軍神強襲②
泥のように纏わり付く加速した時間の中で、少女たちの翡翠の瞳が、何度目かの交錯を果たした。
そこで少女はようやく目覚めた。
体は動き続けているのに、意識に空白が生じていた。
暗号化した高速通信で戦闘機動を同期させつつ、絡み合わせた視線から、言葉にし得ない感情の動きを解釈する。
少女は――アルファⅡモナルキアのエージェント、リーンズィは、戦闘の最中にあって、自分が何をしているのか、思い出せない。
ライトブラウンの髪の少女の瞳に映るのは、黄金の和毛の少女、ミラーズの顔に浮かぶ、艱苦の色である。
何がそれほど心配なのだろう、とリーンズィは戦闘に集中するべき演算リソースの一部を割いて、漠然と想像していた。
己の瞳孔の形が不揃いなことには全く気づいていない。異常を来した視覚も体感覚も、人工脳髄が補正してしまっているせいだ。
だからこんな想像をしてしまう。
……ミラーズは、自分がこのスチーム・ヘッドに打ち倒されてしまうのではないかと、心配してくれているのだろうか?
だが、客観的にはそれらの思考はまさしく空想、リーンズィの願望から芽吹いた都合の良い幻想に過ぎない。
リーンズィの混乱した人工脳髄は統御を失っていた。
ただ我知らず愛慕を捧げる和毛の少女の横顔に、自分がほしいだけの言葉を探している。
己が流している血の熱さに、リーンズィ自身が無自覚だった。
『警告。擬似人格演算に異常を検出。生体脳の修復は完了していますが、演算が安定していません。リーンズィ、当機の発言を理解しますか。回答の入力を』
リーンズィにはまず、何故自分がこうして脚を崩壊・再生させながら、息も出来ないほどの加速倍率で駆けているのか、それが即座には理解出来ない。
……私は目の前にあるウサギに似たシルエットの塊の周りを、どうしてこうやってぐるぐると回っているのだろう?
私は何をしているのか、と支援AIに質問しようとして、自分の声が出ないことに驚く。
超音速での活動が標準となるオーバードライブ環境では発声など不能だという事実さえ忘れてしまっていた。
『人格演算混濁、継続中と認定。生命管制の優越に従い、補正式の適応を開始します。内耳にも損傷を確認しました、緊急補修を実行』
出し抜けに、耳の内側で渦を巻いていた眩暈を招く轟音が、明瞭な風の音色となって知覚された。
リーンズィは十数倍に加速した自分自身と、恐ろしくゆっくりと流れていく灰色の世界で、不意に目覚めた。
いつのまにか、頭部に打撃を受けていた。
極度の衝撃を受けた頸椎や、衝撃で破壊された蝸牛の組織が改めて重点的に修復され、一時的にアルファⅡモナルキアに委託されていた身体運動制御がリーンズィの生体脳および人工脳髄へと完全に復帰。
自身の対角線上を走るミラーズへの曖昧な欲望は霧散して、目的意識は眼前の敵性スチーム・ヘッドの打倒へと再び定まる。
手甲の両手に握りしめて下段に構えた斧槍が、粘性の大気を切り裂いていく感覚がはっきりと帰ってきた。
『リーンズィ、回答の入力を』
『問題ない。気絶していた?』
『損傷は重度ですが、軽微です』
『矛盾していないか?』
その時になって、リーンズィはようやく自身の鼻孔からも出血しているのを発見する。敵性スチーム・ヘッドから受けたダメージは予想より大きいらしい。
やや離れた地点で狙撃態勢を取っているモナルキアの視界を取得して、血煙の排気と自身の腰部から伸びる黒煙の尾の狭間から、己の様相を垣間見た。
走行する姿勢に異常は無い。行動に支障が出るほどの外傷も無い。
だが鼻血を垂らす様を晒しているのは、やはり甚だ不本意だった。
そして黒いバイザーの視界に、大鴉の少女の顔が明瞭に捕らえられた瞬間、視覚の共有によって、リーンズィは自分の身に何が起こったのかを完全に把握した。
あまりの不愉快さに、ライトブラウンの髪の下で視線を研ぎ澄ませて、鋭く唇を引き絞る。
口は閉ざされている。
それでも食いしばった歯を隠せない。
顔の左側には頬肉が存在しておらず、ぎりりと噛み合わせた上下の象牙色の美しい歯列が、無残にも外部に露出していた。
感覚器に損傷はないにせよ、確かに凄絶な損傷ではある。
ミラーズはただ心配をしていたのではなく、損傷の度合いを観察していたのだろう。
いやいや、一周回ってやっぱり私を心配してくれていたのだ、とリーンズィはサイコ・サージカル・アジャストが作動して沈静化した脳髄で考え、意識が混濁していた時と思考の方向性が然程変わっていないことに気付いて、セルフチェックをかけた。大丈夫。致命的な異常はない。
外部から己の有様を観察すると、やはり顔の左半分を吹き飛ばされたことよりも、鼻血が出ていることに全く気付いていなかった己の間抜けさが癇に障った。
いつのまにか、アルファⅡウンドワートに一撃を食らったらしい。
