森の中で②

「……空気も柔らかくなったことだし、ちょっと相談事があるんだけど」とミラーズ。「あなたたちがあたしに酷いことする時の話よ。こうやって意思疎通が出来るときはある程度斟酌してくれたけど、緊急時にあたしが本当に嫌がりそうなことするときは、問答無用でしょ?」


 そう言いながらぱっと表情を切り替える。

 特定の記憶をロードしたのだろう。一機に不機嫌そうになった。

 ミラーズはシィーの人工脳髄をねじ込まれたときのことをやや誇張を込めたイメージを添付しながら再生した。

 そしてじっとりとした目でリーンズィを睨めつけベレー帽を手で押さえる。


『推測:あてつけ/うわきもの不埒者節操なしヘルメット!』とユイシスが分かりきった精神分析のサジェストに罵詈雑言を盛り付けてきたので「今後は配慮する」と神妙そうな少女の顔で頷いた。


 本体であるアルファⅡモナルキアは木か石の像のようだった。

 着いてこない三人を黙って見守っていた。


「本当に悪いことをしたと言うことは何となく分かっている。謝罪しよう」


「そんなこといって、また抜け道を突くみたいな感じで虐めるんでしょ……そんな顔しないで。分かった、信じます。悪意はなかったよね。だけど、信じられたからには、応えてよね。信仰の話でも神様の話でもなく、これはコミュニケーションの基礎の基礎なんだから。一度了解を得たから後は永久に相手の意志を無視してもいい、なんて判断は、悪魔どころか子供みたいですよ、リーンズィ。ああ、子供みたいなものなんだっけ。調子狂うなぁ、どっちの口調が良いのかなあ。あたし、小さい子には丁寧に話すようにしてたんだけど」


「私は小さくはないだろう。君よりも大きい」とリーンズィが少し不機嫌な声で応えた。


「それはあなたの使っている体が大きいだけですよ。やっぱり子供みたいですね。それはそうとして、完全に無防備な状態でこの森を歩き続けるっていうのは色々と不安があるのよ」


「だから全自動の状態にはなりたくないと?」


 そこでミラーズはアルファⅡモナルキア本体が黙って自分たちを待っているのに気付いた。溜息をつく。

「今行くわ、アルファⅡ」と物言わぬ不死の兵士に呼びかけて歩みを再開する。


 大股で倒木を跨ぎ下段のボタンを外した行進聖詠服の裾を僅かに押さえて内側を隠す。

 その間にも彼女の視線は森の奥で蠢く狼たちに注がれていた。


「……あの犬の群れとかが飛びかかってきた時に、困るでしょ」


「襲いかかってきたとしても君は自動的に迎撃するだろう? 今の君には力がある」


「むしろそれが困るのよ。動物を無闇に殺生するのは主義に反します。それに不死の祝福を受けた血と違って、動物の血って臭いし、下着なんかについたらそう簡単に落ちない。その辺が嫌なのよね。脱げば良い、というのは無しですよね。ましてや下着着けないでシィーの剣技使うなんて絶対に嫌。ニリツハイハンというやつね」


「行進聖詠服も汚れると思うが、それは構わないのか」


「リーンズィは、不朽結晶連続体の服って初めて? 行進聖詠服はね、自浄機能が鈍るぐらいドロドロに汚れたら、とりあえず火の中に放り込めば良いの。そうすればたいていどんな汚れでも落ちる。もちろん、替えの服が無かったら、ドレスが冷めるまでしばらく裸で待つことになっちゃうけどね」


「その間に攻撃されるリスクは?」


「もちろんありますよ。相手からしてみれば襲撃のチャンスでしょうから」


「服の洗浄も一苦労だな」


「とは言え、聖歌隊の間では常識ですが、私たちは神に愛されています。なので、攻撃されて一発でプシュケまで引き抜かれるってことは基本的にありません。飢えた相手からは、ずいぶん勿体なく見えるみたいですから。馬鹿みたいよね、戦利品を欲しがるの。戦利品というのは、私たち自身のことですが」

 ミラーズは自嘲気味に唇の端を歪めた。

「敢えて撃たせて、飢えた狙撃手をひっぱり出して、そのまま原初の聖句で制圧するというのも立派な戦術です。これが意外と硬い戦術だったりします」


「敵からの……」リーンズィは適切な表現を探した。「敵からの、肉体への直接的な攻撃に、恐怖はないのか」


「何を考えているかは、分かりますよ。そういうシチュエーションは聖歌隊では『不浄を受け入れる』とか、そんな感じで言い換えます。今後はリーンズィも乱暴な言葉は考えたり使ったりしないように……まぁ、リーンズィに言っても意味ないわね」

 カルトの敵っぽい立ち位置だし、と苦笑する。

「でもこれから会いに行くリリウムはそういうのに拘る子だから、慣らしておいて損はないわよ」


「……確かに調停防疫局はスヴィトスラーフ聖歌隊とは敵対関係にある。だが、敵であることと、敵の無事を願うことは、矛盾しない。特にこの不滅の時代においては。私は君と君の友人たち、あるいは娘たちを尊重する」


