貌の無い騎士の夢②

 女は可憐な声を震わせて、受話器が震えるほどに怒鳴りつけてきた。

『怖いだけだろう、ドミトリィ! 君は恐れている、ああ、君のちっぽけな性根、その臆病な心の動きが手に取るように分かる! 君は恐れているんだ、彼女のために全部を投げ出すこと、その選択が余りに深長なので卑怯にも目を逸らそうとしている! そうだろう、君? このろくでなし! 君がイエスと頷くだけで、この僕が、この時代の絶対者であるこの私が、君を、君たちを、祝福されない君たち二人を、助けてあげるって、嘘偽りなく言ってるんだ! こんなところで躊躇ってどうするんだい? ねぇ、ドミトリィ! 女の子一人、君の子を授かった娘を一人助けられないで、それで君は、どうやって世界秩序に貢献するんだって? 怖いだけだろう、ドミトリィ!   この僕には真実以外必要無い!』


「ああそうだとも!」


 悲鳴を上げる。泣きながら怒鳴りつける……。


「私は、恐れているのだ……! それだけの代償を払って……この命、家族、領地を失って……花嫁を奪い去る。それで、彼女を代償に釣り合うぐらい幸せにしてやれるのか!? 彼女の体は痛めつけられている、聖句だってそんな万能なもんじゃないだろう!? 結社の支援無しでは、おそらく命は長くない! 出産の負担にも耐えられないかも知れない! よしんば彼女と子が揃って生きながらえたとしても、結社が見逃すはずもない……! 全てを捨て去ってそれでは、あまりにも……しかも、しかも君にまで、君にまで危害が及んでしまう……私のために、私たちのために……」


 男はいつしかすすり泣いていた。


「そうだ、私は怖いのだ。不確かな未来のために死ななくて良い人間を死なせる、その選択に耐えられないのだ……そうとも、それだけだ……彼女の儚い幸せのために、その他一切を地獄に落すというのが、怖くて、怖くて、とても選べないのだ……」


 長い長い沈黙。

 そして、女は『そう……そうかい』と言った。

 軽蔑や憤慨の気色は無かった。

 ただ、消沈していた。

 驚いたような、夢から覚めたような、取り返しの付かない言葉を放ってしまったことを後悔するような……どこか動揺した響きがあった。


『ああ……ドミトリィは、そうだもんね。婚外子を作るなんて珍しいと思って、期待したんだけど、でも、そうなるだろうね、ドミトリィなら……僕の大好きなドミトリィなら……僕たちを、裏切ったりしない。君はいつだって僕のことを大切にしてくれる。ある意味ではスヴィトスラーフよりも……』


 責めるでもなく、咎めるでもなく、むしろ女は己に対して戒めるかのように、訥々と言葉を紡いだ。

 酷く後悔している様に感じられて、お前も罪悪感を覚える。


「すまない……私は、君を裏切った……」


『いや謝るのは、僕の方だ……。、ううん、違う、そうじゃない。ごめんね。悪かったよ……』


 わざわざ聖句を撤回してまで、女は謝罪の言葉を重ねた。


『きっと、意地悪を言ってしまったんだろうね……。僕ともあろうものが、あの愛らしい娘が、君の花嫁になるのだと信じている彼女が、あまりにも可愛かったから、つられて、浮かれてしまったんだ。うん、君が世界秩序に背くだなんて……そうとも、冷静に考えれば、あり得ないんだから。僕が裏切るよりもあり得ない。何代も、何百年も、君たちは組織に尽してきたんだから、それを否定するだなんて……ごめんね、試すべきじゃなかった。友人にそんなことをするべきじゃなかったね……。そうとも、君が正しい、僕の方が間違えていて、馬鹿なことをしてしまった。ああ……君、ドミトリィ、数少ない我が友よ。どうか、どうかこれ以上は、僕を軽蔑しないでくれ給え……』


 懇願する声音で女は繰り返す。


『いや、責めるばかりでは筋が悪いよね。実際君は良くやったよ。彼女は……死なずに済んだ。少なくとも、どことも知れぬ地下街で、クズ肉にならずないで生き延びた。これからも彼女は死にはしないよ。死にはしない……この遣り取りのあとでは、もう何の慰めにもならないか。ごめんね、時間を取らせて悪かったね、今晩も酷く冷えるそうだ。温かくしておやすみなさい、それじゃあね、僕の大好きなドミトリィ。今晩の会話はどうか、全部忘れてね……』


 通話はそのうちに途切れた。

 お前は黙って受話器を握っていたが、ふと我に返り、電話機に置いた。

 立ち上がった。

 父から受け継いだ椅子を、思い切り蹴り飛ばした。


「騎士! 何が騎士だ! 何が! ええ、ドミトリィ、お前は何をした? ええ! 聞いているのか、どうなんだドミトリィ! 何が騎士だ! 何が騎士だ! 何が騎士だ……」


 ドミトリィは頭を抱えて蹲り、何を捨てれば良かったのかを考え続けた。

 自分に妻子がなければ?

 ああ、街の人々を見捨てて?

 地位がなければ良かったのか?

 自分が継承者でなければ?

 組織と、結社と関わりが無ければ?

