石の代わりに煉瓦を②
『総員退避!! オーバードライブ解除! 狼煙を上げろ、閃光弾を打ち上げろ! ここから先、オーバードライブは死を早めるぞ!』
ケルゲレンが叫ぶと、一同は遅滞なくオーバードライブを解除した。
リーンズィもわけが分からいなりに続く。
ミラーズ共々、それまでの超高速機動の反動を受けて吐血、下血、関節の破砕を味わい、膝をつくが、生命管制だけは最高レベルで稼動したままだ。
二人は身を寄せ合い、互いを己の杖として、どうにか立ち直った。リーンズィの不安を和らげようとしたのか、ミラーズがリーンズィを熱く抱擁した。
全てのスチーム・ヘッドがオーバードライブ解除の反動に耐えた。ケットシーは何だかよく分からない顔をしていたがその一瞬の隙を突かれてウンドワートに掴まり、巴の要領で後陣まで投げ飛ばされた。
受け身を取りながら周囲にあわせて速度を落した。
いかにも生命管制特化機らしく、内臓が急速に損壊した兆候は見られない。
ウンドワートだけはオーバードライブを解除しない。
肉体に頼らない機械たちの時間、不滅者の這入り込む余地のない絶対の加速度でもって、ベルリオーズを殺し続ける。
だが殺しきるには間に合わなかった。
少女は高く猫を掲げる。
「わがしもべ、ヴェストヴェスト。安らかな猫の眠りからあなたを解き放つことをどうか赦して下さい。今、この地はまやかしの信仰で、昏く、湿っています。猫の安らぎは人の安らぎ。その安らぎがひとつ、偽りの神、偽りの偶像、偽りの信仰、血と暴力の影に、昏く沈もうとしています。その咎は濯がれなければなりません。ハレルヤハ、人の世に魂の安らぎがありますように。猫たちの国に久遠の安らぎがありますように……言詞抜錨。
手放された斑の猫はすとん、と地面に見事に着地した。
それから泡のように弾けた。
斑の染みがアスファルトに染み入る。
言葉による錨を取り払われた、その厚みのない色つきの水溜まりから、一つの影法師が立ち上がる。
それは空間に投じられた立体の影であり、立ち尽くして、沈黙している。
「
契約が成された。猫の姿は未踏の不可知領域へと吸い込まれていき、猫の夢見る騎士が、現実に立ち現れる。表裏の逆転。夢見の交代。猫は夢を見る。
永劫に連なる高い塔の夢を。
そこに立っていたのは、何の変哲も無い、ただ狂気の淵に立っているだけのスチーム・ヘッドだった。頭部の人工脳髄は拘束具じみており、無数の歯車仕掛けが苛むようにギリギリと音を立てている。小汚いローブで裸体を包み、修道士のようにも見えたが、いかにも無力で、痛ましい姿。拷問を受けている最中の背教者めいている。
いずれにせよ、何ら人に害を為す存在とは思えない。
「ここからは……ゲホゲホッ!」血を呼吸器から排出しながらケルゲレンが叫んだ。「オーバードライブを使用してはならんぞ!」
「うううううううっるるるるるるるるるるる!! やあああああああああああああああはああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
男は不意に絶叫した。リーンズィはびくりとした。肉声に近い情報を強制的に人工脳髄に叩き込まれたためだ。
「石ぃの代わりに……煉瓦をおおおお……粘土の代わりにぃ……瀝青をおおおおおお!!! 我が不死、我が祈り、我が生涯を捧げ、天命を世に知らしめさん! おお、おお、見よ!」
茨の冠の如き有刺鉄線に締め付けられ、男の頭部からはだくだくと血が漏れ出している。空気に触れれば瞬く間に蒸発し、霞の如くその陰を飾る。
狂気なる信仰を。しわがれた声が天を突かんばかりに鳴り響く……。
「おお、見よ、瞼ある者は空を見よ、脚ある者は跪け! 時は来た、復活の時代は来た! 神は天にしろしめし……しかして、その姿を現さず! なにゆえか人は問う、我は答えよう、なお神は慈悲深く、我らが罪を身過ごしてくださる……なれど我らは神の光をこそ求める! 罰による禊ぎをこそ神に求める! 我が身をこそ捧げよう、石の代わりに煉瓦を、粘土の代わりに
異様な迫力に圧倒されている諸々の目前で、その不滅者は血を吐いて蹲った。
