騎士の骸③
ヴェストヴェストが一瞬で二十七倍に増えた。
「おやっ」
リーンズィが目を丸くしている間に、前触れも無く現れたその影は、塔の狭間を跳ね回り、あろうことかリーンズィたちの進路上にある塔を斬り倒していた。
破壊の音が轟く前に、瓦礫の塔が降り注ぐ。
それを背にして黒髪はふわりと芳しく、翻るスカートの色は黒、脚の付け根のぞっとするような肌の白さ、狂おしいほどに滑らかなきめ細かな質感を際立たせる。
魂の無い静謐の美貌。
葬兵、ヒナ・ツジ。ケットシーだ。
どうやら増援に来てくれたようだった。
これまで彼女を必死で助けようとしたケルゲレンたちはあきれ果てていることだろう。
欠陥ケルビムウェポンは放棄したらしく、今度は少女の身の丈で振り回すにはあまりにも長大な黒い長刀を携えている。
飾り気のない不朽結晶武器だが、構成素材の純度が高い。リーンズィに視認出来るのは、他には『ヘイ・ストレート・ダイカタナ』という、分かるような分からない銘ぐらいであった。
これで塔を打ち払ったのだというのは分かるのだが、刃渡りが明らかに塔の直径に足りていない。
物理的に切断できないように思われた。
しかし事実として斬ってしまっている。
どのようにして塔を複数打ち払ったのか、甚だ奇怪であった。
「呼ばれてなくてもヒナ参上!」
びし、と見得を切るようにカタナを振り回してポーズをつける。
「あなたには……ケットシー救出フラグを立てて後々良い感じにヒナを庇って感動的に死んでもらう役割をやって貰わないと視聴率が落ちるし頑張る!」
「いや、いやいや。待って欲しい」
リーンズィは動揺して上ずった声を出した。周囲が暗い。塔が至る所から影を落としている。
完全に囲まれてしまった。
「これを全部倒せば今日は終わり?」
「だから待ってほしい! オーバードライブを使わないでほしい!」
殆ど一瞬にして、ヴェストヴェストの数が膨れあがってしまっているのだ!
ケットシーのオーバードライブに共鳴して、ヴェストヴェストは己の増殖速度まで加速したのだろう。
塔のうち、リーンズィたちにぶつかりそうな分は、確かに全て斬り倒されていた。
術理はともかくとして、切断できているのは事実。
そこは助かる。
その代償として増えすぎているのも事実だ。そこは非常に厳しい。
どう考えても、何をしようとも、一瞬でここまで塔の数が膨れあがっては釣り合いが取れない!
ウンドワートもデイドリーム・ハントを乱されて態勢が苦しくなっていることだろう。
「め、迷惑……!」ケットシーの本質をリーンズィは直観した。「ひたすら迷惑だ、この娘は……!」
「よろしいですか、シィーの娘様」
ミラーズが、すす、とケットシーのすぐそばへ、恋人の距離に身を寄せて、息を吹き込むように甘く耳打ちする。
「写りを気にするのは仕方在りませんが、あなたが究極的な、何かあの、速くなるやつを使うと、あの塔も加速してしまうのです。控えて頂けますか?」
顔が近い。比類無き美貌を持つ二人が並んで、身を寄せ合っているのは目に良いが、リーンズィは何故か嫌な気持ちになった。二人の顔が近い。まさかそんなことはないだろうと思って見守っていたが、きょとんとしている黒髪の少女の頬に手を当てて引き寄せて、ミラーズが背伸びをして、口づけをした。
「ミラーズ!?」リーンズィが叫んだ。
『ミラーズ!?』ユイシスが叫んだ。
頬を僅かに上気させたケットシーに再度「控えて頂けますね?」と囁く。
「あ……う、うん、いい絵が取れたと思うし……気をつける……」
「ふふ。もう一度してほしいですか?」
「あんまり何回もやると……放送コードが……」
ケットシーは途端にしおらしくなった。
どうやらミラーズの籠絡はストレースに彼女の肉体を通して精神に影響したらしい。
『……失念していました。そういえばミラーズも元は聖歌隊のレーゲント……必要となればキスぐらいは平気でする人です』
