貌の無い騎士の夢①
「彼女は……? 彼女は、どうなった……」
お前は手負いの犬の如く彼女にすり寄る……。
『うん。僕やスヴィトスラーフには少し劣るけど、間違いなく聖句遣いだね』
受話器の向こうで女は満足げだった。
ぱち、ぱち、ぱちと、愉快そうに小さく手を叩いている……。
『お手柄だよ。不死病患者かもしれないなんて出鱈目は言わずに、事前に、どうにかして、僕たち聖歌隊に相談してくれれば良かったのに』
「最初は不死病患者だと思っていたんだ。彼女はあり得ない治癒能力を持っていて……」
女は一層高くせせら笑った。
『嘘だね。嘘がとても下手だ。君は嘘を
聖句による証言の強制は無い。
それだけに痛感させられる。もはや強制する必要すら無いのだと。
見透かされている……。
お前は冷や汗を拭った。
今度こそ弾劾の通知なのか?
そして目を閉じた。これで良かったのだ、これで。
どのように処断されるかなど、最初から気にしていなかった。
お前は、正しいことをしたのだ。そう信じるに足る行いを。
しかし、相手はお前の沈黙など聞いてはいない……。
いつもと変わらぬ一本調子の美声で話を続けた。
『大方ね、不死病患者だとでも言わなければ、部隊を動かせないと思ったんだろう。そうだろう、君? 悩みに悩んで手配をしたんだ。分かるよ、君ってば、いつでも真面目なんだもの。でも今回の件は愚かだったよ。全く、君ともあろうものが、随分と危ない橋を渡ったものだ! 場合によってはとんでもない処罰もあったと思うよ。スヴィトスラーフがぼやいていたよ、現時点においてすらお偉方の意見は割れているそうだ。まあ、しかし君、心配することは無いよ。理論上の存在だった在野の聖句遣いを、現実に見つけてくれたんだからね。手柄は手柄だとも、大したことさ。罪と相殺しても、たっぷりと功績が残るんじゃないかな』
「私のことはどうでもいい。とにかく彼女は無事なんだな?」
『……どうでもよくはないよ。僕は君の心配をしてあげてるんだよ?
女は小馬鹿にするように、それでいて、少し不機嫌そうに嘆息した。
『彼女はもちろん無事さ。聖歌隊の関係する病院で隅々まで検査をして、治療をして、まさに今日、今朝方にね、スヴィトスラーフが新しい聖句遣いとして認定して、彼女を正式に保護した。まったく、そのことを知らせたくて電話を掛けたのに、……僕がどれだけ驚いたか分かるってくれるかい?』
お前は笑いそうになった。
この女は、いったい何度今朝の電話のことを持ち出すのだろう?
余程腹にすえかねているらしいと察し、素直に謝罪をすべきだな、とお前は判断する。剣呑な会話だが、その辺りにまで剣呑さを通すのも、不義理である。
「その件は済まなかった。あんなに乱暴に対応するつもりは無かったんだ。気分を害してやろうとか、そういう意図は無かった。ただ、疲れていたんだ。別のことで頭がいっぱいで……とても気が休まらないでいた」
『大丈夫、僕は気にしていないよ』女の言い様は猫の目のように変わる……。『それで、別のことっていうのは? 数少ない古馴染みの僕よりも大事なことって? それって……くすくす……君の傍にいない、例の彼女のことかな』
「そうだ」
『ふふん。ロマンチックだね。しかし、なるほど、やっぱり君。彼女のことが欲しくって欲しくってたまらなくて、それで功を急いだわけだね。自分の進退だけじゃない。結社のことさえどうでもよかったわけだ。僕たちの立場だって、何となっても良いって?』
「そうだ」と言い切ってしまうことには抵抗があった。
逡巡し、誤魔化すための方便を考える。
「……彼女の命が危なかったのは確かだ」
『どうかな、君?
