エージェント・ドミトリィ①

 空港に着いた。ドミトリィは青ざめた顔で己の国へ帰ってきた。半月ほどのあいだ大量殺人のための作戦に従事していた。彼は疲れ果てていた。名を変え、身分を変え、所属を変え、言葉を変え、何もかもを偽って過ごした。いつものことだ。ドミトリィ、それがお前だ、エージェント・ドミトリィ。

 お前は任務の中で例によって神経を病み、例によって自分が誰なのか分からなくなった。いつものことだ。母国語を使おうとすると舌がもつれる。いつものことだ。使い込んだ万年筆の書き心地に眉を潜める。いつものことだ。

 己の名前を思い出せない。書類一枚サインするのに時間が掛かる。あまりにも手間取るので入国審査で官吏にこう問われた。「どこかお加減でも?」。いつものことだ。疑われるような身分ではない。疑われるような渡航履歴もない。彼はあらゆる書類の上でシミ一つ無い。靴の中は濡れている。血で塗れている……どこまでも足跡が続く。赤い足跡が続いている……。


「どうされました? 大丈夫ですか?」


 お前は頷く。「どうも、旅先で水に中ってしまったようでね」。いつものことだ。そうしてサインする。馴染みのない名前をサインする。馴染みのない自分の本名を、慣れた手つきで書き込んでいく。


 手が止まる、知らない男、知らない人生、知らない経歴を頭に叩き込んだその兵士の手が止まる。


「書き損じてしまった。もう一枚同じ申告書をもらえるかな?」


 名前欄には見慣れた名前が書き込まれている……。

『ドミトリィ』。お前のものではない名前。


 迎えの車の後部座席には人が乗っている。作戦の話をする。首尾の話をする。どれほど効率的に作戦が進んだかについて。嘘だ。ドミトリィは、己がブカレストの地下街で、あの退廃と絶望の穴で成した作戦に、築き上げた死体の山に、火と煙でいぶし出された貧民どもに、然程の意味が無かったことを知っている。しかし嘘を重ねる、嘘を重ねる、嘘を重ねる……。

 見知らぬ担当官は淡々と事情を聴取した。


 それから車を乗り継ぎ、また乗り継ぎ、乗り継ぎ、故郷へ、我が家へ。

 所領の屋敷へ帰還する……。


 ドミトリィ、お前には家族がいる。妻は若く、美しく、気品と礼節を備えた貴婦人で、お前とのあいだに聡明な息子を一人持っている。結婚して七年になる。ドミトリィがたっぷりと手を血で汚して、お前は幸せだった。お前たち家族は幸せだ。屋敷は小さいが調度品には密かな拘りがあった。先代から、また先代から、さらに先代から、連綿と受け継がれていた遺産があった。捨てられぬ遺産が。あちこちに血の手形が残されている……目には見えぬ手形が……。そして侍従がいる、侍女がいる、執事がいる。お前を出迎えて誰もが挨拶をする。お前は尊い血を引く家の人間であり、お前の父親はその父、さらに先代の父から事業を引き継ぎ、結社の支援も受けて、近隣一帯の、所領の開発に注力した。思い出すが良い、帰宅の途で見た整然とした街並みを。薄く霧の煙るお前の素晴らしい街を……。

 お前たち一族は民衆のあるじとして責務を果たし、鉄道を誘致し、電気水道を整備し、公衆衛生を整え、考え得る全ての理不尽な悲しみを遠ざけた。そのためにたっぷりと手を汚した。


 世界秩序のための殺戮によって、この街は幸せだ。




 不滅者は荒れ狂う。狼の騎士ベルリオーズ。不死にして不落。

 完全にして不変。

 それは不滅という名の行き止まり。

 そうなりたいと願い、そうあれかしと祈られた不変の怪物。

 望まれた世界への焦がれ、生きとし生けるものの願いは、時に星座すら我が物とする。況んや、もはや世に亡い魂が見る夢は、如何ほどに歪んだ世界を招き寄せるか。

 主体を持たぬ願いとは、まさしく変形した呪いに他ならない。


 血が煮えて肉が削げ落ちても、まだ死ぬときではない。それで死ぬとは、願われていない。目的を完遂するまでは状態は決して変化しない。願いは不滅なのだから、朽ちている状態などあり得ない。

