エージェント・ドミトリィ②

『とにかく、ウンドワート卿が来て下さって幸運じゃった。まだ最低でも……レンブラントかヴェストヴェストは出るじゃろうが、不滅者の初期封じ込めにおいては、ベルリオーズさえ始末できれば、被害が抑えられる』


 しかし、今度は惚れ惚れした様子で観戦をしていたケットシーが、困ったような素振りでケルゲレンを見た。


『えっ……あのガチャガチャ変形するカッコいい敵、もう殺されちゃう? 死ぬの?』


『死なん。死なんが、疲れ果てれば眠ってしまうのが<猫の戒め>たちの弱点よな。もう間もないじゃろう』


『えーっ……ヒナ、あんまり格好良いところ見せてないけど。このままじゃヒナのための予算が出なくなる……! 追加武器とかいっぱい出して年末商戦に勝たないといけないのに……! ヒナを応援してくれているスポンサーとテレビの前の皆のためにも何かしないと』


 ケットシーの黒曜石の瞳には、微かに焦りの色が浮かんでいた。

 殺戮に興じている時以外は人形のように無感情な目をしているため、異様な顔貌を口にしている間は、いっそ人間的な艶めかしい光が宿っていた。


『そうは言うがの、オヌシの今の武器ではそもそもベルリオーズに致命傷を与えるのも難しかろう。とにかく見過ごすのじゃ』


『うー』


 不服そうなケットシーに、リーンズィが囁きかける。


『君はエージェント・シィーを追跡しているのだろう。彼の現在を、知りたくないのか?』


『知りたい!』

 ヒナは思い切り食いついた。

『やっぱり何か知ってるの? そうそう、そっちの金髪の綺麗な子もお父さんの剣術を使ってるよね! やっぱり弟子? それとも実はヒナたち姉妹だったりするのか? じゃあ浮気? はっ、まさか愛人?! やっぱり浮気……浮気はダメ……見下げたお父さん……サイテー』


『か、勝手に失望するのはやめましょう? ね?』


 ミラーズは遠い目をしてヒナを宥めた。


『どうであれ、情報が欲しいなら無闇に命を危険に晒さないことだ』


『むむむ。これは難しい局面……視聴率……でもラスボスであるお父さんとの戦いのためのフラグも……』


 不滅者に詳しいらしいケルゲレンが言うのだ、ウンドワートによる不滅者ベルリオーズの封印は、おそらく完成へと着実に近付いているのだろう。

 これで打ち止めではなく、今後も何か得体の知れぬ存在が出現するのだということは言葉の節々から覗えたが、どうであれベルリオーズが排除されていた方が良いのは、さしものリーンズィにもよく分かっていた。

 ベルリオーズだけでも手に負えない、と言った方が正しいだろうか。


 ふと、リーンズィは視界が翳ったのに気付き、身を強ばらせた。

 コンテナだ。コンテナが空を飛んで、こちらへ向かってくる。

 二十倍速の世界では大抵の運動物体は静止する。それがあからさまに移動をしているのだから、電磁コイルか何かで加速・射出されたのだろう。

 そのコンテナ――ケットシーの追加武装パッケージと思しきものが、ビル群のすぐ上を横切っていくのを、リーンズィは酷く厭な予感とともに見送った。

 何か、変だった。

 この領域のオーバードライブは、殆ど異空間での活動と言って良い。

 同程度の加速にない物体は全て取り残される。

 援護も支援もからは不可能だ。


 では、どのような技術があれば、オーバードライブ中の機体に向けて、ここまでピンポイントに支援物資を送り込めるものなのだろうか?


 ライトブラウンの髪の少女の注意力は拡散し、局所的な視点からいっとき、無意識的な次元へとシフトした。

 途端、身体的な活動など起こるはずも無い加速された時間の中で、全身に怖気が奔った。

 おかしい。

 知らないところで異常が起きている。

 非言語的な恐怖、肉体に染みついた神経活動がもたらす霊感。


『どうしました、リーンズィ?』


『恐怖だ。私の肉体が恐怖を感じている』


 視線をあちこちに移しながら、言葉無き肉体が訴えかけている危機の正体を探る。ベルリオーズとウンドワートの戦闘は脅威だが、もはや意識する必要も無い。コンテナは気に掛かるがそれ以上の要素はなさそうだ。背後のスチーム・ヘッドたちにも異常は見られない。

