望まれた朝のために②
反省した面持ちで、ミラーズはライトブラウンの髪の少女に手を振り返す。
今度こそ彼女は帰って行った。
マスターは背中が完全に見えなくなってから、「調査に出てるときの方が楽だわ……」と溜息を吐いた。
リーンズィは申し訳ない気分で小さく頭を下げた。
「うちのミラーズが迷惑を掛けてすまない……」
「いや、いいさ。誰かが止めないといけなかった。今後これより険悪な事態にはならないだろうし、客が増えるのは俺にとっても嬉しいことだ」
言いながらも思わずと言った様子で身震いをする。
「しかし、あれが旧世代のレーゲントの実力か……おっそろしい。あいつが手も足も出ないで、こんな……暴力に訴えずにここまでやれるなんてな。ロジーやらラーテやらの手管は知ってるつもりだったが……大主教リリウムの生みの親って噂はマジなのか……」
ライトブラウンの髪の少女は、ますますしょげてしまった。
「レアせんぱいをいじめていただけのような気もするが……」
「いじめじゃないわ……あれはね、攻撃されてたのよ。立派な戦闘行為よ……」
レアはようやく顔を上げた。
非現実的な美貌にはしどけなく汗に濡れた髪がかかったままで、頬は上気しており、目も潤んでいたが、正気は保っているらしい。
「指向性を与えた『原初の聖句』で、対象の思考と感情を固定・増幅させながら、ボディタッチと言葉で意識を誘導し、変性させる。私もこの装備じゃ抵抗できない。もうレーゲントじゃないって言うけど、あれは現役の上級レーゲントも顔負けね。全盛期にはどれだけ撃墜数を出してたのか、気になるぐらいだわ」
「ミラーズは原初の聖句を使っていたのか?」
「無自覚の可能性もあるわね。息をするような自然さで、人間の精神を操作する音を会話に組み込める。しかも音自体に指向性を持たせてね。あれは魔性を持った女よ。大企業の一つか二つは食い潰してるんじゃないの……」
「お前が素直に負けを認めるとは珍しいな」
「勝負じゃないし。負けてない。まだ負けてないもん」レアはむくれた。「……それにしてもリーンズィ、あなたミラーズの前だとそんな顔するのね?」
「そんな顔?」
「目をキラキラさせて、恋する乙女って感じよ。ミラーズになら、いつ、何をされたって構わないっていう顔。そこまであなたを仕上げてるなんて、はっきり言って嫉妬するわ」
リーンズィにはまるで自覚が無かったが、指摘されても不思議には思わなかった。思考様式の要素の大部分が、ミラーズへの愛着感情から作成されていることは客観的な事実に過ぎない。生みの親にも等しいミラーズに全幅の信頼を置くのも当然である。
不思議そうな顔をしているリーンズィに思うところがあるのか、がりがりと頭を搔きながら、レアは荒く息を吐いた。
「でもねリーンズィ、忠告するわ。あんなカルト被れを慕っても良いことは何も無いわよ。あなたもさっさとあいつから離れた方が良い。上級レーゲントっていうのは存在そのものが狂気なのよ、関わってるうちにどんどん思考を変質させられていって……」
「おい、レア」
リーンズィが言葉を返す前に、マグカップにコーヒーを注いだマスターがその名を呼んだ。
「お前はレアだ。違うか? レア先輩なんだろ。じゃあ、『それらしく』しろ。あのレーゲントが言っていた通りだ。『レア先輩』を、やれ。リーンズィの信じるスチーム・ヘッドになれ」
マスターのくぐもった声に、レアは目を伏せた。
仕方がなさそうにマスターは溜息をつく。
「もう一切れ、イチゴジャム付きのパンをやる。お前やっぱり疲れすぎだよ。ちょっとまともじゃなくなってる。さっさと負荷の発散をしてこい」
レアは差し出されたパンを受取ると、無理矢理口に押し込んで、コーヒーを煽って一気に飲み込んだ。
噎せて、涙目で息をする。
「がっつくなよ。時間はいくらでもある。ありすぎる。俺たちは逃げも隠れも出来ない。無限の時間が横たわっている。慌てる必要なんてないんだ」
「そうよね。私たちの命は永久に、永久に終わらないわ。これじゃ、盛りの付いたウサギよね……情けないったら……リーンズィ、今日のことは忘れて。恥ずかしいところを見せてしまったわね」