そんな嘘だらけの君に愛されて彼女は幸せだね、と女は嘲笑う。
『とにかく彼女については心配しなくて良いよ。全てを、命の隅々まで、スヴィトスラーフ聖歌隊が利用し尽すから。心配しても無駄、というわけさ。そうそう死ぬことは出来ないだろうね。というよりも、死ななくなる。聖歌隊における記念すべき民間からの不死転化第一号、ってところかな?』
「……スチーム・ヘッドにするのか」
『たぶんそうなるだろうね。死ねないようにして、彼女の有用性を実験して、後の処遇は結果次第かな。ところで君、知っていたの?』女は含み笑いをした。『知っていて、僕たちに彼女を引き渡したの?』
「知らない、名前も知らない……」
『そうじゃなくて。彼女さ……くすくす……ねぇ、知らなかったの?』
からかうような声音で……。
『彼女、妊娠しているんだぜ』
ドミトリィは絶句した。
「また冗談か?」
『冗談でこんなことは言わないよ?』憮然とした声が返る。『僕はいつだって新しい命には誠実なんだからね』女が嗤っている、絶対遵守の声を持つ女が嗤っている、酷く耳に障る、しかし脳の髄が鈍い歓喜で震える、切迫した状況だというのに、本能的に震えてしまう……。『間違いなさそうだよ。彼女には、君の子供が宿っている。まったくまったく、プラトニックな話もあったものだと最初は思ったよ? あのドミトリィともあろうものが、女の子一人への純真な愛で、結社を動かそうとするだなんて。感動したさ……でも、実際はそうじゃなく、淫猥な意味で愛を注いでいたわけだね、君は。それにしても君みたいな堅物が、まさか彼女みたいな可愛らしい子がタイプだったとはね。僕も女の子ならああいう子がやっぱり好きだけど。小さくて可愛くて、品があって、抱きしめたくなるよね』
女の言葉は途中から聞こえなくなった。
あの娘が妊娠している? そんな予徴がどこかにあったか?
予想していなかった事態だった。
視界がゆっくりと明滅し、お前は机に肘をつき、頭を抱える。
「待て……私の子供? 私の、と言ったか。いや、いや、待て、待ってほしい……」お前は言葉を探す、論理を探す、違和感を拭うための……。「妊娠しているのが事実として、それは、誰の……誰の子供とも知れないだろう。客がどれだけいたことか。誰の子を妊娠していてもおかしくはない。私の子供とは言い切れないだろう」
彼女が他の男の子供を孕んでいるというのも胸の悪い感触があるが、常識的に考えれば、そうなる。誰の子供でも有り得るではないか。
『一理あるね。でも君の子供じゃないとは、それこそ言い切れない。裏を取れた限りだと、彼女があのろくでもない地下街に売り払われてから二年とか三年とかじゃないみたいだよ。もっと経っている。だというのにね、堕胎なんかの経験も無いみたいだ。それが、どうして、今、こんなタイミングで、子供が出来たんだと思う?』
脳裏に可能性がよぎる。
しかし……そんなことが可能なのか?
『君の考えていることは分かるよ。もちろん、原初の聖句で無意識的に心身をコンロールしていたからだろうね。僕にだって覚えのある業だ。あの可愛らしい花嫁は、何百人に穢されようとも、心の奥だけは誰にも許さなかった。だけど彼女は君を心から愛した。あんな地獄でも君の子供ならば欲しいと、そう心から願ったわけだよ! 涙ぐましい話さ。ねぇ君。あんな可愛い子に愛されるなんて……幸せものだね?』
「あり得ない。いずれにせよ私とは関係が無い」
『ふうん。そうかい?』女は調子を狂わされた様子で溜息を吐いた。『君は案外と冷たいね。いつでも冷たいか。僕にも、いつでもそっけないものだったし。でもさ、あの子は、お腹の子供にドミトリィと名付ける、と言っているぜ。予定は狂うけど、スヴィトスラーフも堕胎はさせないし、育児も助けるつもりだそうだ。聖句の力もある、きっと上手く行く。さて、君はパパになるわけだ! くすくすくす……。望むと望まざるとに関わらずね。男の子かな、女の子かな? どっちみち、良い結末にはならないだろうけど』
お前は唾を飲み込む。
何なんだ、この会話は?
いったい何の価値がある?
女がいちいち嘲るせいで忘れそうになるが、この状況は異常事態なのだ。
――この女が外部と接触できる時間は、極めて限定的だ。
仮に彼女が大国の指導者に聖句を吹き込めば、それだけで大規模な世界人口の調整が可能になる。
あらゆる文脈を無視して世界中に核弾頭が雨霰と降り注ぐだろう。
彼女の問いかけと命令はそれほど強力で、それ故に、力の行使を厳しく戒められているものなのだ。
ああ、なるほど、あの娘が妊娠している!
しかも自分の子供かも知れない!