 ふと、雲が渦巻いているのに気付いた。

 野戦病院で素人に縫われた兵士の腹の傷のように雲が波打っている。

 空間と空間が接続されたのだ。

 ――違和感は兎と狼が巴を描く戦絵図、さらにその向こう側にある。


 ヴァローナの瞳の権能を再活性化させ、剣の舞と塵埃と血しぶきの帳、その向こう側を幻視する。


 街が、破壊されていない。

 傷一つ無い。


 ベルリオーズの猛進によってズタズタになったはずに市街が、真新しい廃墟として立ち並んでいる。

 リーンズィは確信した。


 干渉されている。

 人知を越えた高位世界からの事象干渉。

 再配置だ。遙か彼方に、過ぎ去っていく炎上した翼の影が見える。


『時の欠片に触れた者……?』




 夜になるとお前は夫婦の寝室ではなく自分専用の書斎に閉じこもった。来客用の寝室のベッドを一つ取り払って、毛布とマットレスを書斎に運び込んだ。

 撃たれて死んだことを思い出したかのようにぱったりと倒れ込んだ。そして泥のように眠った。

 実に五日間ほどの昼夜、お前/ドミトリィは夢と現実の境界を彷徨った。偽りの名前、偽りの経歴、偽りの階級を与えられて、ゆかりのない軍隊の仮装をし、偽りの情報に踊らされる特殊部隊、使い捨ての駒にしていい兵士に紛れ込む。進入路に選んだ地下道の入り口で男女が睦言を交していた。彼は二人を射殺した。さほどの悪人とは思わないまま殺した。邪魔になると判断して殺した。ただそれだけで殺した。二人は酷く汚れていた。あるいは泥に塗れた花婿と花嫁だったのではないか。息が苦しくなる。


 目覚めるとドミトリィはくしゃくしゃの毛布を抱いて眠っている。見慣れた天井。埃臭い本棚。お前は安堵してまた眠る。排泄物と違法薬物、煙草や体液の臭いが入り交じる地下道を歩く。徒党を組んで歩き続ける。生きるに値しない人間の喉を裂き、逃げ惑い、あるいは刃向かってくる有耶無耶を、最新型の連発銃で無差別に射殺する。無差別に、無差別に、無差別に、逃げる背中に銃口を……。

 息が苦しくなる。また目が覚める。すぐに眠る。


 その繰り返しだ。彼は自分が何をしでかしたのか、眠っている間中反復し続けた。どれだけの人間を殺したのか。公衆衛生の理想的維持のためにどれほどの虐殺を働いたのか。

 いや、それすらまやかしだ、お前は、お前の真に望むところは、ドミトリィ!

 途中、涼やかな朝、霧の立ちこめる樫の木の森を、金色の髪をした少女が歩いているのを見た。ドミトリィは立ち竦んでその背中を見ていた。朝露を吸った生地の薄いネグリジェからは甘やかな白い肌が透けている。ぶかぶかのブーツを履いた華奢な背中が、散乱する光を浴びて楽しげに遠ざかっていく。少女が振り返る。物憂げで底の知れない緑色の瞳、誘うような、懇願するような、愛おしむかのような澄んだ湖畔の色。穢れの無い花嫁だ。彼女はこれからドミトリィの家で暮らす。花嫁だ。これから結婚式を挙げる……。


 ドミトリィは目覚めた。

 自分で夢から覚めた。

 ドミトリィはその夢を許せなかった。

 また眠った。

 地下道を走り回る兵士たちの足音で目覚めた。夢を見ているのかと思ったが違った。遮光斜幕から外を垣間見ると土砂降りの雨だった。雨の音だ。錯覚をしたようだった。

 然程離れてもいない樫の木の森は、豪雨に煙り、影も見えない。




決定的な瞬間ゼロ・アワーが来たのだ。全ての時刻は、いま・ここで結ばれる」

 アルファⅡモナルキアが、低い声で唸った。

 それは無線通信では無く、疲れ果てた男の肉声のようにリーンズィには思われた。

「私は既にこの瞬間を知っている」


『ヴォイド? 一体何を……』


 振り返ると、そこには見慣れた風貌、見慣れたフルフェイスヘルメット、見慣れた二連二対のレンズがあり、赤熱の闘争を身に浴びて、全てが赤く輝いている。

 酷く場違いな遺物に思えた。それがかつて自分自身でもあったというのに、ライトブラウンの髪の少女は狼狽した。

 これは、何なのだろうか?

 自分は、これまでいったい何の傍にいたのだろうか。この私は、一体何から生み出されたのだろう? 

 父ではなく……彼は、何だろう?

