騎士の骸②
不死病患者を、いもしない目標を捜索するふりをしながら、ドミトリィは独自に地下街に囚われたその少女について、内偵を進めていった。隠しカメラを使い、隠しマイクを使い、彼女が本物の聖句遣いであることを証明するために足繁く地下街の娼館、娼館とも呼べない粗末な穴蔵を通じて、彼女と接触し、同じ時間を過ごした。
大枚を積んで一晩の間語り明かしたこともあったが、内容は覚えていない。覚えていない夜が幾つもある。ただ、最後の夜の記憶は濁りながらも鮮明だった。
そのときの金色の髪の少女は疲労困憊し、殆ど死に体だった。ドミトリィは女衒に凄まじい額の金と宝石を握らせて彼女を買って、まず水を飲ませ、それから丁寧に体を拭ってやり、傷口を改めた。大抵の傷は修復が始まっていた。その美しい声に混じる治癒の聖句で、自己再生を行っているのだろう。
彼女を幾らか休ませているうち、ドミトリィはやりきれなくなった。彼は確かにその少女を愛し始めていた。
原初の聖句のせいだとは思えないほどの愛着感情がドミトリィを支配していた。あるいはお前は、お前を忘れた。お前はお前では無く、ドミトリィ、偽りの名前に支配されつつあった。
妻よりも深く彼女を愛し、少女も「私の騎士様」と囁きながら彼を抱きしめた。
確かにお前は古い騎士階級の血を引く。所属する結社自体がそうした背景を持つ。だが、どうして彼女がそれを見抜いたのか、あるいは他の誰にもそう呼びかけているのか、ドミトリィは敢えて考えなかった。
「ああ……私の、私の騎士様、あなたの本当のお名前はなんというのですか」
「さしたる人間じゃない、数多いる悪党の一人だ」
「私が今日、いよいよ……誰が私を死なせるかの取引に出されると知っていて、それでわざと、こんな無茶な支払いをして、邪魔をして、買って下さったのでしょう? 私とて無知ではないのです。それぐらいは察しが付きます……」
娘は外観からは想像もつかないほど落ち着いた物言いをした。表情は心臓が戦慄く程に儚げで、汚濁の底にあって尚、視線には透き通る翠の清廉が宿っている。それがますますドミトリィの胸の高鳴りを強くする。
「そんなことになっていたのか。知らないな」
知っていた。ドミトリィはとにかく彼女に関心を払っていた。地下街の連中は、あの女はひと味違う、天使だ、などと口々に語っていた。しかも傷や痛みを癒やしてくれるのだと。
そうまで人を魅了するのは聖句の力だと分かっていれば納得もあろうが、普通なら取るに足らない噂だと一笑に付すべきところだろう。ここでもそうなるべきだった。この地獄に似つかわしくない見目麗しい少女が、花の香りがするような美しい声音で囁くのだ、気分が良くなることもあるだろう。
しかし、汚濁の街で静やかに咲く花はいっそ不吉であり、泥濘で藻掻く人々に、いらぬ妄念をもたらすものだ。致命的な病すら蔓延するこの地下街で、自由の利かぬ身にされ、おぞましい扱いを受けている。しかし軽度の病すら彼女には無い。髪色は艶やかで、洋灯の照らす薄暗闇で金糸のように輝き、ろくに手入れもされていない肌は、象牙の滑らかさを保ち、清潔で良い匂いのする汗に包まれて芳しい。
通常ならとうに正気を失う環境だ。だというのに、その立ち振る舞いの細かなところには、まだ生まれの清らかさが残っている。打ちのめされていながら、光輝さえ感じさせる、不可思議な清潔さを帯びていたのだ。
だからこそ救われぬ者どもは、執着する。どうして彼女だけが苦難を免れているのか? 焦がれは怒りを招き、彼女を妬み、彼女を傷つけ、彼女を愛し、いっそう彼女を痛めつける。それでいて、怒りはさらなる怒りを呼び、残虐なる好奇心を呼び覚まし、ついには人間性の最後の部分までを、この地下の暗闇で暴こうとする。
この天使はどうすれば死ぬのか?
痛めつけて殺すとき、どんな顔で、どんな声で啼くのか……?
ドミトリィは全て承知の上で首を振る。
「たまたまそんな気分だったんだ……大したことはしていない。騎士様。騎士様か。騎士様はやめてくれ。今日だって、家が一軒建つような金を払って、女の子を侍らせて喜んでる。こんなやつは騎士じゃ無い」
お前は呟く。言葉なくして呟いている。秩序のためにと題目を唱えながら、見も知らぬ将校の家に忍び込み、その妻と子らを惨殺したあと、リビングでラジオを聞きながら、家主の帰りを待ち、そいつを拷問して、やはり殺す……まことの騎士ならば、そんなことはしない。あるいは神命を掲げて狂気に身を任せるその有様だけは騎士じみているか。十字軍の騎士、救世の騎士……しかし何を助けた?