 故に、幾度屠られようと矛盾は正される。

 それは強引に存在を復元する――基準世界に対する再配置という形で実行される。


『遅い遅い遅いわッ! 何たるだらしのない体たらくか! どうしたベルリオーズ、もう音を上げるか!』


 しわがれた声の嘲笑が響き渡り、不滅者ベルリオーズは今再び空中に投げ出されて破壊された。復元する暇を与えず、兎の大鎧ウンドワートは執拗に追撃する。不滅者という擬人化された迷宮に対する解答は、ウンドワートが示していた。

 リーンズィの目前で銀の閃光が視界を煌めかせ、炎と血飛沫の入り交じる花が、そこかしこに咲き乱れる。


『……ああ。なんて……きれいな……』


 ライトブラウンの髪の少女は、思わずそんな言葉を口にしていた。

 そして、にまにまと妙な笑みを浮かべるミラーズに気付き、屑鉄の如き有様のガントレットの甲で口元を隠す。


『花を愛でる乙女のような声ね?』などと茶々を入れられて、思い直した。


 確かに殺害行為に対して持つような感想ではなかった。健全な精神状態は保たねばならないと言い聞かせる。

 分かってしまえば不滅者狩りは単純だ。

 間断なく殺し続ければ良い。

 地図を手当たり次第に塗り潰すように、あらゆる可能性に対して最適の回答を最速でぶつけ続ければやがては沈黙する。


 無論、語るほどに簡単な道筋では無い。単なるスチーム・ヘッドが相手の場合でさえ、絶え間なく殺し続けるのは困難を極める。排除するだけならば人工脳髄を破壊するか摘出すれば良く、通常は現出しない目標が対峙した者を見境無しに粉砕する狂気の殺戮機構であれば、尚のこと難しい。


 それを事も無げに実行してみせるウンドワートに、リーンズィはそれでも美しいものを見出さずにはいられない。

 研ぎ澄まされた刃のような残影のみを空間に残して疾駆する甲冑。真っ赤な火となった殺害の痕跡が次々に広がっていく。

 きれいだ、と思ってしまうのだ。

 これがオーバードライブ中の高負荷空間でなければ、惚れ惚れとして、溜息の一つもついてしまっていたことだろう。


『ふふ。好意には素直になって良いのですよ、リーンズィ? 多くの愛を持つことを咎める法なんて、新しい命を得た身にはないのですから。あの白い髪をした綺麗な女の子だけでなく、兎さんと愛を分かち合うのも、新鮮な気持ちになれるかも知れないわよ?』


『ウンドワートと?』

 中身がどんなだか知らないが、やはり怖い印象があった。

『私の体はともかく、こころは君と、そしてレアせんぱいにだけ預けている。私の心の在処をもっと増やすつもりは無い』


 ウンドワートが一瞬だけこちらを見た気がした。

 気がした、というのはリーンズィには知覚不能だったが、そばにいるアルファⅡモナルキア・ヴォイドは視線が通ったのを感知した、ということだ。

 知らないところで失礼な物言いをしたことが露見してしまったと言うことか。


 確かに悪いことを言ったけど盗み聞きも良くない、などと思いつつ、はたと思い至る。

 これだけの速度で連続殺害を実行せしめて、それでもなお周囲に意識を向ける余裕があるのだ。

 その事実に改めて驚嘆する。


『素晴らしい……本当に素晴らしい性能だ、ウンドワート。やはり私たちを相手にしていたときは何故だか私たちを虐めて遊んでいたのだな……顔も肘でパンチされたし……きっとそういう性癖の人に違いない。ウンドワートは怖い人だ』


『ええ、そうね、そういう趣味の人に違いないですね』

 くすくすと金色の髪のミラーズが声も無く笑う。

『見た目は可愛い兎さんでも、中身は時として飢えた狼のように旺盛なものです』


 ライトブラウンの少女はまたもウンドワートに自然と目を奪われ、眼前を吹き荒ぶ破壊の嵐にただただ見入る。

 

