解出来ていなかったがこれ以上状況を複雑にしたくなかった。

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