「良いことです。質問に答えるわね、怖いか怖くないかで言えば、もちろん怖い。気分は最悪、不埒な男なんて皆死んじゃえと思うわ。でも……割り切れば大したことない。どうせ死なないし、何事にも慣れてしまうのが人間だから。でも犬だけは苦手なのよ」


 遠吠えが聞こえた。

 リーンズィがさっとミラーズに身を寄せて身を抱いた。ユイシスもアバターを表示して己と同じ顔を為た少女に寄り添う。遠吠えがした瞬間に金髪の少女の顔はすっかり青ざめて無力な定命のものであるかのごとく震え始めた。

 体を強張らせて震えるミラーズを二人でひとしきり慰めた。


「うう。ごめんね。本当にごめん。色々やって、気を紛らわせてきたけど無理、もう無理。白状するわね。この森、もう嫌なんだけど! サイコサージカルアジャストも効かないし、半自動モードになってても、もう限界、とにかくあの犬たちが気持ち悪い。犬、犬、犬、犬! 何匹いるのよ、どこまで着いてくるのよ……最初の方はいなかったわよね、なんでいきなり犬が出てくるの」


「犬ではなくオオカミだが……」


「オオカミも犬でしょ! 犬、嫌いなのよ……あんなのみんなくたばればいいのに……!」


「くたばればいいのに?」リーンズィは唖然として復唱した。「君にしては物騒だな。そんなに怖いのか」


「怖くない! 怖いわけない! あんなのただのケモノなんだから! たましいのないケモノなんだから! 神様はあんなやつら生き物として認めない! だから、あたしは平気なの! あたしは平気! あんなの怖くない! なんてことないんだから!」

 我を忘れた様子で怒鳴ってから恥じ入ったように目を伏せる。

「怖いわけない……ただ、嫌いなだけよ」


 ライトブラウンの髪の少女は猟犬のような澄んだ目を細めミラーズの手と頬に何度か何度か接吻をした。

 その間にユイシスが『落ち着いて。息を整えて下さい。それはあなた自身の恐怖ではなく、あなたの肉体が覚えている恐怖です。切除は不可能ですが、無視することは出来るはず。どうか落ち着いて。神経活性が危険な状態です』と囁いた。


「大丈夫よ、あたしは大丈夫。大丈夫だから……」


 こちらを遠巻きに見ている狼たちをチラと見てミラーズはまた目を伏せた。

 一層顔色が悪くなっている。実際のところ木々に頻繁に足を取られるのは不整地と体格の不利だけでなくあれら狼に対する恐怖心の表れなのだろう。


「……基本的に野生生物が不死病の感染者を襲撃することは無い。結局、不死病の完璧な全容を解明できないまま人類は敗北したわけだが、しかし不死病には人類以外の動物には忌避作用があることは確実視されている」


「……知ってる。宥めの香りとか安らぎの芳香とか言われてる、この体の匂いのせいよね。それは、知っています。ホッキョクグマだって、私たちの前では恭しく平伏するのですから。……認めるわ、犬が怖いのよ。本当に犬が怖いの……」


 神経活性を取得:疲労、極度の恐怖、嫌悪、特定の記憶断片の連続再生を確認。

 記憶断片をエージェント・アルファⅡに開示します。エラー。認知機能をロックしました。

 生命管制より通達。

 ログを削除しました。当該の記憶へのアクセスは貴官の判断により、許可されませんでした。


「記憶は読まない。配慮は大事だからな。大方小さい頃に犬の群れに追いかけられたとか、監禁されていた頃に犬に噛まれたとかだと思うが……そういう状況での恐ろしい気持ちは長く根を張るものだ」


 うん、うん、そんな感じよ、と安心したように息を吐くミラーズに、リーンズィは淡々と言葉を投げかける。


「だが、現状でたかが生理的嫌悪感ごときで萎縮するのは問題だと判断する」


「……どういうことよ」


「ミラーズ。君はもう、キジールではない」


「そんなの分かっています。その記憶の残骸から作られた出来損ない……」


「その認識すら異なる。君は真実、キジールとは違う存在になりつつある」


「ええ、元の私ならこんなはしたない格好は許容しません」


「だが、私の受けた印象にはなるが、キジールだった頃の君は、狼など、決して、決して恐れなかっただろう」


 ……ミラーズは曖昧に首肯した。

 清潔に整えられていたはずの行進聖詠服は相変わらず泥だらけで首輪型人工脳髄のせいで首元の留め具は上手く留められず足回りを確保するために下段は解放している。

 彼女の体を飾る衣服は今や胸元の留め金でしか固定されていない。

 見るのも憚られるほど惨めでそれでいてどこか艶めかしい有様だ。

 あるいはキジールもそのようなみすぼらしい姿で森を放浪した経験もあるだろう。

 神の愛と心を塗り潰す歌を携えて。

 偽りの聖典と原初の聖句だけに縋って。

 だがかつての彼女ならばよろめきながらも決して歩みを止めなかったはずだ。

 信じていない神に祈り幸運を願い歌を歌い幻想夜譚に現われる乙女の幽霊のように不死の信徒たち不死の同胞たちを引き連れてこの迷宮のような森をふらふらといくらでも彷徨っていたことだろう。

