石の代わりに煉瓦を①
「ロングキャットグッドナイトだ」
アルファⅡモナルキア・ヴォイドが路地裏を指差した。
すぐそこにある凄絶な攻防になど、まるで関心が無いかのように。
「次の猫を連れている。ウンドワートを裁きに来る……ロングキャットグッドナイトが裁きに来る」
『ウンドワートを? 何故だ? ……何故?』
少女は高速無線でヴォイドの人工脳髄にアクセスして情報を参照する。
路地裏を見ようとすると大きく振り返る格好になるため、一瞥もしていないが、センサーの上ではロングキャットグッドナイトが現れる徴候は皆無だ。ここに来てウンドワートの名前が挙がる理由にも心当たりがない。
だが、ヴォイドからそれ以上の補足説明はない。
リーンズィは言い知れぬ冷たい動揺でもって、傍らに佇む己の母機、襤褸切れのような戦闘服に身を包むその男を見た。
盲目の神に仕える祭司のようでいて、暗黙の迫力を伴い、フルフェイスヘルメットの中、選択的光透過機能を備えた鈍色のバイザーの下で、二連二対の青白いレンズに何が映じているのか、リーンズィには分からない。
リーンズィとしては、あまり余所見をする気にはなれない。あちらこちらを飛び回りながら不完全なケルビムウェポンを振り回すケットシーがとにかく気がかりだ。業火の奔流が花弁の如くに燐光を散らす。この場に居る誰しもが一瞬の判断ミスで巻き込まれて焼却されかねない。
事実、アルファⅡモナルキアたちを除いては、ほぼ全てのスチーム・ヘッドが、相転移場が形成される度に回避の予備動作を行っている。
今のところ、最前衛を買って出たウンドワートが、絶妙のタイミングで電磁場干渉を行って打ち消し処理を行ってくれるおかげで、ケットシーの燃え盛る凶刃が解放軍側を巻き込むことはない。
誰もがウンドワートに全幅の信頼を寄せている様子だったが、神技に等しいその干渉が永遠に何度でも再現可能だとは信じきれていないようだ。当然ではある。
プラズマ焼却に巻き込まれては、スチーム・ヘッドだろうがスチーム・パペットだろうが内部の不死病患者が蒸発してしまう。良くて機能停止、最悪の場合はそのまま猫の戒め・ベルリオーズに人格記録媒体を破壊され、永久に再起動不可となる。クヌーズオーエにおける最高戦力が護りに回っているとは言え、状況はご安心・ご安全からはかけ離れている。
なるほど、ケットシーは確かに東アジア経済共同体最強のスチーム・ヘッドではあるのだろう。
だがそれは一人きりの強さだ。周りの被害を何も気にしない。一人きりでの戦闘を無限回数続けた結果の、独り善がりの無敵性なのだ。
いくら東アジア経済共同体が広大だったとは言え、ケットシーほど度を超したスチーム・ヘッドを何機も有していたとは思えない。
彼女はきっと一人きりで戦い続けて、こう成り果てた。
どうあれ、ベルリオーズからもケットシーからも、決して目を離してはならない。
だというのに、ヴォイドはあらぬ方向を指差して、不動である。
『そちらにロングキャットグッドナイトがいるというのなら君が対応してくれないか……してくれない? 私には布一枚の守りしかないし、あのプラズマ刃を受けたら終わりなのだけど……』
散々に酷使しているが、精々が同年代の少女よりは多少背丈があるだけ、というのが、ヴァローナの肉体の基本的な仕様だ。
聖歌隊の戦闘用スチーム・ヘッドとは言え、技術的問題から基本性能が低い上に生前に戦闘技能を修めていた様子も無い。死んで蘇ってからの修練が、一定の戦闘技能として一応肉体に刻まれているにせよ、戦闘用の本格的な外骨格も用意されていないような機体は、他の組織では戦闘用の機体としてはカウントされない。
永久に不滅であることを約束された聖詠服だけが頼みの綱で、その内側に秘められた肉体は酷く儚い。少なくとも、破壊しても何度でも即座に再出現するような出鱈目な存在と対峙出来るような機体では決してなかった。
