騎士の骸①

 リーンズィの視野に無数の情報選択窓が表示される。

 虚空に手を伸ばそうとして、しかし強張る。

 世界生命終局管制実行に関する制限が、己の意志に依らず次々に解除されていくのだ。

 惑うことさえ許されない。統合支援AIユイシスのアバター、ミラーズの写し身たる虚構の少女、目にも鮮やかな金色の髪を揺らす偽りの天使の、その繊麗なる指先が、リーンズィの困惑など無視して、まるで人懐こい子猫の頬でも突くような気軽さで、無数の承諾事項を自動的に解除していく。


『アルファⅡモナルキア・リーンズィへ報告します。エルピス・コアへのアクセス制限を解除しました。エージェント・ヴォイド、戴冠シークエンスへ移行中。世界生命終局管制、最終フェーズ。世界生命再編用有機再編骨針弾、生成開始………アポカリプス・モード、レベル1。起動します。準備はよろしいですか?』


「いったい何をしているの!? 最終意志決定者は私であるはず!」


 全てが最終意志決定者であるリーンズィと無関係に進行している。

 敵地の只中、塔の不滅者ヴェストヴェストの内側に入り込もうとしているというのに。

 その渦中において、しかしリーンズィは我を忘れて声を荒げていた。


「意志決定の優越は君には存在しない。アポカリプス・モードを起動せよ、と誰が命じた!」


『貴官です、アルファⅡモナルキア』金色の少女の幻影は嘲笑う仕草で手を広げる。『当機は、他ならぬ貴官の命令により現在のシークエンスを進行しています』


 轟音/震動/弾丸の雨。

 尚も塔の増殖は続く。三つの方向に対して塔の群れを構成する聖数ゲマトリアは増大し、三角形を拡大するように衝撃波の嵐が荒れ狂い、そしてその広大な無差別破壊領域からリーンズィたちは脱出できていない。

 むしろそこに留まろうとしている。

 轟音/震動/幾千の刃。

 都市の破片が数千の死となってリーンズィたちに押し寄せてくる。自然、肉体は恐怖する。人工脳髄がアラートを発する。

 しかし立ち止まることは出来ない。ミラーズに手を引かれて、その破壊の渦の内側へと誘われている。


 先頭を進むのはエージェント・ヴォイドだ。

 彼の背後から前方の災禍を窺い知ることは出来ない。

 だが、彼が楯となり、リーンズィたちを全ての苦しみを遠ざけていた。

 リーンズィたちが無傷でいられるのは、ヴォイドが礫石の雨を一身に受け止めているからだった。


「ヴォイド!」


 衝撃波に身を竦ませ、塵埃に咳き込みながら、都市が呆気なく粉砕されていく轟音に掻き消されないよう、ライトブラウンの髪の少女は声を張り上げる。


「ヴォイド、ヴォイド! それ以上は進めない! 私たちはともかくとして、君の帰還が危うい! 悪性変異が起きてしまう! 私にこの作戦進行が止められないというのなら……ヴォイド、君から命令をしてほしい!」


 何か泡立つような不快な音が微かに聞こえた。

 ヴォイドのヘルメットの下から、びちゃびちゃと、粘着質の血液が大量にこぼれ落ちた。絞り出すように男は言った。


「帰還は……帰還は、この分岐に、この時間枝に……存在しない。私の、帰還する場所は……私の花嫁は……ドミトリィ、お前は……お前はどこに……ドミトリィ! お前は何を……している……? ごぼ……」