 赤の色彩が強くなり、緋と翠の混じる二対の瞳、望んだ景色を観るヴァローナの瞳は、現在は機能を停止している。

 体感時間で十数秒。

 その間、異形の狼が五体とも満足であった瞬間はひとときも無い。

 ウンドワートの殺害技巧はあまりにも高速で苛烈だ。

 いちいち観測していては、それだけで負荷が限界を超えてしまうだろう。

 ケルゲレンなどは騎士か侍従のように跪いて、ウンドワートのその神速の殺戮に、すっかり感服してしまっていた。


『リーンズィ、言うまでも無かろうが、よく見ておれ、アルファⅡモナルキアよ。これこそが、クヌーズオーエ最大の守り、解放軍の最大戦力としてサーの称号を冠される御方の実力じゃ。おぬしもよくよく頑張っているが、アルファⅡの名は高貴にして、我ら凡百の機体には触れることすら叶わぬもの。その名に恥じぬよう精進することじゃぞ』などと説教じみた通信を飛ばしてくる。


 ムッとしたリーンズィは、スパムメッセージを百通ぐらい送信しようとしたが『子供では無いのですから』とミラーズに咎められ、諦めた。しかし稼動日数から考えればまだまだ子供だし許されるのではと思った。【警告:許されません】とのメッセージがユイシスから飛んで来た。


 ケルゲレンを初めとして、解放軍のスチーム・ヘッドは敢えてウンドワートに手を貸そうとはしなかった。この不可知速度での領域に入り込めないのも事実だろうが、それ以上に彼らの眼差しは興奮に光り輝いている。

 つい先ほどまで不滅の怪物から逃げて回っていた者の視線とは思えない。


 彼らは英雄譚に新たな一節が書き加えられるのを目の当たりにしているのだろう。ウンドワートの殺戮とは、ある種の儀式なのだ。事実、市街を跳ね回る刃には、ケットシーの凄絶な斬撃の連続とも異なる、星の煌めきのような美しさがある。

 不滅者が相手だから、という要素も無視しがたい。セーラー服の少女、黒髪の英雄、葬兵ヒナ・ツジの刃も美しいが、切っ先は解放軍の、味方の血で汚されている。

 それに対してウンドワートの白銀は絶対的に解放軍の味方だ。

 不変の悪夢を切り刻む、勇猛にして神聖なる剣の舞だ。


 究極的な到達点においては死を招くばかりの凶器さえ光輝を纏う。

 紡がれる破壊は悪を滅する神の威光に似て、刃の筆先で殺戮の絵を描き見る者に慨嘆を刻み込む。ウンドワートの持ち得る暴力は、既にしてリーンズィの眼前の風景ごと不滅者ベルリオーズを引き裂いていた。足場にされ、あるいは磔刑の柱として諸共貫かれ、あるいはケルビムウェポンの業火に焼かれた廃棄市街は、見る影も無く破壊され、歩くような速さで渦巻く粉塵の風へと霞んで、加速が停止すればそのまま崩れ去ってしまいそうだ。

 ケルゲレンたちが感服してしまうのも無理からぬ話であろう。

 一方で、巨大な狼型蒸気甲冑、ベルリオーズの耐久性もまた、恐ろしい。

 いつになればこの殺戮の舞踏は終わるのか?


『本当に……何度倒しても蘇るのだな。蘇る……の? 不滅者と言うのは』


 殺されては蘇る。砕かれては巻き戻る。

 再生という言葉さえもはや相応しくない。ここまでの不変はトリックアートの領域だ。

 リーンズィはこのような特性を持つ機体を見たことが無い。ベルリオーズのような可変機構自体が目新しいが、ここまで異常な再生能力は、アルファⅡモナルキアのデータベースにも該当する機体が機体が検索結果へのアクセスが拒否されましたエラー、アクセスが拒否されました、機体が無い。

 何せ通常のスチーム・ヘッドならば百度は粉微塵になっている程に攻撃を受けて、相変わらず復元を繰り返しているのだ。

 ベルリオーズ自体の性能を度外視しても、この常識離れした恒常性は、ただそれだけで戦略的に脅威だろう。


『スヴィトスラーフ聖歌隊ではこういう戦力を有していないのだと思っていた。愛と平和を謳う集団なのだと……』


『ええ、私たちは本来刃を持ちません』

 音程でも整えるかのように、真空の高速世界で愛らしい口元を動かして、金色の髪の天使が応える。

『最低限、身を守るための戦力は用意していましたが、私がスヴィトスラーフ聖歌隊で活動していたときには、不滅者などというものは存在していませんでしたよ。聖句を組み合わせて、何か難しい命令を作り上げる……えっと、ぷろ……ぷろろ……ぷろろみんぐ? というのでしたか』


