アルファⅡモナルキア
協力関係を結ぶことについて、キジールは前向きに検討してくれたようだった。
思案して、ややって、森の方を指差した。
「北東の方向に、スヴィトスラーフ聖歌隊に七人いる大主教、その一人にして、清廉なる導き手と讃えられるリリウムが陣を構えています。確証はありません。もう移動しているかも知れません」
接吻に由来する心的な動揺から脱したらしいユイシスが、警告を発した。
「警告。大主教リリウム。スヴィトスラーフ聖歌隊の幹部の一人にして、基地襲撃の実行犯の一人です」
「ユイシス様の危惧を否定するのは、きっと不適切なのでしょうね。ですが、彼女は最も多くの愛を知り、最も多くに愛された、神に寵愛されし真なる聖性を宿す娘です。世界を平定するという目的であれば、きっとあなたに共感を示すでしょう」
「情報提供に感謝する」アルファⅡは頷いた。「我々はそこを目指すことにする」
キジールは儚げに視線を流した。
「……あなたは、私のことを軽蔑しているのではありませんか? 言葉の節々から、不死の病自体を憎む者の鼓動が感じられます」
「意味が分からない。ユイシス、解析を……」
「いいえ、分からないと言うことであれば、構いません。……かつて私は、一人だけ、何の咎も、聖歌隊との由縁も無い、新しい命を授かりました。その子を守るために、あの汚濁の街から逃げだそうとして、さらに酷い仕打ちを受けました。しかしあの人は……いいえ、聖父スヴィトスラーフは掬い上げてくださいました。私は不朽の歌を紡ぐレーゲントとして、世界を変える軍団の一員になることを選んだのです」
整った顔に、一瞬だけ皮相な笑みが現れて、すぐに消えた。
「そうしてかつてはおぞましく、憎らしかっただけのあの街も、今では違ったのだと分かります。あの街もまた、世界の歪みの一つに過ぎなかったのです。抑圧と搾取、汚辱と悪徳を許容する定命の窟よりも、不死の祝福が万人を等しく包み込む世界の方が幸せだと信じています」
「……君の意思は理解した。私からは何とも言えない。正直、何をしても手遅れのように感じている」
「あなたもリリウムに遭えば分かります。あの子の不滅の聖性に触れれば、きっと分かってくれるはずです。こうして祝福された不死の世界こそが、本当にあるべき未来だったのだと。神の御国とはこういうものなのだと。あなたがスヴィトスラーフ聖歌隊と共に歩んでくれることを祈ります」
言うべきことを言い終えたのか、キジールは大きく息を吐いた。
そしてユイシスのアバターに語りかける。
「ユイシス様。あなたの全てを、改めて赦します。私の夢。もう一人の仔。私は最後にあなたという娘を持てたことを、本当に幸福に思います。あなたの無垢なる魂に。原罪無き清らかな魂に、どうか安らぎのあらんことを」
そしてユイシスの虚像の額に優しく口づけをした。
「最後に希望の光を見せて下さったことに感謝します。これで安心して我が仔の元へと旅立てます。リーンズィ、黒いレンズの人、赤い竜の人……最後にお願いをしてもよろしいですか?」
砲金色の黒い鏡の世界に、待たせた子を慈しむ、不老にして不死なる少女の微笑が映り込んだ。
「出来ることなら協力したいと思う」
「私から、このプシュケを取り除いてくれませんか?」
そう言って、瑞々しささえ感じさせる花水木の造花、純白の小型人工脳髄の花弁に触れた。
「私自身では自壊が出来ない設計なのです」
「君は、機能の停止を望むのか」
「はい。自死を禁じる教義に背く部分があるのは、分かっています。けれど、我が仔を置いて生き続ける魂に、何の価値があるでしょう」
「君が望むなら、協力したい。しかし本当に良いのか? 記憶領域からは数分で一切の情報が揮発する。君は単なる不死の人間となって、太陽も月も分からないまま、愛すら知らず立ち尽くす肉となる」
「構いません。このいつわりの魂は、我が仔とともにあることを望んでいます」
アルファⅡは言葉を探し、飾る術を考えたが、そんなものは無いとすぐの気付いた。
極めて直裁に要求をぶつけた。
「……不躾な申し出を許してほしい。私は、実は君の原初の聖句と聖歌隊での身分に目をつけて、助力を乞う気でいた。もちろん、それがために君を引き止めるつもりはない。ただ、君の人格が消え去った後、君の肉体を使わせてくれないだろうか」