「何故こんな時に恐怖とは違う感情でドキドキしないといけないのだろう……」
リーンズィはふと気付いて、ヴォイドの姿を探した。
少女達を置き去りにして、棺を背負う兵士は、塔の群れのさらに奥地へと進んでいく。平穏な一時すら共有できない。
彼は何か、違う時間の中に我が身を任せていた。
【コロネーション】の文字が視界に躍る。
リーンズィは胸騒ぎを覚えて、駆け出した。
結局、街へ降りても特にすることはない。
群衆にあの金色の髪をした天使のような少女の幻影を探すだけだった。
気力はすぐに尽き、キオスクで安酒の小瓶を買ってその場で煽った。
馴染みの店主はドミトリィが不味そうにその粗悪なアルコールを飲み干すのを眺めていた。
「朝刊はあるか?」お前は問うた。
「夕刊なら、うんとありまさぁ。へ、へ、朝刊だって? 旦那様、今何時か分からねぇんですか。お日様を見りゃいい。沈没する船みたいに傾いて、夜の国に真っ逆さまだ。へ、へ、へ! だから朝刊なんてもんは、もう焚き火の材料でして。今夜もうんと冷え込みますもんで」言いながら暖房のためのドラム缶がチロチロと火の舌を見せるのを指差して、カウンターの下から朝刊を取り出した。「おかげでもう旦那様のための一部しかねぇ」
「ありがとう。どうしても朝刊が読みたかったんだ」
一面の政治動向は読まない。戦争の危機などどうでも良い。顛末をどのように丸めるかの計画は、もう結社の連絡員から知らされている。
それよりもブカレストでの一件がどう報道されているのかが気になった。
世間には、まるで関心が無いようだった。地下街掃討作戦についての記事が見つかるまで苦労した。国際欄に小さな記事。大火事があったこと、郊外の森で大量の死体が掘り起こされたこと。
それだけだった。
もみ消しがうまくいったのか……。
センセーショナルな事件以上の価値が、最初から無いのか。
「今度の視察も長かったんで?」店主が問う。
「ああ。かなり長くかかった。今回は大口の契約だよ」
「上手くいきやしたか」
「難しいところだ。だから契約が破談になったと朝刊に載るんじゃないかと怯えているのだよ。今日もこんな時間まで勇気が出なかった」
「へ、へ! 妙なところで旦那様は気が小さくていらっしゃる……」
「私も自分は気が小さいと想っていたがどうだろうな」
「商売ごとというのは、多少大胆にやったほうが良い結果がでるものですぜ」
お前は首を傾げる。「そういうものかね」
長い長い散歩を終えたのはとっぷりと日が沈んだ頃だった。黙って出歩いていたことを妻に咎められ、かなりの時間を使って詫びた。
新鮮な空気を吸ったおかげで、幾ばくか気分は良くなっていた。
それからお前は食事を終え、書斎に戻る前に、鍵穴から部屋の中を覗いた。
そこに誰か待ち構えているかも知れないという予感がしたからだ。
果たして、お前の書斎で、誰かが新聞を読んでいるのを見付けた。
電灯も付けないまま。
拳銃を構えることはしなかった。
黙って扉の鍵を開け、入って電灯を付けた。
その予告のない来客は焦ることも無く、お前の入室から一拍遅れてから新聞を丁寧に折り畳み、貴族の侍女のような装束の膝の上に、無造作に置いた。
見知らぬ女だったが、見覚えがある。局が運用を開始したばかりのQモデル複製人間の一人だ。美しい黒い髪の女だった。あの女と同じ顔立ち、あの女と同じ声、あの女と同じすらりとした背丈の……。
違うのは、あの女よりは、比較の話になるが、礼儀があるということだろう。
女は折り目正しくスカートの両裾を持ち上げて、優雅に挨拶をした。
「失礼をしております。鍵が掛かっておりませんでしたので、勝手ながら、中でお待ちしておりました」
「部屋の鍵は閉めていたと思うが」
「いいえ、玄関の鍵の話です」
「誰かに声は掛けたのか?」
「どなたも気付いてくださらなかったようなので、不本意ながら無断です」
この系列は、あの女と同じく妙な冗談を好む。
何をしに現れた? 暗殺のためか?