『プログラミング……?』少女は首を傾げた。


『そう。そういうやつです。何かと難しい研究をしていたのは大主教ヴォイニッチですが、当時は縁の無い再誕者にここまでの祝福を与えることは出来なかったはずよ。だから不滅者というのは、私も本当に知らない技術です』


『ほう、ヴォイニッチ様と知り合いじゃったのか?』

 ケルゲレンが意外そうな声音で割って入った。

『あの方の知己などイカレばかりかと思っておったが……話せる者も残っておったとはな』


『失礼な人ね』

 ミラーズは冷たい視線を向けた。

『ヴォイニッチとリリウムは、七人の大主教の中でも目指す地平を同じくする立場。ヴォイニッチへの侮辱は我が娘リリウムへの侮辱に等しいわ。早口で意味の分からないことと専門用語ばかり話す難しい子だったのは本当。でも癲狂者呼ばわりは聞き捨てならないわね。その無駄に時代がかった粗野な喋り方は、もしかしてウンドワートの真似なのかしら。誰かを負かすことしか考えていない乱暴者らしいわ。まったく、信奉者はレーゲントを映す鏡と言いますが、解放軍でもそれは同じみたいね』


『……すまない、当方が言い過ぎた』

 ケルゲレンは急に軍人めいた口調で謝罪した。

『しかしのう、現在のヴォイニッチ様は……いや、それよりも今は、ウンドワート卿がベルリオーズの復元能力をオーバーフローさせるのを見守ろうではないか』


『お説教は後回しにしてあげます。私も状況は分かっていますので』ミラーズは不機嫌そうに頷くばかりだ。


 リーンズィは思うところがあって、ちらりとヴォイドを垣間見た。


 アルファⅡモナルキアは、沈黙し続けている。

 おそらくアポカリプスモードにシフトするための準備を進めているのだろうが、このまま事が運べば、そのような危険を冒さずには済みそうだった。


『ヴォイド、戴冠の時はまだ来そうにない。私も君も、無事攻略拠点の住処へ帰ることが出来る』


 一度も言葉を発さない、そのフルフェイスヘルメットのスチーム・ヘッドが、何故か気がかりだった。同時に、ユイシスも反応しない。よほど重たい処理を行っているらしい。

 無数に搭載された人格記録媒体から何のデータを読み出しているのか、リーンズィには窺い知ることが出来ない。




「あなた、あなた!」


 知らぬ女が耳元で不安そうに声を上げているのでドミトリィはぎょっとした。

 知らぬ女ではない。妻だ。

 妻? 自分の妻とは、しかし、こんな顔だっただろうか。

 花嫁は今どこにいるのだろう? 天井を見上げる。シャンデリアだ。母が気に入って買ってきた。ちかちかと目が眩む。

 地下街のそこかしこで明滅していた低品質な蛍光灯。薄闇の中で身をよじる、小さな愛らしい花嫁を思い出す……。


「酷い顔色ですよ。おくすりをお持ちしましょうか。それとも、お医者様を呼ぶべきかしら」 


 お前は我に返る。妻だ。これこそ、自分の妻だ。いつも家で待ってくれている。局の手配で縁組みされた結婚だったが、生活は何もかも順調だった。血を血で洗う罪業のおかげで、お前たちは幸せだ。


「視察先で、また、水で中毒を起こしてしまってね……」。いつものことだ。微笑んで口づけをする。いつものことだ。

 長すぎたのだ、とお前は混乱する頭で唱える。『ドミトリィ』でいた時間が長すぎた。足かけ三年にもなる調査と掃討。そして金色の髪をした美しい少女。忘れろ! 忘れてしまえ! いつものことだ。こんな作戦はごまんとある。父も記憶にこびりついた業苦を、病床で、今際の際に吐露した。同じ途を選んだ息子に。

 そしてその夜に自殺した。

 病ではなく自分の手で死んだ。


 妻はお前の仕事の実相を知っている。それだから、泣きそうな顔で抱きついてくる。見知らぬ妻が、幸せな妻が。頻りに体の具合を心配する妻を宥め賺すと、今度は甘えたい盛りの我が子の相手だ。和やかな夕食を楽しんで、奴隷や愛玩具ではない、幸せな我が子に旅の記録を語る。彼が満足するまで、虚実をない交ぜにした、明るいばかりの空想の海外視察の話を、たっぷり聞かせる。


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