そして全身から無数の杭、無数の結晶、無数の凶器を噴出させた。
それらは共食いするように噛み合い組み合わさり、見る間に一つの巨大な影を作り、高く空に聳えた。
それは、塔だ。
光沢のない黒い表面。言ってしまえば、酷くのっぺりとした墓標、飾り気のない慰霊塔といった風情で、集合住宅の廃屋群よりも遙かに高い。
手足でも何百本か生やしてそれで襲ってくるのかと恐れたが、特に何も起こらない。
リーンズィは呆気に取られた。
「……これが第二の戒め? たった、これだけ」
見上げるばかりに巨大だ。
一人の不死病患者が瞬間的に変異したにしては恐るべきサイズではある。
しかし、それ以上のことが起こらない。
「気をつけろ、リーンズィ。こいつはある意味ベルリオーズよりも手に負えない」
イーゴがリーンズィの肩を引いた。
「近寄るな。ゆっくりと、しかし可能な限り高速で、オーバードライブを使わず退避するんだ」
「何が起こる?」
塔が、世界が滅ぶ夜に鳴り響く喇叭のような甲高い音を鳴らした。
アルァⅡモナルキアたちは一目散に後退していくスチーム・ヘッドたちの後を追いつつも、何度も振り返る。
逃げ遅れの介助に慣れているらしいイーゴが、アルファⅡモナルキアをそれとなく誘導していくが、リーンズィにはどうしても不可解だった。
「あれはさほど恐ろしいものとは思えない。超音波振動で全てを壊すとか?」
「いや、そんなに生やさしくはない。今はまだ安全だ、しかしあいつは……」
突如として爆音が轟いた。
地鳴りに似ていた。
否、事実として、大地が轟いたのだ。
一瞬の出来事だった。
都市の一角を構成する建造物群が飴細工のように弾け飛び、方々へと破片を撒き散らした。
沈黙していたヴォイドが、リーンズィとミラーズを引き寄せて抱えて、庇った。
飛来した数えきれぬ礫が、殺人的な質量と速度を伴ってヴォイドの背中を打ち付ける。
「何事だ!?」リーンズィはヴォイドの胸の中で叫んだ。「何事なの!?」
「ヴェストヴェスト、あいつは攻撃してこない」
両腕で礫の雨を防御したイーゴの、そのズタズタの体から繊維質に触手が伸び、皮膚と肉を編んでいく。
「移動することも、誰かを追うこともしない。だが……」
リーンズィはヴォイドの腕の中から顔を出して、自分の視覚の異常を疑った。
――塔が、三本ある。
ヴェストヴェストが変じた塔が、刹那の間に、三倍に増加している。
さきほどの地鳴りと破壊は、塔が分裂したことによる衝撃波だったのか。そう分析している間にも塔はそれぞれが三倍に増え、同時に雷鳴の如き轟音と爆風が巻き起こった。
リーンズィは吹き荒ぶ土埃の中、ヴァローナの瞳でその実像を透かして見た。
それぞれ、きっかり3mの距離を維持しながら、その塔は増殖していた。
その勢いで周囲の建造物を巻き込み、粉々に爆砕した。
六秒前まで三本しかなかったその黒い不滅の塔は、九秒を経た今、二十七本もの異形の塔となって、視界一面を更地にして、尚高く聳え、埋め尽くし、陽の射すところを遮っている……。
イーゴが言う。「そうだ。これが第二の戒め、ヴェストヴェストだ」
リーンズィはヴェストヴェストの本質を理解して、眩暈に襲われた。
この不滅者は、三秒ごとに瞬間的に三倍に増殖し……。
周囲にある一切合切を、全て砕き尽して、空白の土地へと貶めるわけだ。
言わば具現化された天災だ。
地を這う塔の津波と諫言しても差し支えない。しかも、どのような攻撃も通じないだろうという、非言語的な確信がある。
どのような弾丸ならば自然災害を貫けるというのか? こうして眺めている間にも、さらに三倍された塔の群れが押し寄せてくる。
速度はどれほどだろう? 音速という領域にすらない。弾丸よりも速く分裂した塔は最初からそうであったとでも言うように三mの距離を浸食し、進路上のありとあらゆるものを磨り潰す。
その狭間に煌めく閃光がある。
兎の騎士、クヌーズオーエ解放軍の最大戦力――アルファⅡウンドワートだ。
ここを死地と定めたのか、ベルリオーズを殺し続けている。
何故か、という問いは、ヴェストヴェストが増殖していく環境でベルリオーズが解き放たれた状態を想定することで、総毛立つ感覚と共に解決された。
