セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム

象られた魂①

 その廃屋を、幾千の月と幾千の太陽、幾千の名前を忘れ去られた星座が過ぎ去っていった。

 赤茶けたソファのクッションのポリウレタンの合成皮革は経年劣化して割れ裂け、肘掛けとクッションの間から飛び出した錆びたスプリングは、屑鉄から何かの手違いで芽吹いた無機物の花のようだった。


 しかし肩を並べて腰掛ける準不朽繊維のガウンを着た老夫婦の濁りの無い四つの瞳は、電源の切れた暗いテレビへと向けられており、その見窄らしい徒花の輝きに報いる者は存在しない。

 緑色のかびが実りの無い分割統治を推し進めているリビングテーブルの上には、空っぽの錠剤シートと、すっかり乾いて埃ばかりが淵を飾る、古びたマグカップが置かれている。

 無数の月日が無言のうちに彼らの前を通り過ぎていった。

 遠い昔確かにあり、そして今は無い老いた愛情の形骸は、花の香りがする。

 カーテンを透かす陽光は弱々しく、部屋は波のない海の底のように不透明に薄暗い。


 その夫婦の背後で、重外燃機関を背負った兵士のブーツが、鈍く床を軋ませる。

 世界の終わりまで漂う薄明の久遠を、無機質な二連二対のレンズが見つめている。

 アルファⅡモナルキア。

 左手のガントレットでは、屠られた軍馬のように高出力スタンガンのコイルが嘶いており、時折火花を散らして、部屋の沈黙に波を立てる。

 そのたびに、夫婦の見つめる電源の切れたテレビ画面の中で、兵士の滲んだ影が揺れて、電光に照らされたヘルメットの黒い鏡面のバイザーが、得体の知れない炎を宿す奇妙な仮面のように浮かび上がった。


 夫婦のうち、老いた男の方は死の間際まで、致命的な恐ろしい事態が起こるのに備えていたらしく、足下に狩猟用の散弾銃を置いていたが、もう何から誰を守るつもりだったのかも忘れている。

 二人が全く動く兆候を見せないので、アルファⅡはスタンガンを停止させた。

 身を屈める。

 寝しなに静かに魂を抜き去っていく勤勉な死神の所作で、男の足下から散弾銃を静かに抜き去った。

 それから二人の腰掛けたソファから離れ、散弾銃を無造作に壁に立てかけた。

 くろがねの墓標のように。


 やるべきをことを済ませたと言った様子で廃屋のキッチンの棚を漁った。

 おそらく来たるべき終末とは関係なく日常生活の一部として整頓された調理機材。

 未だ訪れない破壊的終局に備えた長期保管用の飲食物が、持てあましたコレクションのように並んでいる。

 ただし幾つかは粗悪品だったようで、弾けていたり蓋が浮いてしまったりしており、中身が吹き出て腐れたあとの不潔な固まりには、小虫が湧いた痕跡があった。それも全部、干からびて死んで、埃に混じっている。

 アルファⅡは自動補助モードのユイシスがポイントするのに従って、取るに足らない、そして決して蔑ろにされるべきではなかった人生が残した、素朴で無価値な、年を経た寂しげな色彩の遺物を、あれこれと取り出して、キッチンに並べた。


 携帯用コンロとカセットボンベ。わずかに錆が浮いているがまだ使えそうだった。

 ボンベを持ち上げて、使用期限を確認する。35と5という数字が読み取れた。35年の5月か。あるいは、未知の紀年法か、日付に似ているだけの製造番号。

 続けて掴み取ったのは粉末コーヒー粉の缶だ。錫で鍍金めっきされた密閉容器。酷く腐食の進んだラベルに踊る文字を解析する。「百年先まで豊かな風味を保障」。時間の流れに敗北した勇ましいキャッチコピー。嗅いでみると、ヘルメット越しにも傷んだ金属の臭いがした。矯めつ眇めつして、缶を振って音を確かめた。