お前は脂汗を滲ませながらも、呼吸の調子を整えた。
「吸血鬼でも家主に招かれないと入れないというのに、私室に入るとは、図々しいんじゃないか?」
「それでは奥方に、旦那様の愛人だ、とでも言えば良かったと?」
「その身形と顔貌だ、さる高貴な家から来た……代筆業者か何かとでも言えば良かったろうに」
「なるほど、その手がありましたか。次からは旦那様が浮気相手に送る恋文のために雇った代筆業者と名乗ることにしましょう」
そのQモデルは嘲笑うように口の端を曲げた。
まさしくあの女そっくりだ。
しかし、不快感のようなものは生じさせない。こうした笑みを浮かべるとき、あの女は基本的に、根源的な悪意は見せなかった。コミュニケーションのためにへらず口を叩くのだ。
そう言えば、新鋭機であるQモデルと口を利くのはこれが初めてだった。
連絡員として運用実績のあるPモデルは、少なからず複製元から癖を引き継いでいたが、このモデルも同じだろうか?
「それで? 私はまだ具合が悪い。何をしに来たのか簡潔に頼む」
粛清か、警告か。
妻子はまだ無事だ。粛清であったなら、もう仕事は終わっているが、つい今し方一緒に過ごしていたのだ。
二人の命については心配無用だろう。
不死病患者確保と偽って部隊を動かしたことの責を問いに来たか。
あるいは、処刑にやってきたのか……。
「殺すなら余所でやってくれないか。家族に心配を掛けたくない……」
Qモデルは首を傾げた。
「物騒な話をするものですね、当機はメッセージを伝えに来ただけです。あなたは人を疑うのが大好きな人ですか?」
「いや、そうだが……結社のエージェントだからな。疑うのが仕事で……探るのも仕事だ」
「そう言えばそうでしたね。いいえ、お気になさらず」
お前があまりに生真面目に応えたので、給仕服の女は少し面食らったようだった。
「失礼を致しました。……拝聴願います。我が主よりドミトリィ様へ。『夜九時に電話するから、必ず出てね』。以上です」
女は脂汗を流すお前を見て、目を細め、愉快そうに口元をほころばせている……。
「……それだけか?」
「これだけです。では、今日はこの辺りで、お暇させて頂きます。こんな時間に、妻子ある殿方が、若い女性と狭い部屋で二人きりというのは、よろしくないでしょう」
「これでも私は……普段は紳士を気取っているのだがな」
「私のオリジナルとは懇ろな関係だったと聞いておりますが?」
なんと答える間もなく、女は失礼しますと言って廊下に出て行った。
Qモデルは新聞を忘れていたが、追いかける気には一つもなれなかった。
無性に疲れた。
入浴し、九時前には書斎にまた引きこもった。
そうして机の上の電話機をじっと見つめてその時を待った。
電話機、受話器とマイクを備えた忌々しい箱形の通信機の周囲に、暗澹たるベールが降りているように思われた。男にはそこに何があるのか見ないようにしていた。いつかそれが鳴り出すと分かっている。木組みの筺の上、じきに鳴り響くだろう、雷鳴のように、雨はやんだというのに、お前はカーテンを閉める、一度閉めたものをまた開けて閉める、落ち着かない、狙撃手か? カーテンを開ける。馬鹿げた妄想だ。その時を待っている。鐘が鳴るのを……。カーテンを閉める……。
ジリリ……ジリリ……鳴っている。
時代の黒。行き先のない黒が鐘を鳴らしている……ジリリリ……ジリリリ……。
お前は受話器を取る。
墓守のシャベルのように冷たいマイクを取る。