確かに重大な問題だ! 一つの家の調和を乱すほどの問題だろう。不貞を働いたせいで、一家の離散ぐらいは有り得るかも知れない。
だが世界の均衡を左右しかねない、それほど恐ろしい力の持ち主がするような話では……。
「それで……それで、私に何をさせたい? このエージェント・ドミトリィに何をさせたいんだ」
畢竟、問題はそこに収束する。
世界秩序の天秤を、彼女は言葉一つで傾ける。傾けさせる。
彼女は、いつでも誰かに何かをさせるために囁きかけるのだ……。
「お前は何のために私に連絡を付けてきた? Qモデルまで私に寄越しただろう」
『野暮用さ。野暮なことを、聞きたいだけさ。こんなことは滅多にないことだから。
愛しているか? 愛しているか? 愛しているか……? お前の視界は相変わらず明滅している。視界は淀み、回転し、赤、青、黄、緑、■の五色、虹の奔流にでも飲み込まれたかのように、お前は混乱している。
考えることは多くある。
自分は正気では無かった、自分に責任はない、正しい。
そしてもちろん否だ。
「私は彼女を愛していたし、愛している」
愛の責任を無視できない。
それがお前だからだ。お前は、ドミトリィは、彼女を愛していた。
その責任を捨てられない。ドミトリィ! それがお前だ。
『なら、彼女のことを心から想って、信頼するかい。彼女は、君のことを愛していると嘯く彼女は……事情がどうであれ、結局はただの淫売だよ、そして誰でも彼でも洗脳できる言葉で、自分にとって都合の良い現実を導くのさ。偽救世主の鑑のような娘だよ。
信じるかい……? 信じるかい……? 信じるかい……?
あの美しい天使は嘘を吐いている、あの少女は嘘を吐いている、お前を、ドミトリィを惑わして、自分を愛させている……。正しい。まさしく正しい。あれは偽りの娘だ! 彼女の経歴は尋ねる度に揺れ動く。どこの誰とも分かりはしない。全てが嘘だ! しかし、身の上話が嘘ならば、語る愛さえ嘘なのか……?
もちろん否だ。
「彼女は私を、ドミトリィを、間違いなく愛していた。私はそう感じていた……」
お前は/ドミトリィは/あの少女の愛を無視できない……。
『どうかな。感じる、だなんて曖昧なものさ。僕の聖句にだって、君。まるきり抵抗できるわけじゃないだろう。今だって、意識を揺らされているのが声から伝わってきているぜ。彼女にいいように弄ばれて、脱出に加担させられて。そこに愛情なんて微塵も無かったんじゃないか? そうは思わないのかい?
洗脳された結果だ、お前は聖句によって誘導されたのだ。その推測も正しい。
そして、もちろん否だ。
「だとしても、彼女の愛と、新しい命を無視できない……」
お前は背くことが出来ない。あの輝かしい金色の髪の娘に向かう情動を無視することなど、ドミトリィには、到底出来ない。否、ドミトリィなど偽りの名だ。全てが嘘だ。だが情動までも完全に葬ることはできない。
彼は狂っていた。もう狂わされていたのだ。
お前は自覚する。
覚悟する。
己の迷妄に最後まで付き合う決心をする。
だからその女に、悪魔のような女に、頽落した神の如き女に、問いかけた。
「私は何をすれば良い? 何をすれば……彼女と私の子を、どうしてくれる?」
『ああ! そんなつもりはあったんだね。彼女と君の子をどうにかするつもりは、あったわけだね……』女は嬉しそうだった。『さすが騎士だね。ねぇ、騎士様? 騎士ドミトリィ! ふふふ、騎士だって。あの子にそんなふうに呼ばれて、こそばゆいね、ドミトリィ? それで、どうするの? 彼女を娶る? 個人的には応援させてもらうけど、前途は多難だろうねぇ』
脳髄を揺すぶられているが、お前は至って冷静だ。
それ故に打算的に展望を空想する。
娶る、というのは現実的ではない。そもそも彼女の身柄は当局で確保しているのだから、エージェント風情が介入する余地が存在しない。