 否、否、否だ。それこそ土台、話が違う。

 受け継いできたからこそ、ここにいる。

 捨てられぬものがあったからこそ、あの少女と出遭ったのだ。

 前提条件を組み替えてもそれは無意味なのだ。

 結局、ドミトリィに取れる現実的な選択肢は、金色の髪の愛しい花嫁を、いなかったものとして、記憶の闇に葬ることしか無かったのだが、それでも何度も問いかけ続けた。あの少女を迎えに行ってやれる自分を考え続けた。

 実現しなかった未来を。


 それから彼は病にかかり、真面目な気性を陰の気で染めて、塞ぎがちになり、エージェント・ドミトリィとしての身分から退いた。

 高高度核戦争が勃発し、結社からの連絡が途切れても、さほど関心を示さなかった。

 彼は生涯にわたって、夜半になると目覚めて、あるはずのなかった未来を想像した。

 ああ、我が身に名前無く、貌も無く、歴史無く、矜持無く、神命無く……。

 夜の闇を彷徨う、誠の騎士であったなら。

 墓碑銘もない、弔われることもない、何にも縛られぬ、死人の騎士であったなら……。

 騎士の骸であったなら。

 


「時間……だ」ヴォイドは呟いた。「思い出したぞ……」


「何を?」


 追いついたリーンズィが、崩れ落ちそうなその無貌の兵士に寄り添う。


「ヴォイド、私にはこの作戦が正常なものだとは思えない。君の行動は明らかに異常だ。君は……死ぬためだけに進んでいるように見える」


 もはやどこを見渡してもヴェストヴェストの巨影以外には認めることが出来ない。増殖の瞬間には全身を引き裂かれそうなほどの圧力を持った暴風が吹き荒れるが、ヴォイドが脚を止めた地点では、不思議とその破壊を免除されていた。

 偶然では無く、ユイシスがその地点をマーカーでポイントしている。

 だが、そんなことは、最初からそこにいれば安全だと知っていたのでなければ説明が付かなかった。


「カートリッジ、ロード……完了……。リーンズィ、戴冠コロネーションを……」


 フルフェイスヘルメットの奥から響いてくるヴォイドの、その右腕があるべき空間に雷光が奔り、それを追うようにして新しい腕部が形成される。腱と骨の僅かな肉がこびりついただけの粗末な右手が左腕部のタイプライターじみた入力装置からコードを入力し、頭部の高性能機関式人工脳髄のロックを解除した。

 脳定位固定装置の螺旋が頭蓋から引き抜かれ、またしても血が零れる。


「この戴冠によって、君こそが真のアルファⅡモナルキアになる。世界が……一択に定まる。これから進む道が確定するのだ。未来は、不変の無秩序では無い。リーンズィ、君の可能世界によって示される、新しい道がそこにはある。私では到達できなかった。望んだ景色は、私には……」


「発言の意図が不明だ。気を確かに持つんだ」

 リーンズィは己の片割れ、意思疎通不可能な、それでいて奇妙な連帯感を感じさせるその兵士を抱きしめ、眉根を寄せる。

「精神外科的心身適応は、正常に機能しているか? 落ち着いて、思考を纏めて」


 だが兵士は動きを止めない。

 不朽結晶連続体の左腕が、二連二対のレンズを備えたバイザーのヘルメットの淵を掴む。


 ……黒い不朽結晶剣を携えたケットシーが跳躍して塔を蹴り踊り、リーンズィたちの周囲の塔の一本に刀身で半ばまで斬り込む。

 それから巧みに重心を操り、体操選手のように身を振り、勢いを付けて、やがて邪魔になるであろうその一本を正確に切り落とし、次なる塔へと飛び移る……。

 アルファⅡモナルキアは、奇跡的にも災禍の襲来を免れている。

 あるいはそれは、仕組まれた、偽りの奇跡なのかもしれない。


 遅れて追いついてきたミラーズが、「ヴォイド。あなたは本当にそれでいいの?」と問いかけた。


「……良いも悪いも無い。正常稼働中のアルファⅡモナルキアには固定された人格など存在しない。それ故に選択には常に留保がついてまわるが……今この瞬間だけは、リロードしたこの感情だけが、アルファⅡモナルキアの主幹だ。WHOの事務局の安否確認も、戦闘の調停行為も、もはや私を縛ることは無い……」


 アジャスターが解放され、拘束されていた頭部が露出した。

 ヴォイドは装甲された左腕でヘルメットを抱える。

 精悍な面相の、まだ年若い男であった。

 金色の短髪。目は翡翠色で、吸い込まれそうなほど深く、淀んでおり……リーンズィは胸騒ぎを覚えた。


 どこかで見たことがある。

 ミラーズを横目で見遣る。

 似ている。明らかに彼女と似ている。

 性別も骨格も何もかも違う。

 だが、根底に同じ色彩を感じるのだ。

 ミラーズもまた、それを感じている。

 同期している金色の天使の慨嘆が、そのままリーンズィの心臓に流れ込んでくるようだった。


「ここが私の……ポイントオメガだ。私は、ここまでで良い……」


 ヴォイドは左腕のガントレットから首輪型人工脳髄を取り外し、己の首に押し当てて装着した。

 そしてフルフェイスヘルメットをリーンズィへと手渡そうとした。


「アポカリプスモードを起動する。リーンズィ、どうか、頼む」


「君は……」


 リーンズィは赤く変色した瞳で、ライトブラウンの髪を暴威の風に靡かせながら、その青年へと問いかけた。


「君は……誰だ?」


「ドミトリィ。私はドミトリィだ」


 男は壊れた肺を慎重に動かし、静かな声で応えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る