レアは痛ましい笑みを浮かべながら立ち上がった。
細い脚は小刻みに震えており、不滅にして不朽であるべき肉体に異常なまでの負荷が蓄積しているのはもはや疑いようもない。
『勇士の館』まで自力で歩いて行けるのかリーンズィは疑問に感じた。
「レアせんぱい」
リーンズィが、手を掴んで引き留める。レアはビクリと震えて、淡く色づいた唇を戦慄かせて、リーンズィを見た。
「……大丈夫だから。今日のことは忘れなさい、リーンズィ。私とあなたの間には何も無かった」
「せんぱいは、私の『無かったこと』に出来ない。せんぱいは、せんぱいだ」
「そう」
レアは躊躇いがちに視線を逸らし、深呼吸をした。
何か、言葉を思い出しているような素振りだった。
頬を赤く染めた勝ち気な美貌が、リーンズィを見据えた。
「……ごめんなさい、リーンズィ。本当にごめんなさい。今日、私はあなたを傷つけるところだった。イヤだったでしょう? 失望させたわよね。……私を許してくれる? 私を、これからもせんぱいって呼んでくれる?」
「もちろん」
リーンズィは頷いた。
レアは糸が切れたように表情を和らげた。一度だけリーンズィの頬に手を添え、唇を近づけたが、すんでの所で衝動に打ち勝ち、進むべき道へ強引に歩を進めていった。眺めているだけで心配になる、不安定な足取りだった。
それでもリーンズィの緑色の瞳には、朝の淡い光を取り込んで輝く紅玉の美しさが焼き付いた。
唇ぐらいは許される仲なのでは、と残念に思う。
「レアを許してやってくれるか?」
今日の分は最後だ、と言いながらマスターがリーンズィの前にコーヒーを置いた。
対面に座り、自分用らしい金属製のカップでコーヒーを飲み始めた。
「私は何も怒っていない」
「でも、奪われそうになっただろ?」
「何を?」
「さぁ……貞操とか、かな……?」マスターは考え込んだ。「俺たちに貞操っていう概念はあんまり無いが」
「レア先輩には沢山貰ってばかりだ。私自身をあげても、別に支障は無かった」
「そういう話じゃないんだ」
「マスターはどう思う? 私はどうすれれば良かった……?」
「あれで良かったんじゃないかね」コーヒーで熱された口腔から、ふ、と白い煙が零れた。「権力を笠にし着て、可愛い後輩を意のままにする……お前が尊敬するレアを想像してみろよ。そんな蛮行を喜ぶスチーム・ヘッドじゃないだろ?」
「……かもしれない」
「しれない、じゃない。そうなんだよ。お前の中のあいつは、きっとそんなことをしない。だからあいつは精一杯『らしく』振る舞おうとしている」
ヘルメットの下で男は仕方がなさそうに笑った。
「あいつもきっと、思うがままにしてたら、後悔してたさ。恥じ入って、もう二度とお前の顔を見れなかったかもな。……今は疲れてるだけなんだ。使命を果たせず、命題をクリアできず、錯乱してるだけだ。だから、お前さんたちが今回取ったような対応が正しい」
「……つまり、私は贈り物になれない?」
「よせよ。そんなもの、誰にもなれん」
「じゃあ他に贈り物を考えないといけない」
ちびちびとコーヒーを啜りながら、リーンズィは思い詰めたような真剣な目をした。
「レアせんぱいは、何を嬉しがるだろう?」
「今のあいつは何も欲しがらないさ」
「私が一方的に贈りたいんだ。レアせんぱいは好きだ。ちゃんとお礼がしたい」
「そうか。……あいつは良い後輩を持ったな」
「うん。私は良い後輩になりたい」
その時、どこからともなく声が響いた。
「ケンカですか?」
「この声は……!」マスターが椅子から立って、周囲を見渡した。「厄介なのが来た。どこだ?!」
すると、にゃー、と気の抜けた声を出しながら猫が一匹降ってきて、見事に宙返りをしてアスファルトに着地した。
「上か?!」
「上にいる、マスター!」
ライトブラウンの髪の少女は、我知らず興奮して指差した。
「はい。私はここにいます」
建造物の屋根の上に、颯爽と立つレーゲントの姿があった。
その猫っ毛を風に靡かせる少女を――
二人のスチーム・ヘッドは知っている!