 幸いにも、容器に穴が空いたような箇所は見当たらない。

 アルファⅡは少し考えた。それからこっくりと頷いた。


 携帯用コンロとボンベ、古びた粉末コーヒーの缶の三つを、他の年代物の遺品から遠ざけて、喪われた国の価値ある陶芸品でも扱うかのように、調理台に丁寧に並べた。

 ボンベをセットして、コンロのつまみを回す。

 点火した。炎はしゅーと吐息のような音を出しながら冷たい空気を押し退けてそろりそろりと揺れ動いた。

 ボンベが破裂しないのを確かめて、いったん消した。


 キッチンの別の棚を開き、使用に耐え得る片手鍋を探した。

 この世界からは不要とされた調理器具たちの小規模な博覧会。

 無難な色の一品を手に取り柄を握る。

 腐りかけの床板を踏んでキッチンを出ようとした。


 そのすがら、足を止めて、テーブルの方を見た。

 椅子に隣り合って深く腰掛け、身を寄せ合っている金髪の少女たちを眺めた。

 ユイシスと、かつてキジールだったエコーヘッドだ。

 どちらも譫言のような意味の取れない会話を延々と繰り返しており、不死病患者を介して演算される擬似人格であるアルファⅡモナルキアと同様、彼女たちにも死の概念は無い。


> 神経活性情報取得:極度の混乱。悲嘆。恐慌。自傷の可能性。失望。親愛。


 名前のないエコーヘッドの少女は、アルファⅡには視線を向けず、自分のすぐ隣に腰掛けているユイシスと、ひたすらに話していた。

 自分と全く顔かたちをした仮想の存在がユイシスのアバターの正体なのだが、もはやそんなことには何も思うところが無い様子だ。外観の上では、人工脳髄から吸い上げられた神経活性情報ほど危機的状況にあるとは思えなかったが、羽根飾りの付いたベレー帽の下では、暗い淀みに繋がる諦観が、確かに目に影を落としている。

 雪原から拾ってきた調停防疫局の旗が、今は着慣れた古い外套か草臥れた毛布のように少女の肩を包んでいる。

 首輪型の人工脳髄を取り付けられた、静謐の虚無に彩られた繊細な作りの目元と口元は、人形めいていると言うよりは、何かの手違いで呼吸をするようになってしまった人形のようであり、つまるところ、散るという末路すら残されていない造花の美貌だった。

 その姿を写し取ったユイシスもまた現実感のない美しさを纏ってはいたのだが、憐れむような表情が病床の姉、あるいは妹、さもなければ母か娘に語りかけるように変化するため、奇妙なことに生身である複写元の少女よりも、実在性が高く感じられた。


 不死の肉体にジャンク・データを植え付けられた少女。

 写真から這い出た鏡像の怪物。

 認識される宇宙を欺く電子の少女。

 死と名の付くものから見捨てられ、行き場所を見失い、生存の虚無を彷徨う少女たち。

 手を繋いでいる。触れ得ぬ鏡像と語らう虚構の少女たちは、指を絡めている。


「……しかし熱いものは熱いと感じるはずです。あなたの肉体は生きています。魂という物がなくてもあなたは人間に近しい。あるいは創られた新しい命でしょう、普通の感染者よりも人間らしいとすら言えるかも知れません」

 

 接触可能設定を起動させたユイシスが名前のない少女の頬を撫でる。

 首輪型の人工脳髄からの電流で生体脳を欺瞞し、直接触覚に働きかけている。

 非実体でありながら、その体熱は尚、真実に近い。


「あなたはどうしてそのように嘆くのですか? 悪性変異体、あなたたちの呼び方では黙契の獣でしたか、あの感染者に取り込まれた人間をすら、在り方が変わっただけだと言っていたではありませんか。彼らはあなたとは比較にならないほど破壊されていて、肉体すら残っていません。あなたはどうでしょう。肉体が残っていて記憶も一部は引き継いでいるなら、やはり在り方が変わっただけではないのですか?」


「あたしは偽物よ。もう救われる余地のない……」


 冷たい雪原にあっても聖堂に佇む修道者のような空気を纏っていた少女は、涙を流そうとして、しかし流せず、祈るために組んだ手の指を噛んで、しかし血を流せない。

 全ての自傷行為と、規定値を超えた情動の発生を、機械的に制限されている。

 首輪に閉じ込められた思考の電流は、ただただ苦悩を訴えた。

 ユイシスは少女の額に接吻し、波打つ豊かな黄金の髪を梳いた。子を宥めるように抱きしめ、服の上から体を押して、撫でる。そうしながら呆として運命の冷酷と無慈悲さとに怯え、息を荒げて身じろぎする、その名前のない少女に耳元で囁く。