「ふざけた話をしてる場合じゃない。代償は払う。それで済むのなら、いくらでも払おう。それで彼女が自由になるのなら……。だが数少ない聖句遣いだ。私が権限を行使したところで、今更彼女をどうこう出来るとは思えない」
『うん、そうだね。君は彼女を引き渡すんじゃなくて匿うべきだったんだ』
「ならば、何を求めてる? お前は何をしに私に電話を……」
『これは提案なんだけど、ねぇ、君。彼女をさ』
女は一言一句を、甘やかな声で、恋人に囁くように、優しく舌先で紡いだ。
『僕たちから、奪いにきなよ』
「……何と言った?」
『
女の声は異様なほど平静で。
だからこそドミトリィは、彼女の言葉を理解出来ない。
それでいて、絶対服従の聖句が確実に意識を蝕んでいくのを知覚させられる。
『まとな手段では見込みがない。そうだね、まさしくそうさ。ならば、君がスヴィトスラーフ聖歌隊の本部を襲えば良い! あの愛らしい花嫁を連れ去って、抱きしめてあげれば良い。騎士様らしくね。先回りして応えておくよ。僕は、それを許す。僕は君を見過ごす気でいる。僕の力の及ぶ範囲なら、助力だって惜しまないさ……』
「じょ……」絶句する。「冗談だ。悪い冗談だ。お前の悪い癖だ!」
『信用されてないのは少し悲しいよ。減らず口だって? 君。僕がこれを叩けなくなったら、そんなの、人間として終わりだからね。知っての通り、ただでさえ人間離れしているんだから! これぐらいは許してくれないと、僕は泣いてしまうよ。だけど君、今は違うよ。僕は頭の先から足の爪まで本気で、まったく心の底から、君に、君の花嫁を奪えと、そう言っているのさ』
「本気であるものか! いつもの嘲弄癖だ、私に
『……嘘なんてついてないよ。からかってもいないさ』
「いいや、ありえない。言うはずが無い。君は結社を、世界秩序の担い手を……」
お前は狼狽えながら万年筆を見つめる、愛用している万年筆を見つめる、記念にもらった万年筆を……紋章が刻まれている! 三角形に瞳。地球儀を背にした……巨大な瞳を。世界の実像と対峙するその剥き出しになった眼球を。
「人類を裏切れと言っているんだぞ! 君がどんな人間か、いまだに私には分からない。君の人形のような美貌の下に、何が潜んでいるのかなんてな。だが確信していることはある。人類を裏切れだと!? そんなことを言う人間ではないだろう! 君は絶対にそんなことは言わない! 君は、その点だけは信用できるんだ!」
『うん、いいや、だから、そう言っているんだよ? 僕たちを裏切れ、人類を裏切れってね』
女は平坦な声で相槌を打つ。
お前はぜいぜいと息をしながら反駁する。
「そんなことをすれば、どうなる。私だけでは済まされないだろう。私の妻子でもまだ足りない。親類縁者全ての命が危ない。それだけで済めばまだ良い……彼らを裏切れば次の実験場は私の街になりかねない!」
『それはまぁ、そのために発展させられたのが、君たちエージェントの預かる都市だからね』
電話の向こう、女の声には何の変化も無い。
『順番が繰り上がることは、そりゃあるよ。大した問題じゃない。そしてその順番はいずれくるんだ。明日でも十年後でも大した違いは無いじゃないか』あくびを一つ。『それで、どうするの。奪いに来るの? まだ誰も彼女に枷を嵌めてない。実験道具として弄りまわしてもいない。久々の平穏な一日だったかも知れないね。今日の彼女は幸せだったよ。温かくて清潔な毛布に包まれて目覚めて、おいしいパンとスープをゆっくりと味わって。好きなだけ美しい音楽を聴けて、好きなだけ眠れて、何をしても誰からも咎められない。杖をついて修道病院を出れば、柵も無くて、温かな日差しの降り注ぐ丘でくつろげる。ええと、ブカレ……どこだっけ? 忘れたけど、スラムに比べれば本当に天国だろうね。ああ、違ったか。君がいないことを除けば……天国さ。君さえいれば、あの娘はどれだけ幸せだろう?