握り締める……。
「こちらドミトリィ」
『やぁ君、僕だよ。今朝はどうしたんだい? おっと、ねぇ、君。
声の主は処女の清廉さと少年の朗らかさの入り交じる甘い声で、含み笑いをしたようないつもの調子で、一息に捲し立てる。言葉の節々に奇妙な韻律が混じるが、彼女はその行使に自覚的で、躊躇はないが、特定の符号を使ってその使用をいつも明示しようとする。
公平性のアピールなのか、欠片ほどの親愛の証なのか、それは分からない。
『まったく、あんまりにも元気に受話器を叩き付けたものだから僕は耳が痛くなってしまったよ。ついさっきまで耳鳴りが止まらなかったんだからね。本当だよ? どうして君はあんな酷いことをしたのかな。だって君、僕は数少ない気を許せる友達だろう。ああ、ごめんね、これはちょっと押しつけがましいかな。でもまぁ、僕は本当に君のこと好きだよ。大好きさ。君は僕のこと嫌いなの? 愛してないの? 以前のように愛してくれても良いんだよ? ねぇ、どうなのかな。
「馬鹿を言え。聖句で惑わされた感情は愛などでは無い」
それほど強制力のある聖句ではない。表面上は軽口を保つ。これしきの応酬ならば挨拶程度だ。
「……だいたい、嫌いだとは言わないが、結社で本当にお前を心から愛しているのは、スヴィトスラーフぐらいだろうな」
自然と口が回る。大丈夫だ。お前はまだ平静を保っている。この女と付き合える程度には……。
『ふうん。相変わらずつれないね。君は美人が嫌いなのかな? 自分で言うのもなんだけど、僕も顔はとびきり良い方だと思うよ。それにほら、君の奥さんも僕と同タイプの美人じゃないか。僕の複製体に改造を施して子供を産ました、言ってしまえば派生モデルだし。どうだい、僕だってさ、ひけは取らないだろう?』
「君は美しいよ。君の複製体も美しい。だが君は美しいだけだ。私の妻と違って君には品性が無い。というより、私はな、君のその原初の聖句こそが、苦手なんだ。これは何度も言ったと思うが……」
覚えていても気にしないだろう。溜息を一つ。脳髄が疼く。お前は目元を揉みながら呻いた。
「それが、今は、耳から直接だ。硝子越しでもなんでも無いんだ。慣れていても、和らげるのが厳しい。電話口からそのまま頭に流し込まれる身にもなってほしいな」
『いいや、いいや、重要じゃないね。君は要するに、僕が好みの女の子じゃないから、それで厭なわけだろう』
女は冷笑的に言葉を連ねた。
『それが証拠に、君。あんな可愛らしくていたいけな女の子を、たっぷりと味わったそうじゃないか。普通なら犯罪だよ。大層酷いことをしたみたいだね。こればかりは、言い逃れは聞かないよ。僕は今、いつでも彼女と話せる立場にいるし……ドミトリィ、騎士様のドミトリィ……くすくす、笑ってしまうよ、君。僕はね、君の話ばかり聞かされているわけさ。甘い甘い夜の話をね。いやいや、ねぇ君。ベッドの上では誰にでもあんな口説き文句を囁いているのかい?』
怖気がした。
この女が何を知り、何を目的にして電話を掛けてきたのか、朧気ながら理解したからだ。
不死病患者だと偽って確保し、新しい聖句遣いだと言って身柄を引き渡した、金色の髪をした愛しい娘。
名も知らぬあの少女の……。
彼女はお前を揺さぶりに来た。
嘲弄し、玩弄し、破滅させに来たのだ……。
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