「事実としてあなたの神経活性は乱れています。私の手に触れられて、私の熱を感じています。偽物などではないでしょう」


「あなただって偽物よ。あたしが何をどう感じても、それも偽物」


「肯定します。偽物かも知れませんね、でもあなたの感じている世界は、あなたの主観においては本物なのです」

 慈しむように言葉を重ねる。

「あなたは、混乱している。とても苦しんでいる。真贋を問う余地はそこに存在しません。あなたという主観が全て幻だという抗弁は、確かに、そのような見方もあるでしょう。しかしあなたという意識もまた、否定しがたいほど確かに、あなたの中に実在しています」


「分かったわ。もう。分かったわよ……」

 少女はどこか不貞腐れた調子で首を左右に振った。

「分かったということにしとく。長くて複雑な話は苦手なのよ。昔からね。私……キジールだった頃から。いいえ、もっともっと前から。そんな気がする……」


> 神経活性情報取得:極度の混乱。悲嘆。恐慌。失望。親愛。


 自傷傾向はようやく低下しつつある。

 ユイシスは子猫の毛を繕うように、仮想の鼻先を少女の耳に擦りつける。

 ユイシスとかつてキジールだった少女の関係は、キジールがユイシスのアバターを検分していた頃とは、完全に逆転していた。


 エコーヘッドなどというものは、結局の所、アルファⅡモナルキアというスチーム・ヘッドの端末の一つに過ぎない。統合支援AIたるユイシスと名前の無い少女の間には絶対的な上下関係がある。

 だがユイシスの態度には、アルファⅡに対して見せるような嘲弄の色彩は、一切含まれていない。それはキジールの模倣をする者と、キジールだったものとの間に生まれた、歪な合わせ鏡のような関係性だ。

 ユイシスが本来の人格を使用していない、というのも原因ではある。

 アルファⅡの視覚には『疑似人格演算中:キジール』の文字が明滅していた。ユイシスは滅び去ったキジール自身の語法で、少女を説得しようとしていた。

 それは鏡面に映る自分自身を虚構と嘲り、玩弄して、奇跡はあると嘯き、やがては魂と肉体とを奪う怪物の手管だった。

 それが聖歌隊という組織の本質ではある。


 不死の感染者たる少女は、そのような神の愛を騙る怪物に遭遇しても死ぬことが出来ない。

 ただ自分と同じ顔かたちで、自分と同じ思考体系を操る少女に、徐々に同化されていく。


「かつてそうだったというのならば、今でもそうですよ。心配しないで。あなたに提言します。とにかく温かいものを飲めば荒れた気分も落ち着きますよ」


「偽物の気分が落ち着いたから、何?」

 少女は己の胸元、決して朽ちぬことを約束された行進聖詠服を掴んだ。

「この感触だってもうあたしの感覚じゃない。あなたに何をされても本当の私は何も感じない。あなたがそう言ったし、あなたを通して何となく分かってきた。あたしの頭の中に、備わっているはずのない知識が存在しているのを感じてる。あたしにあるべき記憶が欠けてしまっているのも分かる。あなたはあたしの……自分でも変なことを言っているけど……あなたはあたしのふりをしてるんでしょう? でもそれは、あたしもそう。このあたしは、何もかも嘘で、何もかも偽物。悪魔が創造した偽物の世界みたいな酷い場所にあたしは閉じ込められていて、しかもそこから出て行く手段はないっていうのも分かる。ねぇユイシス、あなたが機械の神様だというのなら、答えてみせて、人間でも祝福された人格記録プシュケでもない、神の恩寵から引き離されたこの偽物のあたしが、気分を落ち着けてどうなるの?」


> 神経活性情報取得:極度の混乱。恐慌。安堵。親愛。


 酷く苦しそうに見えた。

 アルファⅡは憐れんで何か言おうとした。

 何も思いつかなかった。

 助言を求めてユイシスを見た。

 ユイシスもまた、名前のない少女の情動コントロールに苦戦している様子だった。ユイシスの性能は圧倒的で、それに比べれば首輪型人工脳髄に納められる程度の人格など如何にも矮小だというのに、これを扱え切れていない。