そういった理性的な判断を押し殺し、挺身の構えで任務に当たっているが、ケルビムウェポンどころかベルリオーズの鉤爪が直撃するだけで、突撃聖詠服は壊れないまま、少女の肉体は灰と化して粉微塵になるのだ。何としてでも致命的な一撃は避けなければならない。
そして、それはヴォイドについても全く同じことが言える。
頭部のヘルメットと装着したガントレットは真実の不朽に近いが、それ以外は非装甲と言って差し支えなかった。
それなのに、ヴォイドは頑としていずこかを指差す姿勢を崩そうとしなかった。危険マーカーで情報共有をしようという意志も感じられない。
『ユイシス、事態の説明を』
いつもの憎まれ口は無い。
いっそ寒気がするほど静かに視界に文字列が現れた。
【確定事象:リーンズィによるロングキャットグッドナイトの観測:行動を実行してください】
『……?』
アルファⅡモナルキアとしての経験を通して、リーンズィは今までこのような表示は確認したことがない。
ミラーズに視線を向けると、ふわふわとした豊かな金色の髪をしたその少女は、悲しげな、それでいて見る者の呼吸を速める天使のような美貌の小さな顎を引き、そうするよう促した。
ライトブラウンの髪の少女は、一つ決心をして、ガントレットが指差す方向を見た。
そして、拍子抜けした。
乱立するモダニズム集合住宅のような、無機質で無秩序な建造物の狭間、ひとけの無い路地には、不死病患者すら立ってはいない。
あの猫のレーゲント、ロングキャットグッドナイトなど、どこにもいない。
猫の鳴き声も、あの気を削ぐような素朴な挨拶の声も、当然聞こえない。
ベルリオーズ、ウンドワート、ケットシーがぶつかり合う音ならぬ音、その衝撃が体幹を震わせるばかりだ。
ヴォイドは、何か機能不全を起こしているのではないか?
そう考えてヴォイドを見遣り、ユイシスに自己診断プログラムの起動を促すが、反応がない。
「ロングキャットグッドナイトだ」
『誰もいないぞ……誰もいない』
「おはようございます。ロングキャットグッドナイトです」
声がした。
リーンズィは驚愕として路地を再度見た。
猫っ毛のレーゲントがとてとてと路地から歩いてくる。
視覚情報だけならば平和なものだ。
清廉で愛らしい立ち姿には、しかし奇蹟を信じさせるような度を超した栄光も無く、美しくはあれど欲望を煽り立てる媚笑もない。裁定者の無表情。
民衆の中で生きていても、すれ違った者を数分幸せにして、それから猫のことを一日忘れさせない程度に過ぎまい。
ただその娘は、二度も三度も殺され、そして復活を遂げ、恐ろしい獣を従えている。
相も変わらぬ素朴な美しさ。邪気というものを全く感じさせなかったが、腕には黄土・黄・灰の三色斑の猫を抱いていて、その何の邪気も感じさせないくりくりとした猫の瞳に、リーンズィは怯んだ。
『だ、誰もいなかったはずなのに……』
「今来ましたので、いませんでした。おはようございます。あいさつは大事です。これは戒めの猫です」
少女はぐぐ、と背伸びをしながら猫を掲げた。
「あいさつはとても大事なので」
『大事、大事か……。おはようございます……何をしに現れましたか?』
リーンズィは毒気を抜かれつつ、やや気弱に尋ねた。
『さっきも遭ったというか、実時間だとまだ五分も経っていないのだが……?』
「それでも挨拶をするとは良い心がけです。赤い目の人には20ねこポイント進呈です」
とてとてと少女は歩み寄り、「手を出してください」とリーンズィに言った。
意味が分からないまま従うと、抱かれた猫が眠たげな仕草で、ぽん、と肉球でスタンプをした。
『え。何……?』
「100ねこポイントで猫セラピーが無料です。いつでも心のねこポイントカードを大事にしてください。人の命は一度だけ。カードも一枚きりで再発行はできませんので」
『うん? うん、感謝する……』
知らない間に謎のポイントカードが心に与えられているらしかった。
ねこポイントカード? ポイントカードとは……? ユイシスのデータベースでイメージを検索しようとして我に返る。
そんな場合では無かった。
ロングキャットグッドナイト!