アルファⅡは偽らざる本心を告げた。
「つまり、森を抜けるまでの間だけでも、君の肉体に我々の先導を依頼したい」
「ああ……この首輪は人工脳髄だと仰っていましたね。これを起動させて、私の肉体を支配するのですね。確かに、この聖衣を見て、誰何無しに撃ってくる信徒はいないと思いますが」
「『君』に対して非道な扱いはしないと約束する。回答を聞きたい」
「素晴らしい勇士と、愛しい新しい娘とともに、束の間でも、新たな旅をすることが出来る。本当の私にとっても本望でしょう。楽しみにしています。私の意識は消え去った後なのが残念ですが……」
「……そんなに言って下さるなら、何だか照れますね」とユイシスは言った。「分かりました。当機としてもあなたの決定を最大限尊重します。一緒に旅をしましょう」
「ええ。この素晴らしい出会いを祝福し続けるためにも。さぁ、どうか、お願いします。私といういつわりの魂の、最後の願いを叶えてください……」
アルファⅡは頷いて、ユイシスに目配せした。
ユイシスは肉感を保持したままキジールに寄り添い、その身体を支えた。
現実にはキジールの細い体躯は、虚構の身体的感触によって全身の筋肉を強張らせているだけに過ぎない。
それでも、温かな肌の感触は本物だ。
祈りと同じく、形が無くとも、存在しなくとも、確かにそこにあるのだ。
「ありがとう、ユイシス。私の愛しい夢の欠片……」
アルファⅡは、キジールの頭に埋め込まれた花水木の造花へと指を伸ばし、その美しい細工の人工脳髄を生体脳からゆっくりと、慈しむように引き抜いた。
穴から髄液が零れ、涙となってキジールの幼い顔貌を濡らした。
「また、お会いしましょう」少女はほえむ。
「はい、また会いましょう」親愛の念に感じ入ったのか、ユイシスは嬉しそうだった。
兵士が少女に不滅の造花を手渡した。
キジールは言語野に残る意識が揮発するまでの僅かな時間を使って、青い薔薇の大樹へと向かって歩いた。
そして不滅の花水木の純白の造花を、プシュケ・メディアごと、悪性変異の花樹へと、手向けるようにして投げ込んだ。
十字を切り、胸の前で手を組む。
朦朧としながら、愛の言葉を囁いた。
「みんな、みんな幸せになりますように、みんな、幸せになりますように……魂に安らぎのあらんことを。神の御国の栄光の不滅であることを……」
最後に呟いたのは、誰とも知れない名前。
「ミチューシャ。ドミトリィ……私の愛しい仔。母は、今、あなたのところに向かいます……」
そうしてキジールはこの世界から消滅した。
祈る姿は、死の悲嘆にいささかも曇ってはいない。
最後に実行された聖句を籠められた肉体は、賛美の歌を紡ぎ続けている。
『残留意識の消失を確認』
アバターを非表示にしたユイシスが、首輪型人工脳髄から送られてくる情報を読み上げる。
『神経活性状態、極度に安定。ここにいるのは単なる感染者です』
「了解した。活動電位の取得は万全か?」
『肯定。スチーム・ヘッド本人の意思を尊重し、記憶情報のスキャンは人工脳髄摘出後からスタートしていますが、十分な量のデータかと思われます』
「彼女が協力的な態度を見せてくれて良かった。今後の手順は幾分スマートになるだろう」
そう言いながらガントレットから引き抜いたのは、釘のような形状の機械だ。
非侵襲式人工脳髄の補助装置であり、感染者の頭に打ち込んで使用することで、動作をより精密に昇華させる。
本体は首輪型人工脳髄。心許ない演算能力は親機であるアルファⅡが支援する。感染者の肉体への負担は極めて小さいと言えるだろう。
聖歌隊の少女の肉体は、もはや相当度の損傷を負わない限りは、生物としての反応を示さない。
それでもアルファⅡは気を配って彼女をゆっくりと雪原に引き倒し、塞がりつつある人工脳髄の差し込み穴に、釘状の装置を押し込んだ。
「消えた彼女からの要望もある。旅をしたいと、そう言っていた。試してみよう。上手くいくと良いが。ユイシス、エコーヘッド・システム起動」
『了解。複製転写式行動様式第3号、アルファⅡの神経系にマウントしました。データベースチェック、異常ありません。擬似情動の入力を開始。エコーヘッドシステム、起動します」
雪上に横たわり呆けた顔で歌っていた聖歌隊の少女が、不意に肉感のある声を上げた。