領民を思い出せ! 家族を思い出せ! しかしドミトリィに妻は無く、子は無く……。
穢された花嫁だけが腕の中に……。
「あの騎士は、ドミトリィ様なのでしょう……? 昨晩、私を助けて下さったのは……」
「助けた……?」ドミトリィは首を傾げた。「何の話だ?」
「ふふ。知らないふりをするのね。いいのです。分かっていますから……」
少女は幸福そうに笑った。偽りの男に愛されて、少女は幸せだ。幸福そうに笑っていた……。
だから、曖昧に聞き流す。
実際のところ、ドミトリィには、少女が何の話をしているか、まるで分からない。
あの騎士? 昨晩? 何の話だ……?
昨晩と言えば、結社の連絡員と、名前も無い、数多くいるうちの一人と、地上で、外国人旅行者向けのホテルで、食事をしていた。商談に見せかけて調査報告の書類を渡して……そしてそのホテルの一室で眠った。昏々と眠って朝を迎えた。一人きりで……。
昏い朝、眠る前と違うところは何一つ無かった。
待て、そう言えば、とお前は考える。
夜半、部屋の片隅に、得体の知れぬ影を見たような覚えがある。
青く燃える炎のような……だがそれだけだ。
おそらくはただの夢で、いずれにせよ、少女の言い様とは繋がらない。
「……しかし俺は騎士ではない。見ろよ、そんな大層な人間じゃあない」
「騎士様ですよ。神すら目を背けるこの穴蔵で、汚辱と荒廃の市で、間違いなく私を救って下さったのですから。あなただけが、他の方々と違います。ええ、ええ、ここは本当に酷いところです。地獄と重なる場所なのでしょう。煉獄に向かうこと無く落ちて行く魂を、まっすぐ地獄へ送るための、火と硫黄の街なのでしょう。そして私もそのようにして、地獄へ落ちるべしと招かれた一人なのです。いつかは誰かが助けに来てくれると信じていましたが、お父様もお母様も、お兄様たちも……どうやら私を見捨てたようです」
安心させたくて、ドミトリィは囁く……。
「どうかな。誰も見捨てたりはしないだろう」
「いいえ。二年か、三年か。もっと長くか。はっきりとは分かりません。でも、見捨てたのでなければ、こんな場所に、我が娘を置いておくものでしょうか」
呟く少女の両目は昏く輝いている。
「価値があると言うのならば……何としても取り返すはず。でも、所詮は妾の娘ですもの、どうなっても構わないのでしょうね。でも、ふふ、騎士様、幸せなのです。騎士様は一度は、あるいは二度か、三度か……命を助けてくださいました。あれは全てドミトリィ様なのでしょう……?」
娘はしなだれかかり、胸に縋る。
「そうして、私を優しく愛して下さる。情けを掛けてくださる。あなたは何もかもが……誰よりも……優しいのです。私は真実、この世に愛があると、私を愛して下さる方がいると知りました。そして私の運命は、これで終わりなのだと言うことも。どれほど血に濡れても、誰も私を連れ出すことは出来ないのだと……。怨みはしません、騎士様、本当に嬉しいのです。きっと私はここで汚れ果てて正気を失い、最後は壊されて死ぬのでしょう。けれど、あなたの愛さえあれば、耐えられる気がするのです。だからどうか、愛して下さいませんか、騎士様。人生の最後に、あなたの夢が見られるように」
愛を囁かれながら、命を助けたというのが何の話か、お前には、ドミトリィには分からない。
少女のための幾つかの工作はしてきた。しかしあからさまに誰かを殺すような真似はしていない。少なくとも少女にそれと分かるような形では。
他にエージェントがいるのか? お前は訝る。あるいは他の組織の人間が?