不滅者≪ナイン・ライヴズ≫、聖なる猫の使徒だ!
周囲を見渡すが、どういうわけか、どの機体も彼女の出現に気付いていない。
唯一ミラーズだけが何かをこれから捕獲するような姿勢を取っていたが、それにしたところでロングキャットグッドナイトを捕まえるための動作には見えず、ヴォイドに至っては、今度は全く違う方向をガントレットで指差している。
どうやら仲間たちは説明を放棄している。
リーンズィが代理として皆に知らせないといけないようだった。
『傾注! 傾注! ロングキャットグッドナイトが来た!』
指を指して叫ぶと、ケルゲレンたちがようやく反応した。
『総員警戒せよ! 次の戒めが来るぞ!』
「おはようございます、鎧の方々。あいさつは大事です。おはようからおやすみまで人々を見守る大いなる聖なる猫は、あいさつされると、とてもとても喜びます。人の暮らしに寄り添うふわふわの猫なので」
誰も返事をしない。
レーゲントは無表情に猫を抱きしめた。
それから明らかな肉声で朗々と歌った。
「嘆かわしいことです。わたしキャットは悲しみに暮れています。何故、隣人へのあいさつを拒むのでしょう? 夜闇に遊ぶ猫たちも、どれでけ眠い朝だとしても、新しい一日を祝福し、にゃーにゃーとあいさつを欠かしません。聖なる猫はあなたがたに告げます、皆様が、この小さくも弱々しい猫たちを……最も小さい温かな命を愛するとき、その愛は確かに、聖なる猫をごまんぞくさせるのです」
誰も返事をしない。
少女はまた、沈黙する。
場違いながらリーンズィは言い知れぬ憐憫を感じた。
片膝をついてその猫の使徒と目を合わせた。
無論、頭では分かっている。ロングキャットグッドナイトは危険な存在だ。しかし、この猫が大好きなレーゲントが、無差別にスチーム・ヘッドを殺し続ける、あの不滅者なる怪物の主という事実は、直観に反する。
直観に反するという肉体の情動をこそリーンズィは信じ、憐れみを乞うた。
『ロングキャットグッドナイト。でも、今はそんな場合ではない。みんな怖がっているのだ。君の放ったベルリオーズという猫が、みんなを怖がらせている。どうにか……彼に、ごめんなさいを出来ないものだろうか』
「騎士ベルリオーズは猫ではありません。ベルリオーズという猫の見る、騎士の夢です。そして騎士ベルリオーズは猫を夢見て、自分の尻尾を追いかける猫のようにわくわくキャットライフなのです。なので騎士ベルリオーズが眠るまで、猫の夢は訪れないのです。<汝殺すなかれ>、それこそが、かの聖なる猫が主の膝の上で聞いた言葉なので」
『だがもう何人かスチーム・ヘッドが破壊されている。殆ど自殺のようなものだったが、しかし死んだのは、死んだのだ。それで痛み分けということにはいかないのか。いかないの?』
「ベルリオーズは……信仰篤き騎士です。殺した人を破壊するまで、殺し続けるのが宿業なのです」
『ではベルリオーズがその任務の途中で、疲れ果てて眠ったら?』
ロングキャットグッドナイトはぐぐ、と細い総身を伸ばして猫を掲げた。
「ハレルヤハ、もちろんおやすみなので。殺すことを戒めるのがベルリオーズの使命。しかし、眠ればそこでお仕事は終わりです。その苦難を通してちゃんと反省するのであれば、ベルリオーズも怒りはしないでしょう。しかし、聖なる猫のおひげに背き、反省せず、殺し、殺されることをやめないのなら、我が騎士、祝福されしベルリオーズは、猫の眠りからまた起き上がるでしょう」