それは苦悶であり、感染者特有の安楽した無表情では無い。
涎を零し、哀願するように喘ぐ姿は、穏やかな眠りの海から引きずり出された溺水者のようだ。
「あ、ぎぃいい、あっ……は……あああああああああああああああああああ!!!」
魂無き少女は、焦点の定まらない翡翠色の目玉を盛んに動かし、天も地も分からないと言った具合で藻掻き苦しんだ。
不朽結晶連続体の服を苦しげに掴み、開けられた胸の首輪型装置に指が触れた瞬間、唐突に動きを止めた。
そして侮蔑と自嘲の重なった暗い笑みを浮かべた。
「また、首輪? つくづく人を這いつくばらせるのが好きな人たち。あなたたちは犬以下よ!」と吐き捨てた。
余りの豹変振りに、アルファⅡは沈黙した。
「……様子がおかしいぞ。情動の選択が適切ではないのでは?」
『神経活性を検出。恐怖、悲嘆、憤怒、敵意。自傷の兆候あり。保護措置を適応して下さい』
アルファⅡが抱きかかえようとすると、今度は引き攣れた短い悲鳴を上げて、怯えた様子で身を縮め、壊れやすい宝物でも搔き抱くように下腹部を庇った。
「ご、ごめんなさい、やめてください、この子だけは、どうか見逃して下さい……お願いします……この子だけは……騎士様の、私の騎士様の……ミチューシャ……!」
打って変わって痛ましい譫言を繰り返す少女に、二人の会話に同情の色はなく、むしろ事務性が強まった。
「やはり情動がおかしい。適切な反応ではない」
『記憶が混濁しています。現時点で有意な刺激を与えてください』
「何と呼べば良いやら……キジール? 君の名前は、キジールだな?」
その名を聞いた途端、少女の震えが止まった。
そして慄然とした様子で、周囲を見渡した。
「私……私は……、そう、ミチューシャのところに……ずっと……今度こそずっと一緒に……」
そして不思議そうにヘルメットの兵士を見た。
「リーンズィ? あなたが何故ここに……? 私は、我が仔とともに、眠りについたはず……あなたも神の御国に召されたのですか? では、ここが天国なのですか?」
「天国でないことだけは確かだ」
少女を抱き起こして、青薔薇の花樹を指差して見せた。
「そん、な……」
少女の息が荒くなる。
金髪の頭に手をやって花水木の造花を探すが、当然、何分も経たない前に不滅の薔薇へと投げ込んだ直後だ。
それが生来の地なのであろう、発音の荒れた言葉が破裂する。
「あたしは確かに機械を外して……何で? 何で、あたしは、死んでいないの!? リーンズィ! 私に、このキジールに、何をしたのですか?!」
「キジールには何もしていない。君がキジールと認識してるスチーム・ヘッドは正常に破棄された。君は、君自身をキジールと認識しているようだが、違う。君はキジールの要素が僅かに残った
「何を……言って……」少女は青ざめた。
「キジールでは無い本物の名前が分からないか? 良いだろう、では両親の名前は? ただの人間だったころ初めて恋をした時の記憶はあるか? 発症前に最後に食べたものを憶えているか? 生前最も印象的だった事件は? 最も印象的だった血の繋がっていない人物は? 君に関係しない事件で、最も危機を覚えたのは? 足の腱を切られたと言っていたがその時の状況は思い出せるか?」
「聞きたくない、思い出したくない、言いたくない……」
少女は拘束されつつも弱々しく暴れ回ったが、兵士の体躯は癇癪を起こして暴れる子猫でも抱いているかのように動じない。
「そんなの、そんなことを聞いて、どうするというの?」
四本腕の腐肉の巨人を前にして、臆することなく聖歌を奏でていた面影はもはやない。
宣教者のような外観にそぐわない落ち着きも剥落してしまっている。
兵士に抱えられているのは、暗澹たる運命に絶望し、必死に拒絶しようとする、ただの無力な少女だった。
「思い出せないだろう」
アルファⅡが無感情に問うた。
「何も思い出せないのだろう」
「忘れるはずがないでしょう、私の初恋は……さい、しょは……」
眩暈がしたように頭を抑える。
「あれ……? 再誕者になってから、物忘れなんてしたことないのに。何だか……霧がかかったみたいで……」
「それは仕方のないことだ。君には大した量の記憶は存在しないのだから、思い出せるはずがない。君はもう『聖歌隊のキジール』では無いんだ」