ヴェストヴェストとベルリオーズの組み合わせをケルゲレンたちが警戒していたのも当然だ。
ベルリオーズを放置していれば、無限に三倍に増え続ける塔が全てを蹂躙し。
その狭間を縫うようにして、全身に刃を取り付けた異形の狼が駆け抜けてくるのだ……。
そうなればもはや誰一人としてこの死地から還ることは能わなくなる。
ウンドワートのデイドリーム・ハントは強力だ。
おそらくヴェストヴェストの増殖に伴う衝撃波を上手くいなしながら戦うことが出来るだろう。
しかし、誰も永久に戦い続けることは出来ない。
雷鳴轟く嵐の中で、抗い続けることなど……。
「ウンドワート!」リーンズィは悲鳴を上げていた。「逃げるんだ! そこにいては君も……!」
だが声は届かない。電波は虚空へ消えていく。
まだケットシーの支援機によるジャミングが有効なのだ。
どうにかしなければ。しかし救出の手段が何も思いつかない。どうしようもない。ウンドワートを見捨てるしか……。
絶望を裂くようにして、その声は耳朶を打った。
『アポカリプスモードレベル1、レディ』
金色の髪をした天使の幻影が、逆さまに宙に浮くミラーズの幻影が、嘲笑うような、慈しむような、曰く言い難い笑みで、リーンズィの頬に手を伸ばす。
物理演算された指先の感触が、優しくその頬を撫でた。
『準備はよろしいですか?』
雨は夕方に幾分か小降りになった。
カーテンを開けたまま、お前は落ち窪んだ目で空を見ている。仄暗い雲は陽光を孕んで、血を孕んで、戦の火を孕んで、赫赫と色づいている……粘つくような湿り気を帯びてた空気は似ている、地下街に似ている……貧困と悪徳、憎悪と猥雑の穴蔵に似ている……。
マットレスの上で呆としているのも苦痛だった。お前は家人に何も告げぬまま、レインコートを羽織り長靴を履いて街へ向かった。
気晴らしのつもりだった/嘘だ/お前は嘘を吐いている。
屋敷の中にない影を外に探す口実だ……。
目を伏せ、顔を伏せ、名前を伏せ、長靴を水溜まりに、お前の顔を映さない昏い淵に浸す。歩く、歩く、歩く……人の疎らな往来、霞に燐光を、降りては来ぬ神の背負う後光の如き、無機質な電気灯の連なる商店の軒先を、お前の治める街を、やがて病に沈む街を眺めて回る真似をして、お前の顔に気付いた住民に愛想よく挨拶をし、傷病者に声を掛けてやり、お前は統治者の真似をして、雨に煙る街路樹を眺め、街の治水の概要を居合わせた老婆に尋ね、名を明かさずともお前が誰かを見抜く馴染みの靴屋で新しい革靴を、ブカレストの地下街ですっかり傷めてしまった足に合う靴を注文し、お前は慕われる名士の真似をして、しかしそのくせ、心は街になく……。
甘い声が脳裏に響く。「騎士様……」お前の脳髄に刻み込まれた声が……。「ドミトリィ様……」
お前は少女の姿を探している……。
ドミトリィが彼女と出会ったのはブカレストの地下街だった。ドミトリィは結社の任務を、意義のある仕事とは思えぬような、ただ過酷なだけの任務を受けて、下卑た暮らしに興味のある放蕩貴族を装って、諜報活動を行っていた。少女と、その金色の髪の少女と、最初の任務、ブカレストにて出現したと噂される不死病患者の捜索は、全く無関係だった。
事の起こりはこうだ。幾人かの斬殺死体が見つかった。よくあることだ。銃を持つ数人が背中から胸までを切り裂かれて……。さほど聞く話ではない。はらわたの大部分を掻き出された生き残りは「殺しても死なない。死んでいるからだ」「ドイツ人だ……」などと意味の分からぬことを言い残して、死んだそうだ。
異様である。治安の悪い都市でも、このような怪談は滅多に聞かない。確かに不死の気配はする。
しかし見せしめや報復のために、犠牲者を過度に痛めつけるのは、やはり、よくあることだ……。血を失い、熱を失い、魂を吐息と共に流し去るばかりの傷病者が、わけの分からない譫言を言うのも、よくあることだ……。