「お前は私に何をしろと言っているのか本当に分かっているのか!?」
『本当に分かっていないのかい? ドミトリィ。僕の言うことが分からない? 世界なんてどうでも良いって返事をしなよ』
静かな声だった。
『全てを捨てて彼女を迎えに来ればどうかなって、そう言っているんだ。まだ言葉が必要かな』
「結社が……」
『しつこいよ、
「人の命を何だと思っているんだ? 我々のことを!」
『人は人。そして君は君だ。さっきから言ってるけど、そもそも僕は君の思想を代弁しているに過ぎないんだよ? 何度も君から君の世界観を聞き出しているんだから、そこから逸脱することは言っていないよ。ええと、それと、何だったかな? 君のことをどう思うかって? そんなの、僕の数少ない、大事な大事な……友人に決まってるじゃないか、僕のドミトリィ! 電話越しでも僕の聖句を浴びて正気でいられる人間というのは、貴重なんだよ……僕とこうやってまともに会話が出来る人間というのはね。ああ、はっきり言って、僕が個人として大好きで大事に思っているのは、確かに、数えるぐらいしかいないなんだ。でもね、君は、本当にその一人だよ。嫌ってくれても良いけど、君。僕が君を、愛しているのは、限りなく本当だよ。だからこんなろくでもない話をしてあげてるんだ……』
電話口の向こうにいる女は、眩惑するような言葉と裏腹に、あまりにも素っ気なく囁いてくる……。
『僕もいつまでも、こうやって、お電話していられるわけじゃない。スヴィトスラーフにいっぱいお願いをして、ようやく電話を使わせてもらえているわけでね、暇じゃないんだから。だから君……
「……耐えられるわけがないだろう……」
そんなものに耐えられる人間は一人もいない。
お前は絶叫している。頭をかきむしっている。お前は答えを求めてそこかしこに視線を巡らせる。
何も無い。何も無い。何も無い。何も無い。何も無い。
助言してくれる存在などどこにもいない。
唯一絞り出せたのは、電話口の向こう、見知った女への問いだけだ。
「……何故そうやって、私を惑わすんだ。お前は唯一、神命には……人類のための活動には、世界秩序の安定を志向することにだけは……真摯なのだと思っていた……」
『そうだね。私は……僕は、皆幸せになってほしいとは思っているし、その願いには素直なつもりだよ。でも僕は……君が神命に背くところが見たい。ドミトリィ、君が神命よりも花嫁を重く見るところが見たい。世界秩序の計画と引き返しにしてでも、誰かが救われるところが見たい。引き裂かれた愛し合う二人が、もう二度と会えないと嘆いていた二人が……』
そこでようやく女は、せせら笑うような声音ではなく、どこか
『結ばれるところが見たい。ずっと探し求めていた人と巡り会える未来が見たい……。僕にはそういうの、どうやら縁が無いみたいだからね。くすくすくす……さっきはああ言ったけど、ねぇ、君を煽るような、責め立てるようなことを言ってしまったけど……不義の愛だとか何だとか、そういう追求はしないよ。スヴィトスラーフも言っているだろう、汝の欲するところを成せって。だから君……
「……しかし、しかしだ」
お前は食い下がる、思考を巡らせる、より悪い可能性に行き当たる……。
都合の良い可能性に。
都合の悪い可能性に……。
「君が助力してくれるだって? それなら、当然、君も、ただではすまないぞ」
『処分されるかも知れないね。君の花嫁よりもっと酷い目にあうかもしれない。でも耐えられるよ。慣れているからね、構わない。他ならぬ友人の幸せのためだ』
彼女は決然として言い切った。
『僕はそのためなら僕の可能性を諦めるよ。僕に実現し得る可能世界を、全て放棄する。僕が間違っていたと証明されるなら満足さ』
「それは……」
ドミトリィは、泣きそうな声で返事をした。
「それは、出来ない」
『おや、怖じ気づくのかい。花嫁を見捨てるのかい? 花嫁が汚されるのを、では、君、見過ごすんだね?』
「彼女は大事だ、愛している。愛している。いっぽうで、君のことは、さほど好きではないが……自分たちの幸福のために使い捨てに出来るほど、憎くもない……。何より君は、我々の計画の一つの
お前は頭をかきむしる、論理を探している、誘惑を拒む言葉を……。
「そんなことをすれば、我々の払ってきた犠牲が、まるきり全部無駄になりかねない……。既にして無用な犠牲を強いている、偽りの情報であの少女を救助させ、一つの貧民街を焼き払った。だが、これ以上の裏切りは、世界秩序への裏切りは、許容されない……私一人の欲望で、我々の千年の犠牲が……水泡に帰するなどということは……」
嘘を吐いている! お前は嘘を吐いている!
声が脳裏に木霊する。
騎士様、騎士様、騎士様……ドミトリィ! お前は嘘を吐いている!
「ううう……あああああああ!」
ドミトリィは何度も机を殴った。何度も。代々受け継がれてきたその机を殴った。己を縛り付ける椅子を呪った。万年筆を壁に投げつけた。曾祖父に贈ってもらったマグカップを、地域住民から贈られた感謝状を、乗馬大会で入賞した時の楯を、妻と子を写真を、投げつけた。投げつけた。机を殴った。殴った。顔をかきむしった。爪が剥がれるまでかきむしった。
それから、一呼吸をして、応えた。
「……出来ない、それは出来ないんだよ。私の不義を貫くために、そんな犠牲は、あってはならない……君や世界は、天秤に乗せられない……!」
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