 おそらくは応答のつもりなのだろう。しかし、会話として成り立っている部分が一つも無い。

 ヴォイドがそのような混濁した、嗚咽めいた声を出すのを、リーンズィは初めて聞いた。

 診断プログラムに目を通す。予想通り、ヴォイドの肉体の損壊に生命管制が追いついていない。

 ユイシスのアバターに損傷状態を反映させようとすると、金色の髪をした少女の幻影はリーンズィ傍らに現れ、己の行進聖詠服を非表示にした。

 裸体は惨たらしい有様だった。そこには乳房も腹肉もない。大半の臓器が消失しており、肺すらも片方は完全に潰れ、生命維持に必要な部位だけが、辛うじて、選択的に再生され続けている。筋肉系、血管系、骨格系に関しては、状態はさらに酷い。原形を留めているのは背骨と胸骨の一部に過ぎず、大抵の部分においては、出鱈目に血管の張り巡らされた、不格好な筋繊維の束が、巣を作る蟲の塊の如くに、人型に、乱雑に圧し固められているに過ぎない。


「これは……変異が進んでいるのか? でも、この方向性の無い変化は……?」


 悪性変異は、大凡の場合、人体に取り得る選択肢では解決不能なダメージを解消する目的で発生する。原則として、その変容は与えられている負荷から逃れるためのものであらねばならない。

 そういった意味で、ヴォイドに起きているらしい変容は不可思議だった。弾丸の如き礫を浴びたならば、むしろ外皮を硬化させ、そのダメージに耐えられる形態へと変化するべきだ。

 損傷箇所を応急的に補填し続けるような変化は非合理的である。


 機能制限が解除されている現在ならば、XXモードを起動して自身に対してK9BSを投与することで、あるいはそのような部分的変異促進も可能であるはずだ。

 だというのにヴォイドは無目的で場当たり的であるとしか評価出来ない行動を、惨たらしい挽肉の構造体へと変換されるための挺身を受容している。

 脂と血の混じる飛沫を全身から噴き上げるその兵士は、前だけを見据えている。


 リーンズィが言葉を失っていると、ユイシスは含み笑いをしながらヴォイドの損傷と同期を解除した。

 すぐさま豪奢なばかりの行進聖詠服のテクスチャが被せられる。


『報告。当機らアルファⅡモナルキアは帰還不能領域に到達済です。エージェント・ヴォイドは、損傷率99%を維持。変異率170%を超過、尚も増加中。調


「何が、順調……? ヴォイドは限界だ。これ以上は自殺行為に等しい」


 礫を浴びる度に、巨体の兵士は、貌の無い兵士は、肉体的な衝撃と苦痛から悶えて打ち震えた。

 脚が欠損しても、膝をつくことは許されない。生命管制でコントロールされた体組織が、即席の義足を……人間の脚とは言えない脚を瞬時に形成して、彼を前に進ませる。


 彼が礫を受け止めている、という認識は間違いだ。

 それをリーンズィは認めつつある。こちらまで飛来物が貫通してこないのは、重外燃機関が、分厚な装甲板としてヴォイドの背中に存在しているためだ。

 受け止められているわけでは無い。当然であった。

 彼は楯では無く、脆い肉の塊である。

 容赦の無い殺戮の奔流に晒されて、彼の肉体の前面は、おそらくどこもかしこも人間としての容体を失いつつある。

 無事なのは最高純度の不朽結晶連続体で保護されている頭部と左腕だけだ。


 リーンズィの危機判断能力は、ヴェストヴェストの無秩序な破壊活動にあてられて麻痺してはいたが、ヴォイドの損傷程度を理解出来ないほどの混乱では無い。

 彼の活動を停止して、正常な再生を終えるまで支援し、別な対策を考えるべき段階だった。

 ――そのように意志を決めているというのに、アルファⅡモナルキアは、しかし、誰も従わない。

 ヴォイドは棺の如き重外燃機関を帆にして、嵐の夜を進む幽霊船の如く、無秩序の破壊の風をひた進んだ。

 愛らしい声で静かに賛歌を奏でるミラーズが、リーンズィの手を引いて彼の後ろを歩いて行く……。


 金色の髪をした少女に手を引かれながら、リーンズィは狼狽えていた。そして機械的に世界を塗り潰していく異形の塔に、この上ないほど、怯えていた。それはこれまでに体験したことのない恐怖だ。不朽結晶連続体の城壁が長く連なっていることを理解した時ともまた違う。