「私は、キジールでは、ない……? でも、そんなはずありません、私は、あたしは、あたしは、だって……私は、私はキジールです! 聖父に祝福されし栄光あるレーゲント……!」
「分かった。仮に、君のことは引き続きキジールと呼ぼうか。しかしこう言っておこう、おはよう、
ヘルメットの兵士は淡々と宣告した。
「な、何を、言って……」
「君は、言うなればキジールという人格の残骸だ。君のオリジナルであるキジールが、ユイシスのアバターを検分している間に、ユイシスは君のオリジナルの所作や言動を記録し、解析して、思考傾向をデータ化した。そしてキジールのプシュケ・メディアが引き抜かれた後の、何の権利も認められていない感染者の生体脳髄に残存した、中期記憶や短期記憶、および非陳述記憶をスキャンした。それを私、アルファⅡの情報処理装置で整合性がとれる形で統合し、キジールのように振る舞う擬似人格として仮想構築し、その演算結果を君の首輪、隷属化デバイスと呼んでいるんだが、そこから肉体に入力しているのだ」
憤怒と恐怖、理解不能な現実から来る恐怖が、少女の表情を凍てつかせた。
「何を……言ってるの?」
「つまり、君は自分をキジールだと誤認している、ただの感染者だ。記憶と振る舞いを再生しているだけで、決してキジール本人ではない」
「では、これはいつわりの魂なの? あたしはまた、再誕したの?! どうしてそんなことを?! そんなことは望んでいなかったのに! あの子のところに行きたかったのに、なんでこんな……!」
「それも誤解だ。君は断じてスチーム・ヘッドではないし、キジールの意思を継いでいるわけでも無い。人工脳髄に君の純正な人格データベース、
「嘘、嘘よ! 私はずっと昔、前のあの日、聖父様と一緒に抱いたあたしの娘、私のミチューシャの香りを確かに覚えています! あの胸に抱いたときの、愛しい柔らかさを……」
「毎日のように思い出していたのか、機能停止する寸前に思い出したのかは知らないが、それは最近強く想起された記憶であって、遠い昔の死蔵された記憶では無い。そしてそれ自体は君本来の記憶ですら無い。我々が君に流し込んでいる虚構の記憶だ。一部は間違いなくオリジナルに由来している。しかし、揮発し始めたときの記憶というのは壊れやすくて、輪郭を掴むのが精一杯なんだ。だから補正を加えて、それらしく君に認識させている。どれだけ鮮明な光景でも、君のその記憶は、君の実在性を保証するものではない」
名も無き少女は嗚咽し、美しい金色の髪に爪を立てた。
「それじゃあ、それじゃあ私は、あたしは、誰なの? キジールじゃ無いというのなら、記憶さえも本物じゃ無いなら、ミチューシャを抱いた思い出すら嘘なら。いったい、あたしは……」
「どうしてそんなに混乱しているんだ? そこまで突飛なことはしていないと思うのだが……。そうだな。君はキジールというスチーム・ヘッドの、その残響から生み出された、作業用の存在だ。我々は
「そう」
少女は諦観の笑みで喉を震わせた。
「まるでユイシスさんみたい。あたしは、幽霊なんだ」
「ユイシスも君も幽霊では無い。ただの虚構だ。何の特別性も持たない虚構だ。私もまた、そうだ」
「あたしは……死んだら、どこに行くの?」
「それは分からない。君は死なないし、厳密には存在していないからだ」
「どうして、どうしてこんなことを……」
「君が我々にとって有用だと判断されたからだ」
「うう、うううう……」
金髪の少女は苦痛に耐えるかのように我が身を抱き、震える声で問いかけた。
「あなたがたは、いったい、何者なのですか……? 貴い人だと思ったのに。きっと神様の遣いなのだと思ったのに。どうして、どうしてこんなことを。あなたたちは、何のために……いったい、何者なのよ……」
「どうして? 有益だと判断したからだ。順を追って答えようか。我々は調停防疫局の全権代理人。エージェント・アルファⅡ……アルファⅡモナルキアだ」
黒い鏡面のバイザーが、恐怖に歪んだ少女の泣き顔を覗き込んだ。
「この疫病の時代を制圧し、全ての争いを調停するものだ。そしてこれは……これからは、君の名前でもあるのだ」
兵士は言った。
「ようこそ、新しいアルファⅡモナルキア。君の合流を歓迎する」
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