やはりケットシーを殺すまでは、ベルリオーズは自然には停止しないようだ。
ベルリオーズがケットシーという個人を正確に標的として認識しているのか依然として怪しかったが、しかし他に有益な情報もあった。
少なくともこのままベルリオーズが復活しなくなるまで存在破綻をさせ続ければ、それでこの『猫の戒め』なる現象は停止するようだ。リーンズィは僅かに緊張が解けるのを感じた。終点が見えた気がしたのだ。
「そうではない。まだだ。これからだ。不滅者ヴェストヴェストだ」
リーンズィの内心を読み取ったヴォイドが言った。
「ヴェストヴェストが半径10kmを破壊する。彼はウンドワートを破壊するために来る」
ロングキャットグッドナイトは言う。「聖なる猫は、その毛皮のもこもこで皆様を温め、善なる道へ向かわせるために、人の影を歩むのです。猫は温かく、人間に寄り添い、とても優しくてごあんしんです。しかし、もし戒めを破るのであれば、人は猫を恐れるべきです。どの猫も鼠の玩具で遊ぶために爪を備えるのではなく、人を見守る猫として、戒めに背く人に慈悲深くも報いるのです。ウンドワート、アルファⅡウンドワート、赤い目の人。この度はあの御方を戒めるために参りました」
『おい、まずい流れだぞ……』ケルゲレンが呻いた。『何のゆえか分からんが、ウンドワート卿が標的にされておる』
「嘆かわしいことです。あなたは聖なる猫の福音書による説法に背きました!」
使徒は猫をそっと地面に降ろし、三度ほど撫で、それから自作の手書き猫福音書紙芝居を見せた。
「あなたのわくわくキャットライフをお助けするためにこうしてわたしキャットは沢山の用意をしたのに、あなたは約束を違えました」
『なん……なんじゃ!?』
遙か後方で唐突に名指しをされたウンドワートが一瞬だけ意識をそちらに向けた。
『なんかワシが怒られておる気がするが? 何でじゃ?』
「あなたは三度、四度と、聖なる猫の温情に背きました。赤い目の人。暴力だけが死の谷の影を凌ぐ……あなたのその信仰は猫の棲めない不毛の荒野を作るでしょう。その暴力への焦がれを、血と闘争への崇拝を、猫の命によりて処断致します……赤い目の人。わたしキャットは悲しく思います。あなたは強くて、子猫でも潰すように、わたしキャットなどはひと捻りでしょう。だからこそ、憐憫の心で、わたしキャットの説法に身を委ねるべきでした。しかしこの日、この時、罪はあまりにも重く、猫のふわ毛になびくこともなし。故にここに猫の導きを顕現します。歪んだ血濡れの偶像は、全て打ち砕かれるべきなので」
『……?』
リーンズィには依然として何故ウンドワートが咎められているのか話が見えない。
『猫の人を無視してどこかにいってしまったのはウンドワートではなくレアせんぱいでは……?』
ミラーズが微妙な表情をしていたので「そういうことではないのか? ないの?」と首を傾げる。
盗み聞きをしているウンドワートの動きが少しぎこちなくなっている気がしたが、気のせいだろう。
ウンドワートとレアに繋がりがあるのは知っている。リーンズィは好意的に解釈をした。おそらく友の咎を我が身に受けて、動揺しているのだ。
リーンズィはどこか上の空で、ウンドワートにも友達とかちゃんといるのだな、などと思った。あるいはあの偏屈爺さんをすら仲間とするレア先輩の人徳なのだった。
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