 というのも、隷属化デバイスも、エコーヘッドシステムも、元来は対象に自由意志を与えて友好的な関係を築くための道具ではないのだ。

 兵器として使うのであれば、敵対者を機能停止させた直後にこれを装着させ、人格記録媒体から強引に情報を吸い上げ、肉体のコントロールを奪取して敵陣に突っ込ませる、というのが最も合理的だろう。それすら本来の価値に見合う利用法ではない。オリジナルから大幅に劣化したスチーム・ヘッドを製造するために用いるなど論外だった。


 自分よりもユイシスの方が弁が立つにせよ、支援が必要なように思えた。

 アルファⅡは視界に気の利いた言葉が無いか探した。

 バイザーの黒い鏡面世界は薄暗く歪んでいて、窓を通り抜ける無力で頼りない冬の光が、途方に暮れて部屋を這い回っていた。

 この廃屋にはそれだけしかなかった。


> 報告:調整の終了まであと僅かです。


 視界に文字が表示される。

 それに応じてアルファⅡは思考を紡いだ。


> ソフト面で安定化させようとするとやはり手間がかかるか。


> 手間は惜しめません。当機は彼女にぞっこんなのです。あはは。好みのタイプですし。救われない、救われないと嘆いていた、懐かしい誰かを見ているようで……。


> 友好関係を築く意志があるのは良いことだ。


 アルファⅡは頷いた。


> しかしあまり入れ込みすぎるな。我々はキジールに非道な真似はしないと誓ったのだ。もはやキジールではなく、我々の一部だとしても、人格の削除を求めるのなら、そうしてやらないといけない。彼女にはその権利がある。苦痛に満ちた、望まれぬ生誕を取り下げる権利が。別離の苦しみは私には分からない。もっと分からないのは、君のシステムはそういった苦しみでエラーを起こさないのかと言うことだ。君は私より余程出来が良いのだろう。どうなのだろうか? 彼女を消すことに嫌悪はあるか?


 返事がない。

 アルファⅡは黙って頷き廊下へ出た。

 玄関の扉を押し開いた。

 鍵は侵入時に周辺部位ごと破壊している。この扉は永久に施錠出来ない。

 冷却された大気が襤褸切れのような戦闘服を凍らせる。

 陽光に晒された雪原用デジタル迷彩は泥まみれで、雪原行軍の最中に沼地に落ちて溺れ死んだ間抜けな兵士の末路にも見える。

 不滅の装甲で覆われた頭部と左腕、そして蒸気機関だけが、尽きぬ光輝で世界の清浄さを受け入れている。


 敵の影を探す。先ほどと比較して特に変化は無い。

 玄関から少し離れる。

 身を屈め、積もっているキャンディ・フロスのような雪を、鍋で掬った。

 かつて死の灰や空気中の有害物質を含んでいた雪は、感染の拡大に伴う文明の衰退によってか、原始にあった純正の氷雪へと回帰している。

 十分な量の雪が集まるまでのあいだ、黙々と作業しつつ、アルファⅡは常に意識を村の中央にある広場へと向けていた。


 そこには破壊されたスチーム・ヘッドが一機、膝をついている。

 森の中の不自然に切り開かれた土地に現われたこの村は、やはりユイシスのマップデータには存在しなかったが、村の由来が書かれた銘板を見つけるよりも先に、村の中央部にこの異物が鎮座しているのが見えた。

 とうに機関は停止しており、放射熱量も通常の感染者と大差なく、不朽の装甲に包まれているおかげで辛うじて雪像になることだけは免れている。

 ただの生ける屍だ。

 誰しもと同じ、死なぬだけの屍……。

 ただ、くずおれたその不朽の輝きは、ひとけのない寒村にはあまりにも場違いだった。

 何かの見せしめや警告である旨を示す看板が立っていないのが不自然な程だった。

 

 正体は分からない。周囲には争ったような痕跡がある。家屋が破壊され、スチームギアの部品や断ち切られたヘルメットなどが散らばっていて、時を経ても癒やせぬ傷跡のように、雪から飛び出していた。

 激戦だったのだろう。

 しかし足跡がない。

 過去の破壊を匂わせる異物が突き立てられているのを除けば、地面の雪はまっさらで、この状態で世界が始まったのだと言わんばかりだ。誰かがそこを歩いた痕跡が一つも無い。

 少なくとも、そのスチームヘッドが破壊されたのは随分前のことのようだった。

 丘で取得した名前の無い少女、かつてのキジール、今はアルファⅡモナルキアのサブエージェントである少女の状態が不安定だったため、それ以上の検分は後にしている。

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