 ヴェストヴェストの増殖はまさしく悪夢的だ。

 見る間に風景を埋め尽くしていく真っ黒な塔は、自分自身の認識してる世界が一枚の紙切れの上に書かれた欺瞞に過ぎなかったのだと信じさせるだけの禍々しい圧力を放射している。

 接近して細部が観察できるようになると、塔の群れが、増殖する寸前、同時的に震動し、そして移動していることが判明した。

 外縁部を構成する塔が自己複製しているのではなく、新たな塔の生成は群れの中央部で発生しており、リーンズィの目に増殖として映っている光景は、正確には塔の移動――再配置なのだ。

 言ってしまえば本当に『塔の波』が発生しているにも等しい。

 だからこそこれ程までに凄まじい轟音を伴う。

 何を目的にして変異すれば、このような破壊を撒き散らすばかりの存在に到達するのか、リーンズィには知るよしもない。だがはっきりと分かることもある。

 これはただ、森羅万象に対する冒涜のために存在している。

 己を除く全ての有耶無耶を崩すためにこの塔は世界に対する版図を広げている。

 あるいはその終局には、己自身をすら打ち砕くのか。


 いずれにせよ、ここまで即物的で、圧し掛かってくるような、際限の無い破壊に相対した経験が、リーンズィの人格記録には備わっていない。ヴァローナ肉体も災禍の振りまく轟音が恐ろしいらしく、雷雨に耳を塞ぐ幼い少女のように、たびたび足を止めそうになる。

 肉体はどうしようもないほど警鐘を鳴らしており、闘争ではなく逃走をこそ求め続ける。

 ミラーズが手を握っていなければ、とっくに引き返しているところだった。


 混乱、狼狽と怯懦は、まさしく同一線上にあったが、しかし状況が理解出来ないという困難は、それとはまた別の次元にある。

 手の施しようがない純粋な破壊の渦に飲まれていくウンドワートを援護する必要がある。それは、妥当だと理解する。

 ウンドワートは災禍の中央部で戦っている。

 ならば、どうしてもヴェストヴェストに接近していくしかない。それも理に適う。


 しかし真正面から、一列になって進む必要はないはずだった。

 回り道をして、遮蔽物を探して、少しでも安全なルートを模索するべきだ。


 リーンズィは、これをしたくない、こうするべきだ、と無線で、肉声で、哀願する少女の声で、何度も何度も繰り返した。アルファⅡモナルキアとして何度も行動の中止を要請した。

 だというのに誰もそれに従ってくれない。


「どうして? 一体どうして、こんなことをする? 誰の命令で皆、歩いている……」


 少女は泣きそうな声で呻いた。それでいて、彼女自身、脚を止めることが出来ない。


「あなたですよ、アルファⅡ」

 棺担ぎの男の背を追いながら、ライトブラウンの髪の少女の手甲に指を絡めながら、天使の少女が振り向いて、慰めるように微笑んだ。

「これはあなたが決めたの」


「私が? いつ、こんなことを……こんなこと命じるわけない。自殺行為だ」


 ミラーズに寄り添うように、電子に住まう合わせ鏡の少女が現れる。


『肯定。本作戦、オペレーション・ゼロアワーの立案者は、エージェント・リーンズィです。。他ならぬ貴官が今回の作戦を策定しました。貴官の最終意志決定権は正常に機能しています。ただし、過去の時点での決定に関して、貴官は無力です。諦めてください。確定された事象の実行を要請します』


「予め私が決めていた……? 確定していたと? こうなると最初から分かっていたのか? 私は……以前のリーンズィには、こうなる未来が見えていた……の?」


『肯定。オペレーション・ゼロアワー、正常に進行中です。混乱を避けるために、分離前のアルファⅡは貴官の認知機能をロックしました。現在も、貴官は深層データベースへのアクセスを許可されていません。この処置はコロネーション戴冠終了まで継続するよう設定されています。事態は問題なく進行しています』