 答えを求めて傍らに侍るミラーズに視線を向ける。


「そう、もうお別れなのですね」


 長身の男に向かって、儚げな声で囁いている。

 ミラーズ。ミラーズ。愛しいミラーズ。ユイシスの鏡像、愛を教えてくれた人、しかし母親ではなく……。

 アルファⅡモナルキアに目を向ける。

 では、この機体は何だ? 父でもなく仲間でもない。いずれにせよ救世主でなく……。

 外観は他のスチーム・ヘッドと大差無い。いっそ旧式で、時代錯誤的であるほどだ。だというのに、アルファⅡモナルキアは、言い知れぬ違和を含んでそこに立って、世界と対峙している。相対している。停滞している。漂流している。

 到達者でなく、解放者でなく……。

 黒く歪んだ鏡像の世界に佇むのは、大鴉の如き装束の赤く濁った目をした少女。その瞳に映る大男もまた、捻れて歪んで頼りなく、寄る辺のない孤児に思えた。

 抵抗者でなく、逃走者でなく……。

 二人は決定的に異なる。異なるが相似だ。鏡像だからだ。鏡像。無限に連鎖する鏡の一枚にヴォイドとミラーズは同時に映り込んでいた。

 この無窮の凍土で、同一にして別なる二つの顔が、互いを見つめていた。


『私に何をさせたい?』


 ライトブラウンの髪の少女は潔癖そうな美貌を崩さぬまま、赫赫たる赤い視線をヴォイドへと注いだ。


「私に……何を望む、の? ヴォイド、どうしてほしいの」


 調停防疫局のスチーム・ヘッドは応えた。「ただ欲するところを成せ」


 ウンドワートの動きが乱れる。

 解放軍の面々がどよめき、リーンズィはハッとして振り返る。

 ベルリオーズを苛んでいた破壊の連続が中断されていた。

 胸部から下腹部までを五本の爪で裂いた、そのような姿勢でウンドワートが硬直している。

 その背後に五体満足のベルリオーズが出現したのをリーンズィは目撃した。


 ウンドワートが動きを止めるまでは優勢だったはずだ。これまでは、あるいは振り返った瞬間にはまさにベルリオーズは引き裂かれていたのだ。

 だというのに、攻守が逆転している。


 ウンドワートは攻撃姿勢を取ったまま、重外燃機関の無防備な背中を晒している。対するベルリオーズは三本の脚と一本の腕という形態に変化しており、爆発的な推進力に任せて強烈な掌打を放つ構えだ。

 一刹那という言葉ですら追いつけない究極的な速度での状況展開。


 吠え狂う狼の鎧の威容を前にして、リーンズィは手甲の両手で、交通標識から作った短槍を握り締める。

 無言のうちに意見を同じくしたケルゲレンとともに咄嗟にカバーに入ろうとしたが、ヴォイドが『無用だ』と呟きリーンズィの肩を掴む。

 それと重なるようにして、『手出し無用!』とウンドワートの苛立った声が聴覚野に届いた。

 事実、無用であった。

 助けの太刀は抜かれていた。


『――蒸気抜刀じょーきばっとー


 気付けば――ケットシーの黒いセーラー服が宙に翻っている。

 くるりくるりと、流水を滑る黒百合のような軽やかな回転。


 ベルリオーズのさらに背後を取る彼女の手の中には、その小柄な体には不釣り合いな大型機関式外燃刀。

 継承連帯のスチーム・ヘッドが搭載しているものと比較するといかにも無作為なパーツの連続、有り体に言って剣のように形を整えられただけの、雑多な部品を組み合わせたガラクタの塊にしか見えなかったが、励起状態にあるケルビムウェポンだというのは電磁場の急速展開から読み取れる。

 どこからそんな武器が?

 出所は明白だ。

 アルファⅡモナルキア・ヴォイドの右腕が指差している。


 何時の間にか、上空のコンテナがこじ開けられている。

 リーンズィは唖然とした。

 起きていることが理解出来た。

 僅かな時間だけ三百倍加速した東洋最強の剣士が、運ばれてきた自分の武器を持ち出して、ウンドワートとベルリオーズの戦闘に介入した。

 その結果として、ベルリオーズがケットシーのオーバードライブと共鳴して、演算の相乗りをして。

 ケットシーと同等速度に達したベルリオーズが、最大の脅威であるウンドワートの背後に回り込んだのだ。


 理屈は分かる。

 だが、理屈だけだ。

 合理性が、全くない。

 この場は兎に角ウンドワートに任せておけば万事収まったはずなのに。

 それなのに何故ケットシーが追撃に参加しているのか、理解が出来ない。

 元より理解出来ないパーソナリティの持ち主なのだが。


 奇怪なことは他にもある。

 ヴォイドは、何故、論理的な整合性を欠いたこの展開を予期していたのか?