確認できなかった、という報告書を書くだけの任務のはずだった。エージェント・ドミトリィは地元の犯罪組織の幹部と話を付ける過程で女衒から娘を紹介され、大金を払って、彼女を買った。それだけの関係だ。それだけだというのに、ドミトリィは彼女を非常に気に入ってしまった。泥の中に咲いた花とは思えないほど美しく、優雅で、気品があった。それだから惹かれたのか。妻に似ていたから我を忘れたのか……。
三度も繰り返せば、そうではないことに気付く。
茹だるような空気の中、ドミトリィは少女の放つ言葉の節々に奇妙な音律の声が混じるのを、理性の働きによって発見していた。音律に一貫性は無く、伝えたい想いは理解出来るが、言語学的な意味や構造はおそらく無い。ドミトリィは、自分が少女とどの国の言葉で会話しているのか全く分からない。少女のほうもドミトリィがどの国の言葉を囁いているのか、判然としないまま、彼に身を任せていた。
お互いに何を話しているのか分からないまま、どういうわけか意思疎通が成立してしまう。多くの客は、自分が何を体感しているのか、少女から浴びせられているのか、理解せぬままだろう。
しかし、ドミトリィは同様の現象を既に知っていた。
命令言語、『原初の聖句』だ。
これは人間が言語を獲得する以前に使用されていた、何らかの器官に直接作用する特殊な音声を発する技能だ。聖句は人間の意識を書き換える。意識という単語が大仰であれば、思考の基盤を浸食すると換言しても良い。乗っ取るのだ。言語中枢で生成される自分自身の言葉と、原初の聖句とは、特別な素養が無い限り峻別不能だとされている。
結社で、世界秩序のための殿堂で、あの女と……いつでも、何をされているときでも微笑んでいる、あの得体の知れぬ、美しい死なずの女と話していれば、厭でもその特徴的な言葉が、意味など無いというのに、こちらの胸を無性に熱くするその韻律が、聞き取れるようになる……。
そして否が応でも慣れていく。意識を、言語を、自分自身を塗り潰されることに慣れていく。繰り返し施された自我への不埒な干渉が、あたかもワクチンのように、お前を少女の歌声から守っていた。
現地の拠点に帰っても少女への情愛、その高貴でありながらも退廃の気配を纏う美しい佇まいが瞼の裏に焼き付いて離れない。ドミトリィは、それでも冷静だった。自分がその少女に入れ込んでいるのが少なからず聖句の作用によるものだと自覚していた。
完全に心を奪い去られたわけではない。あの女の施した忌々しい条件付けを別にしても、エージェント・ドミトリィには聖句への耐性がある。お前と『ドミトリィ』の両方を支配されなければ、結社のために働くという行動原理までは曇らされない。そのはずだった。
――あの少女は、史上四番目となる原初の聖句の遣い手だ。
公的に確認されれば、の話ではある。
遣い手は何百、何千と存在するのではないかと考えられているが、実際どの程度存在するのかは不明だった。大抵の人間は己が持つ不可思議な力を自覚せぬまま一生を終えるのだと考えられている。
もしも結社が保護したならば、彼女は、数多いると推測される在野の聖句遣い……その確認された最初の一人になるだろう。
どうすれば結社は彼女を聖句の遣い手として認めるだろうか……?
お前はいつからかそればかり考えるようになった。
どうすれば彼女を救出するための言い訳を見つけられるだろう……?
お前は街を彷徨い歩く。そうしなければとても正気を保てない。
いや、お前はまだ正気なのか……? 応えるものはおらず、この街に花嫁はおらず、ドミトリィに花嫁はおらず……。お前は、ドミトリィは、自覚している。あの金色の髪をした少女の、永遠の乙女の、花嫁の幻を追っている!
買い物客に混じり、雑踏に立ち竦み、猫が歩くばかりの雑踏を覗き、ここにはいない、お前自身が手放した花嫁を、お前自身が手には負えないと断じた花嫁を探している……。車の絶えた間に、機械の心臓が止まっている間に車道を横切る、影の落ちる水鏡を飛び越える、水面に映る顔はお前ではない……ドミトリィ!
いるはずもない。どこにもいない、ドミトリィ!
お前の花嫁など、ここには……。
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