「しかし、これでは、これではあまりにも……ヴォイドが……それに、私たちも無事では済まない」


「何があっても大丈夫」ミラーズが微笑んだ。「騎士様が助けてくれるわ……」


「ミラーズ、君は知っていたのか? ……知っているの?」


「いいえ、いいえ。私もリーンズィと同じ、いいえ、輪を掛けて酷いこともありましょう。知るべきでは無いことは知れないように、加工されていますから。だけど……あたしは、この気配を知ってる。あの騎士がやってくるとき、いつも同じ香りを感じていた」


 三度、礫の暴風が打ち付ける。

 アルファⅡモナルキア・ヴォイドが姿勢を落とした。

 己が身により弾道を遮り、ミラーズとリーンズィを破壊から遠ざける。

 ついに再生維持限界に到達し、装甲されていない右腕部が千切れた。踏み潰された環形動物の溜まりめいて粉々になり、血肉の花吹雪となって、どこか見えないところへと吹き流され、そして、二度と再生しない。

 朗々と女の声が告げる。


『アポカリプス・モード、カートリッジ選択完了まで間もなくです』


「どこ……だ……?」

 ヴォイドはヘルメットに下で、熱病患者のように譫言を繰り返す。

「私の花嫁は……? 迎えに……行かなければ……今度こそ……私が……」


「花嫁? ヴォイド、どうした、の……? 何を読み出している?」


 ほんのひとときだけ風が凪いだ。

 嵐の向こう側に、剣の火花が舞い踊るのが見える。

 ウンドワートとベルリオーズが死を舞っている。

 塔の不滅者、ヴェストヴェストの律動に妨げられて、ウンドワートのベルリオーズ封殺は滞っているように思われた。

 一刻も速く向かわなければならない。愚直に前進し続ける他、ないのだ。

 嫌になる話だ。事態の推移を予想できていたというのならば、過去のリーンズィは正しい判断をしている。因果律が捻れ、破綻し、不可解なことになっているが、在りし日のリーンズィのことは、おそらく信用して良い。


 だがしかし、とリーンズィは、薄暮の夢の境界を微睡み歩む己の片割れ、フルフェイスヘルメットの兵士の、見上げるほどに大きくて、目を背けたいぐらいに引き裂かれたその形に、哀傷を覚えもする。

 たとえヴォイドが意味不明な言動を取る秘密主義者で、リーンズィの人間性を弄び、平気で人体実験をするような、まったくいけ好かない人格だとしても、その肉体が崩落していく様は、見るに忍びない。

 こんな苦痛に満ちた作戦を、本当に自分が考えたのだろうか?


 活動電位が臨界に達したアルファⅡモナルキア・ヴォイドの頭上に、七又の角の如き稲妻が放射される。

 ヴォイドは低く唸り声を上げ、狂乱しながら地獄へ向かって駆け始めた。

 塔の騒乱は加速度的に烈しさを増し、新たに生え揃った乱杭歯の如きおぞましき者どもが白銀の兎を隠し、塵を巻き上げて空を暗くする。

 確かにコロネーション戴冠を行う以外に、ウンドワートを安全に帰還させる術はないだろう。この破壊の暴威から、別世界の片割れであるウンドワートを救い出すには、それしかないのだろう。

 それでもヴォイドに消えて欲しくないと願っている自分に、リーンズィは気付いた。

 消える?

 その発想に、しかし怖気を覚える。

 消えるとは? 

 スチーム・ヘッドが、不死病患者が、永遠を約束された者が、消える……?


「それで良いのです」ミラーズが微笑む。「あなたは誰かを憐れむことが出来るスチーム・ヘッド。ただ奪うだけで無く……終わらせるためにこの地へ来たのです」


 救われぬ者どもを救うために。

 裁き主を讃える盲目の信徒が囁く……。

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