ならば今まで何の接触も無いのはどういうことか。
協調も排除もない対立者など、存在するはずがない。
いや、いた方が良い。お前は思い直す。彼女を救える存在かも知れない。
身分は知れぬ、得体も知れぬ。
しかし、希望は幾つかあった方が良い……。
「どうしても、君は死ぬのか? 君の瞳は透き通っていて、そこには暗い未来なんか映っていない」
ドミトリィはお前が妻にするように少女に囁く。
「ふふ。私の目玉を抉り取って、薬に浸けて、コレクションにしたいという人がいるの……」
有り得るだろう。彼女の瞳にはそれほどの価値がある。彼女の生首と合わせれば、好事家がいくらでも金を積むだろう。
「悲観しちゃいけない。君を助けたいという人がいるのは事実なんだろう?」
「死にます。きっと死にます。だって、みんな私を死なせたいの! 誰も彼もそうなんだわ!」少女は感情を爆発させた。「死なせるつもりでなければ、刃を持った連中に、私を引き渡しません! 酷いことをされて、首を刎ねられる! 昨夜とて、その寸前まで行っていたのですから……」
「君のような清く美しい娘をか?」
「ふふ……ありがとうございます、騎士様。でも、私がめちゃくちゃに殺されると、喜ぶ人がいるらしいのです」
「俺ならそんなふうにはしないな」
「ではどうします? 私を、助けて下さるのですか? 心から、この体を、魂を、求めて下さるのですか……?」
途端、少女は心中した一家が首を吊る寸前に浮かべるような微笑みを形作る。淀みの渦巻く甘い声が脳髄をくすぐる……。
「囚われて、犬の首輪を嵌められて……もう魂に純なる部分など残されていないでしょう。見てください、この脚を。自分の力ではもう歩くことも出来ない……土の感触だって、二度と分からないでしょう。まさしく命の根まで、無法者のほしいがままにされているのです。何一つ自由にならないのです……騎士様が、この私を、生身のまま求め、助けて下さるのだとしても、それはもう、どれほどの大金を積んでも、叶わないことなのです。最後には、私は殺されます。だから、私を助けようとするのならば、敵に対して行うことを、私にもする、それしかありません……。ああ、騎士様、愛して下さいますか、欲して下さいますか。私を、このはしたない娘を、姿無き、汚れ無き身に変えて、お傍においてくださいませんか……他の誰かでなく、貴方様の手で死にたいのです。私を、殺して、貴方様の思い出に、留めて下さいませんか」
敵に対してしたこと? 殺す? ドミトリィにはやはり、何の話か分からない。だが聖句に揺さぶられたお前の脳髄は、殆ど譫言のような妄想を紡いでいる……姿の見えぬ対立者への嫉妬か、生に絶望した少女への慰めか。
脳裏にちらつくのは目に焼き付いたある女の影だ。
美しい女だ。お前の腕の中に居る、金色の髪少女からひとときでも意識が逸れてしまうような……。
そいつは、妻ではない。妹でも姉でもない。結社の頂点に君臨する、あの聖句遣い……忌まわしくも彼女に吹き込まれた聖句が、組織に忠誠を誓うための『言葉』が、少女からドミトリィの意識を守っている。
「そうだろうか」
ドミトリィは朦朧としながら、言葉を紡いだ。髪から、芳醇な甘い香りを嗅ぐ。妻のような……。いや、お前に妻は無く、子は無く……。言い聞かせる。これも任務だ、これも任務だ……。舌先で言葉を紡ぐ。
「花嫁衣装の君は、きっと綺麗だろう」
「……残酷な、夢を見せようと、しているのね」少女は涙を堪えて途切れ途切れに呟く。「あなたも、そうやって、悲嘆を招くの。絶望させて……嘲笑うの」
「そうはならない」
何故かお前はもう確信している。
ドミトリィ! お前は確信している自分に、まだ気付かない。
自分を騙している。気付かないふりをしている。
間違った道を選ぼうとしている、そのために理性は不要だ。
少女は懇願した。
「お願いよ、お願い! 下手な嘘はつかないで……ああ……あなたと一緒に居るのは、不思議と嫌いじゃないの。本当に愛しいとさえ思ってしまう。ただの客なのに、ふふ、最低の男なのに……可笑しい話よね、こんな女が、誰かのことが愛しいだなんて、ああ、だからこそ……どうか、どうか余計な希望を持たせないでください。お願い、お願い……最後だけでも、良い夢を、見せて……ああ、私の騎士様……」
哀願する少女にドミトリィは囁いた。
「大丈夫だ。迎えが来るんだ」
「そんなもの……誰に来るのです」
「君に」
「信じられません……」
「信じなくてもいい。それは必ず来る」
少女は翡翠色の目で男を見つめた。
「……名前も名乗らない人を信じることなんて……」
「ドミトリィ」男は少女を真っ直ぐに見つめた。「私の名前はドミトリィだ。もうすぐ迎えが来る。信じて、待っていてくれ」
ドミトリィはそれから、ありとあらゆる工作を行った。
しくじれば、これまでの自分のキャリアが土台から崩壊する。
下手をすれば局所的に国際的な秩序が破綻を迎える、それほどのリスクを冒して、人間を動かした。
偽の緊急通信を局の幹部に送り、不死病患者に関する偽りの報告書を実働部隊に送り、偽りのテロ計画を国軍に送り……。
そして地下街を焼いた。数百か、数千人を、彼女と引き換えにして、殺した。
彼らは少なからず、罪人ではある。
死すべき者もいただろう。
だが死ぬほどの罪状を持たぬ無辜の貧民を、地獄の坩堝で藻掻く憐れな民草を、無慈悲に殺した……。
そして花嫁をすら、裏切った。
ドミトリィでない真の名前を教えることなく、少女を結社に引き渡したのだ。
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