身体動作のログが飛んでしまっている。ユイシスに情報の確認を要請する。
斧槍の石突きで打撃攻撃を仕掛けた際に、インパクトに合せて繰り出された肘鉄の直撃を左の顔面に受けたようだった。主要な血管の修復はとっくに終了しており、痛覚も遮断しているため文字通り痛痒さえ無い。オーバードライブ中はガス交換には鼻孔を使用しないため、毛細血管が大量に破損して出血したところで一つの支障も無い。
損傷は重度だが軽微。まさしくその通りだ。おかげでリーンズィはミラーズの前でこんな醜態を晒していると察知できていなかったのだ。
手甲でぐいと鼻筋を拭いながら、痛ましそうな顔のミラーズに自身が健在であることを示す。
今は戦闘中だ。
アルファⅡウンドワート撹乱のための高速機動を続行。
視線は標的に固定し、円を描くようにして走り続ける。
回復した意識で戦闘の経過を再確認する。
リーンズィとミラーズ。格闘戦闘能力に長けたどちらか一機は、この恐るべき白ウサギ、ウンドワートの死角を狙えるようにフォーメーションを維持してきたが、それらの小細工は全く効果がないように思えた。
ミラーズは、その機体のシルエットを狼や狐よりはむしろ兎に似ていると評した。
超音速対艦ミサイルの直撃でも破壊不能な素材で装甲され、両手に旧時代の戦車の前面装甲を貫徹する五本の爪を与えられた、二対二連のレンズを持つ体長3mほどの兎である。
言われてみれば兎っぽい、と暢気に思えたのは、攻撃を仕掛けて0.01秒ほどの短時間だ。
人類文化継承連帯製アルファⅡ、ウンドワート。
おそらくはアルファⅡモナルキアとは違う時間枝からやってきたのであろう、見知らぬ姉妹。
未知の同型機。
現在のリーンズィは、侮るでも訝るでもなく、その機体の放つ凄まじい重圧に身を強張らせている。
兎などでは断じてなかった。
おおよそ隙と呼べる物が、そのスチーム・ヘッドには存在していない。
難攻不落の要塞が、二本の脚で立っているようにさえ感じられる。
一瞬だけ注意をスチーム・パペット、ポーキュパインへと向ける。災禍から身を守らんとして巨体を縮こまらせている彼の方が、それでもなおアルファⅡウンドワートよりも巨大だ。
だがアルファⅡウンドワートの脅威レベルはポーキュパインを突き放していた。
全容は知れないが、あるいは全自動戦争装置の端末、フリアエにも匹敵するかもしれない。
『……いったい何をすればダメージが入る?』
ユイシスとともに思い悩む。
顔面に一撃を受けたあのとき。
リーンズィが切断や刺突ではなく殴打によるダメージを狙ったのは、それが現状でまだ試していない最後の攻撃手段だったからだ。
既に何度か攻撃を実行しているが刃は全く通じなかった。結晶純度で劣っているのだから当然ではある。傷つけるどころか、斧槍が折れてしまわないように刃先をコントロールするのが精一杯だった。
そうして半ば自棄になって打ち込んだ打撃は、リーンズィの肩や肘の関節を傷め、さらに顔面にカウンターをもらっただけで終わった。
あまりにも邪魔だったのでヴァローナの鴉面はつけていないのだが、やはり頭部を保護しないまま肉薄するのは無謀だったかもしれない、と誰かが咎めてくる。
それに対して、いや、断じて無謀な突撃はない、実行可能な通常攻撃を総当たりした結果だ、と少女は内心で不平を零す。
全身を高純度の不朽結晶で覆っているのだから、当然ながら物理攻撃はほとんど通じないだろう。
アルファⅡモナルキアは最初からそう予想していた。
そしてこの予想は、脆弱なはずの関節部に斬り込んだヴァローナの斧槍が、逆に刃毀れを起こしてしまうという最悪の結果で訂正されてしまっている。
リーンズィは当初自分がヴァローナの技量を引き出すことに失敗したのではないかと怪しんだが、達人であるシィーの写像に等しく、武器の結晶純度でも勝るミラーズの攻撃も全く通じなかった。
ウンドワートとの間に絶望的な性能差があると認めた方が妥当だった。
つまり、ほとんど通じないのではなく、全く通じないのだ。
『でも、こんなのはズルい。完璧な角度で斬り込んだのだから、少しぐらい血が出たりするのが道理というものだ』
統合支援AIに支離滅裂な愚痴をこぼしつつ、より高度な戦術への移行をミラーズへと伝達する。
『ミラーズ、私たちの攻撃ではダメージを与えられない。アルファⅡモナルキア本体が弾体の生成を完了した。ミラーズは発射のタイミングに合わせて……』
『警告』
脳裏に怜悧な女の声が響く。嘲るような響きは、今はない。
『現在、エージェント同士での戦術的な通信は、推奨されません。敵性スチーム・ヘッドの電子戦能力は、局地的には当機に匹敵し得るものと推定されます』
リーンズィはぎょっとした。
『人工脳髄のクラッキングが有り得る……と言うことか?』
『否定。当機を上回るものでは無いと断定します。しかし、敗北への道筋は可能な限り塞いでおくべきです』