 少女は問うた。『君は全てを知っているの? 何を知っている? これから何が起こる?』


 調停防疫局のスチーム・ヘッドは応えた。「起きることしか起きないだろう」


『起きること?』


「起きたことを私は知っている。それだけだ」


 リーンズィの視界に炎が瞬く。

 釣られて、視線は鉄塊を抱えた少女を追った。


『――大紅蓮焔薙之太刀ソード・カグツチ!』


 出来損ないのケルビムウェポンは指定された遠隔座標ではなく、装置より寸毫の前方部分に電磁場を形成。

 発生したプラズマは異様に巨大な光の刃の形状を取った。

 技術的未熟さ故か、収束しきらないままあちこちに余剰エネルギーを放出しており、危険極まりない。

 アルファⅡモナルキアの左腕部ガントレットに搭載されている機構よりも遙かに不安定だ。

 それでも仕手に武器は応えるもの。鮮烈にも雷の如く振り抜かれた一撃は、水面に小石を撒くかのような水蒸気爆発の連鎖を伴いつつ、縦一文字にベルリオーズを叩き切り、装甲は徹せぬまでも、その生体部分を跡形も無く焼灼せしめた。


 余波をもろに受けたのはウンドワートだ。

 ケットシーのケルビムウェポンは全く出力調整が成されておらず、その刃はベルリオーズどころか、分厚い装甲の向こう側のウンドワートにまでも届いていた。


『ぴゃっ……ヌオオオオ!?』


 兎の騎士は加護持つ火鼠の如くその灼熱を払った。

 敏捷に飛び退きながら電磁場を中和したためか、ウンドワートに損傷は無かったが、精神的動揺があからさまに大きい。


『あっ……あと十回も殺せばオーバーフローに持ち込めたというのに! 何をしておるんじゃ!? 余計なことを! リーンズィにも手を出すし、全くいけ好かない女だとは思っておったが!』


 三百倍加速の世界で復元を終了したベルリオーズが、またしてもウンドワートの死角に現れる。

 しかしウンドワートが迎撃行動を行う前に、ケットシーが究極的な加速によってベルリオーズの転移を追跡していた。

 またも不完全なケルビムウェポンを振り回す。


『大紅蓮焔薙、二之構え! 斬塔剣スカイタワー失墜之太刀フォールダウン!』


『でええええええ! やめんかあああああああ! 危ないじゃろうがあああああ!!!』


 柄の付いた重外燃機関としか言いようのない無骨な兵器が形成したプラズマ刃は、さらに度を超して巨大になっている。

 射程内に収まっているのはウンドワートだけでは済まない。横薙ぎの一閃は明らかに半径50mは焼き尽くしてやるという殺意に満ち溢れており、ベルリオーズだけを焼き断ったその瞬間にウンドワートがプラズマ刃を霧散させなければ、後方に控えているリーンズィたちにも損害が出ていたことだろう。


 リーンズィはと言えば、ベルリオーズたちを巡る攻防よりも、まだヴォイドとミラーズの方に気を取られていた。

 何せヴォイドがケルビムウェポンの発動に対して全く反応していない。

 演算資源を可能な限り注ぎ込めばウンドワートの真似事ぐらいは出来るはずだ。電磁場の打ち消し程度はどうにかなるだろう。

 それなのに対応する徴候が無い。統合支援AIユイシスからのアラートさえも表示されていない。

 ウンドワートが完全に防御を成すと知っていなければ、このような事態はあり得ない。


 この機体は今、何をしているのだ?

 リーンズィの目が、その得体の知れぬ自分自身、切り離されたアルファⅡモナルキア・ヴォイドに向かって、赤く輝く。




 地下道を走り回る兵士たちの足音で目覚めた。夢を見ているのかと思ったが違った。遮光斜幕から外を垣間見ると土砂降りの雨だった。雨の音だ。錯覚をしたようだった。然程離れてもいない樫の木の森は、豪雨に煙り、影も見えない。

 雨は長く続いた。数日はそのまま忘我の有様で過ごした。


 何度かあの少女のことを思い出した。金色の髪をした少女。汚濁に塗れた愛らしい乙女。顔貌は穢されることでようやく人間らしくなった、そう思わせるほどに繊美な造りをしている。どんな状況でも彼女は可憐だった。卑しく媚びてすり寄る仕草をしていても、彼女はなお高貴だった。