 どんな敵にも無論恐ろしい動物にも彼女は毅然として相対していたはずだ。

 そうした要素の欠落も含めてキジールとミラーズの間には随分と大きな差異が生まれつつある。


「確かに君の能力は劣化している。不安にも思うだろう。だがきっと、犬ごときを怖がらなくて済むように、エージェント・シィーは君に力を託した」


「……託した、なんて言うけれど、あたしたちが奪ったんでしょ」


「違う、彼は託したのだ。彼は私の仕様を知っていた。自分の剣技を複製される可能性は当然に把握していたことだろう。己の修めた剣を僅かでも君に分けたのは、君が、自分で自分を守れるようにするためだろう。そのように私は考える。この世界から真実、縁を絶ちたいのならば、技の模倣すら禁じていたはずだからだ。だが、君は託されたのだ。エージェント・シィーは、他ならぬ君自身の力になろうとしたのだ。君はもう、誰かの影に抑圧されるような存在ではない……」


 ミラーズは今や武装している。

 行進聖詠服の背中にシィーの蒸気甲冑の廃材で作った支持具を背負いそこに酷く不格好な壊れた剣を吊るしている。

 そして無限にも等しい時間の中で勝てる見込みの無い試行を繰り返した一人の剣士の技能をその身に刻んでいる。

 シィーがいなくなった今でも、ヴァローナとの戦闘で修得した技巧は依然として残されている。


 野生生物も朽ち木も区別は無い。ひとたびカタナを抜けば屈強な兵士をも一刀の元に殺害出来る。

 敵がスチーム・ヘッドでも粗製濫造された類ならまったく敵にもならないだろう。

 原初の聖句、かつて備わっていた祈り歌い希う言葉に基づく力は薄らいだ。しかしシィーを宿した彼女には暴力がある。

 組み伏せられてしまえば何も出来なかった無力なキジールとはそういう意味でも違う。


「流血で強さを証明しろって言うの?」


 諦めたように笑うミラーズの肩に手を回す。

 リーンズィは視線を彼女に合わせた。


「そうではない。君は二度死んだ。一度目は名も知れぬ少女として、二度目は聖歌隊のキジールとして。……三度目の生は、物理的に、無力ではないということだ。記憶の残滓に怯えなくていい」


「……やるしかないってこと? 自分を安心させるために、敵を殺すのを試してみろって?」


 考え込みながら躊躇いがちに後ろ手で刀を抜こうとしたのでライトブラウンの髪の少女は甲冑の手でそれをそっと押さえて阻む。

 ミラーズは怪訝そうな顔をした。


「……何で止めるの、さっきのは犬を殺しに行って、過去と決別しろっていう煽りだと思ったんだけど」


「言葉が足りなかった。だが、君にはもうそれすら必要ないんだ」


「回りくどいわね、じゃあ何が必要なの」


 誰かが囁いている……。「調停防疫局のエージェントが、己自身を恐れてはいけない。記憶を恐れてはいけない。過去では無く未来をこそ、恐れなければならないのだ。絶望的な未来の到来を。喪われていく過去を。それらをこそ、守らなければならないのだ。決別する必要などない、それは永久に君とある。君が永久に守り続ける。同時に、君は既に自由だ。自由な君は、もはや精算すら必要としていない」


「……思いっきりカタナを抜くつもりでいたんだけど、これは、そのままで良い?」


 リーンズィの目が獣の群れを射抜く。


「誰も止めはしない。止める権利はない。君の欲するところを成せ」


 途端、刀が閃いた。

 ミラーズは手近な木を一瞬で十分割した。

 狼たちは刃の風鳴りと叩き切るときの荒々しい切断音、そして切断された木が呆気なく倒れる時の音に驚いて一匹また一匹と去っていった。


「あはは。怖がってる怖がってる! 狼だっけ? 野生の犬も案外臆病なものね!」


 ひとしきり乾いた笑いを笑い深く息をついた。


「……なんて呆気ない。あたしが怖がってたものなんて、所詮はこの程度だったってことよね。あいつら、本当に大したことなかったんだ。あたしはもう大丈夫。いいえ、ずっと前から大丈夫だったのよね、きっと。託された力も、蘇ってなお私を守ってくれていた人々も、きっと本質は同じなのですから。私はとっくに大丈夫だった……」


「そうだ。君はキジールとは異なる。キジールは、おそらく犬など怖くなかったはずだ。肉体の反応を完璧に制御していたはずだ。君は君の信徒、君自身の娘や……私の使っているこの肉体の持ち主、ヴァローナや……とにかく大勢のために手を差し伸べていた時、犬に怯えて泣いていただろうか?」


「分からない。そんな記憶は残ってないもの。けれど……少なくとも、私は、こんなふうに震えたりはしていなかったのだと思います」


 震えるカタナに映じた己の顔貌に、「あなたの知っている、あたしの知らない私だって、きっとそうだったのよね、シィー?」と問いかける。

 少しの時間目を閉じて、頷いた。


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