ユイシスの判断はあくまでも冷静な物だった。
『オーバードライブ起動から1700ミリ秒経過しています。我々の戦力評価は、敵性スチーム・ヘッドに対し、依然として明確に劣位です』
リーンズィの肉体、アンビバレントな美を湛える少女の面相で、露出した歯列が悔しげに歯を軋らせる。
アルファⅡウンドワートを行動停止に追い込むことは、リーンズィにとっては困難ではあれども、非現実的ではない目標だった。
少なくとも戦闘開始前は、そう考えていた。
今は違う。
――我々はいったい何を差し出せば、この怪物を止められるのか? そんな捨て鉢な想像すら、辿り着くべき答えを見つけられず消失してしまう。
何もかもが信じがたい。
ズルい、という言葉すら虚しいほどに隔絶している。
リーンズィが意思決定を行う現在のアルファⅡモナルキア群体は、未だにアルファⅡウンドワートにただの一太刀も与えられていない。
それだけが現実だった。
初歩の事実として、スチーム・ヘッド同士の戦闘は先手を取った側に常にアドバンテージがある。最初の一撃で勝負が決まることも多い。
ましてや完璧に同期した二機のスチーム・ヘッドの先制攻撃を、後手に回って無傷で捌くのは、極めて難しい。
これはシィーほどの実力者でも同じだ。リーンズィとミラーズが連携して攻撃を行えば、おそらく『どうやってダメージを抑えるか』に全てのリソースを割くことになる。
だがウンドワートは、最初の攻撃を欠伸混じりにいなしてみせた。最も有利であったはずの瞬間ですらリーンズィたちには優位性がなかったということだ。
以降、1700ミリ秒もの間攻撃を仕掛け続けているが、ウンドワートは全く変わらない調子で防御を続けている。
極限にまで引き延ばされた時間の中で、超音速の攻撃をただ凌ぎ続けるなど、全ての機能制限を解除したアルファⅡモナルキア本体でなければ不可能だろう。
だが、目前に鎮座する純白の全身甲冑型スチーム・ヘッド、アルファⅡウンドワートは違う。
ごく当たり前のように、不可能である筈の絶対防御を実現させている。
しかも、ほとんど脚を使っていない。バイタルパートに切り込もうとすると多少の反応は見せるが、あとは両手で蠅を追い払うが如くだ。
死角から斧槍を構えて突撃しても、その一撃は予期されていたかのような最小限の動きで回避され、おまけと言わんばかりに、明らかに手加減された一撃が腹部や頭部に叩き込まれる。
どうすればその目を掻い潜れるのかも分からない。アルファⅡウンドワートはおそらくありとあらゆる攻撃を回避可能なだけの機動力を有している。
アルファⅡモナルキア側の攻撃が何度か命中したのは、戦術が有効だったのではなく、ただ性能を測られていただけだ、というのが現在のリーンズィの認識だった。
性能差が極端なものであると仮定すると、今度はどこまで相手の性能が高いのか分からなくなる。ここまで手玉に取られるのは異常だ。
ウンドワートの頭部に取り付けられたセンサーユニットからは絶えず探知波が放射されているらしい、ということは特定出来ている。おそらくは後頭部にもカメラの類が内蔵されている。アルファⅡモナルキア自身にそのような機能が搭載されているのだから当然なのだが、それ以上のことは判然としない。
スチーム・ヘッドの数だけで言えば圧倒的に勝っている。三対一だ。全身甲冑型とは言え、オーバードライブが使用可能な機体が二人組で近接戦闘を仕掛けるのであれば、1700ミリ秒もあれば決定打に繋がるあらゆる考え得る筋道を試すことが可能だ。
しかし、どのように攻撃しても、殆ど片手間のような動作で完璧に防御されてしまう。
リーンズィは視線を己が本体、アルファⅡモナルキアへと向けた。
ミラーズと二人で注意を引き付けている間に狙撃支援態勢に入らせており、二機のサブエージェントの演算を支援しているせいでやや時間がかかったが、
ここからは一段階上の上の攻撃が可能なる。
しかし、とリーンズィの抉られた左頬で、血濡れの歯列の隙間から息が漏れる。
この攻撃も、果たして通用するかどうか……。
『ねぇ、退くの、仕掛けるの。悩んでいられる時間はないわよ』と痺れを切らしたミラーズからの通信。『もうだいたいこの人の考えてることは分かった。あんまり強く言っても仕方が無い人よ、これ。どうするの? あたしはあなたが納得できる方に賛成するけどね』
『警告。ミラーズ、傍受を避けるために通信は極力当機を介して……』
『ねぇ、分かっているんでしょ。あんまり意味がないのではありませんか、ユイシス? あちらもアルファⅡなら、とっくに解析も傍受も終えていると思います。私たちのアルファⅡと同等かそれ以上の勇士だと言うのならば』
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