 ドミトリィは少女のために何百人かを殺すことに決めてそれを実行したのだ。

 仕えるべき主人を偽り、結社を偽り、世界秩序を偽り、軍隊を一つ、少女を閉じ込めた地下街に放り込んだのだ。マスクを被り、完全武装して、兵士たちに紛れ込んだドミトリィは、男を撃ち、女を撃ち、火を放ち、毒ガスを撒き、殺して、殺して、殺して、殺した。ならず者の兵士を引き連れて娼館に、とても人間の暮らす場所ではない娼館に、娼館と呼ぶことさえ躊躇われる退廃の穴に踏み込み、目当ての少女をようやく捜し当てた。

 改めて名を問う前にその美しい少女は兵士に縋り付いた。


「ドミトリィ様! ああ……約束は、まことのものだったのですね。ああ、ドミトリィ様、私を迎えに来て下さったのですね……ドミトリィ様、ドミトリィ様……」


 彼はマスクを被り、完全武装して、金と女、戦利品を漁る不届きな兵士たちに紛れ込んでいた。どこの誰とも知れぬはずで、それなのに彼女は、まさしくその兵士をドミトリィだと見抜いた。

 返事をしないことを不安に思ったのか、少女は囀る歌声で愛を請うように何度も問いかけた。


「あなたなのですよね? ドミトリィ様? 騎士様、私の騎士様、ドミトリィ様……?」


「ドミトリィ。誰だそいつは?」


 沈黙のあとそう答えた。それから彼女を殴りつけた。他の兵士にも素晴らしい戦利品があるぞと教えた。そういう下卑た真似の似合う集団だった。

 ドミトリィは餌に食いつこうとする兵士たちを眺めながら自動小銃の弾倉を取り替え、動作を確認し、それから彼らを背後から一人ずつ撃って殺した。

 最後の口封じは万事滞りなく進んだ。誰も銃声がやむまで振り返りはしなかった。

 娘の歌声から、未知の命令言語を生成するその神に愛された喉から、自力で逃れられる人間はいないと理解していたから、極めて丁寧に目撃者を殺すことが出来た。

 ドミトリィには、その魔力に対して、ある程度耐性がある。しかしどの程度正気だったのか。焼夷剤をそこいら中に撒いて着火した。獣臭い毛布で少女を包んで地下のみすぼらしい娼館を出た。少女は何も言わなかった。どこの誰とも知れぬ兵士の胸で、ドミトリィ様、ドミトリィ様と、愛しげに名前を呼び続けた。


 そして、そしてお前は。

 お前は結社の人間に花嫁を引き渡してしまった。

 不安がって名前を呼ぶ花嫁を手放してしまった。

 お前は花嫁をやつらの手に渡してしまった。

 お前の花嫁を……。

 檻から檻へ。

 汚濁から汚濁へ。

 汚辱から汚辱へ。

 闇から闇へ……。


 お前が帰宅して数日経ったある暗い朝のこと、書斎の机の上に置かれている二号式卓上電話機がけたたましくベルを鳴らした。

 お前は気の狂った老婆でも見るようにその電話機をじっと睨んだ。

 それからマットレスから立ち上がり、受話器を耳に当てた。


「こちらドミトリィ」


 囁くような女の声がした。


『やぁ君。僕だよ』


 お前は思わず受話器を置いた。通話を切った。

 心臓がばくばくと音を立てている。

 しかし電話を切ってしまったのは殆ど無意識的な行動で、後から自分で驚いた程だった。

 慣れてこそいたが、まさか自分が彼女の声から――原初の聖句から逃れられるとは考えていなかった。

 かけ直してくるかと思ってそのまま机と向き合った。一時間後にまたマットレスに倒れ伏せた。相手の電話番号は知らない。結社の人間はいつも一方的に電話を掛けてくる。

 ドミトリィとその女は顔見知りで、知己と言って良い仲だったが、立場はあちらが上だった。

 とうとう眠れなくなってしまった。妻子と顔を合わせられるほど精神が回復していなかった。お前は丸きり落ち着かない気持ちで部屋に閉じ籠もって夕方まで過ごした。気持ちを整理するために当たり障りのない記事を書こうと日記帳を開いた。

 万年筆のキャップを開き、閉じ、また開いた。

 雨が耳障りだった。

 日記に殴り書きがされているのに気付いた。


「お前が本当の騎士だというのなら、今すぐ、死ね、死んでしまえ」

「生きて戻れぬと言うのなら、死んで骸となるが良い」


 お前にはそれを書いた記憶が無い。


 だがお前は知っている、ドミトリィ、お前は知っている。

 やがて刻限が来たる。

 始まりの時間ゼロ・アワーが。

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