「猫の人だ!」
「ロンキャだ!」
「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです。警告に来ました。まだ朝五時前です。夜間です。夜間なので迷惑行為は禁止されています。夜を守るのが私の仕事ですので。えいっ」
ロングキャットグッドナイトは、猫に引き続いて身を躍らせた。
そして特に受け身も取らずアスファルトに頭から墜落して死んだ。
即死だった。
ぐしゃっ、と頭が石榴となって砕けた。
「猫の人?!」
「ロンキャ?!」
墜落直後の少女はぴくりとも動かなかった。
リーンズィもマスターも、不死病患者の性質は文字通り我が身で心得ている。
たかが頭が砕けた程度。遅くとも十数秒で蘇生するだろう。
それでも二人が駆け寄ったりしなかったのは、まさか普通に墜落死するとは考えておらず、予想外の展開に虚を突かれてしまったからだ。
見ているうちに、主人の死を理解していないのであろう三毛猫が、間延びした鳴き声を上げながらロングキャットグッドナイトにすり寄っていった。
そして行進聖詠服で装甲されていない部位の薄い肉をがじがじと齧り始めた。
「あっ、猫の人が!」
「起きろロンキャ! 食べられてる! 食べられてるぞお前!」
ロングキャットグッドナイトが死体だったのは数秒のことだ。神経や筋繊維の束が無作為に伸び、猫を払いのけ、飛び散った肉片を引き寄せて結合させるや否や、元の恒常性を取り戻した少女は、何事も無かったかのように起き上がった。
けほけほと咳をして気道に詰まった血肉を吐き出した。
そして口の周りを血で赤く染めた猫を見つめて、抱き上げて、空に向かって高く掲げた。
どういう意図がある行為なのか分からず、リーンズィとマスターは顔を見合わせた。
猫がニャーと鳴いた。
猫を下ろした。
「めっ、です。まだご飯の時間ではないので」
やる気が無さそうに猫を咎め、改めて二人に向き直る。
「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです」
「え? それはさっき聞いたが……」リーンズィは戸惑った。
「そうですか。しかし私の主観ではまだ言ってないので」
「頭とか色々打ってるのだな……」
「打っていたのですか?」
「すまん、聞いても良いか?」マスターも相当に狼狽していた。「お前、今の飛び降り、割と高頻度でやってるのか……?」
「稀に失敗しているようですが、大抵は大怪我で済みます。猫の加護を受けし身なので」
「せめて受け身とかしろよ」
「人間は重力に引かれて堕ちる生き物なので。神の影に侍う偉大な猫たちと同じようにはいきません」
「いや、出来るからな。あれぐらいなら受け身は全然出来る。今度俺の所に来いよ、他のやつらの教練のついでに教えてやるから……最低限死なない着地を……」
「覚えていれば御言葉に甘えます。でも、三歩歩けば忘れる猫なのでした。それにしたって、誤魔化そうとしてもダメですよ。ケンカですね? 騒ぎ声がしたので猫を追い、一生懸命ここまで来ました」
「ケンカ……」ライトブラウンの髪の少女は、視線でマスターに問うた。「ケンカだった、かな?」
「そうだな……ケンカと言えばケンカだったかもな」
「やはりそうでしたか。もう治まっているようなので何よりです。互いを許し合えたのは祝福すべきでしょう。ハレルヤハ。しかし夜間の迷惑行為は禁止です。リリウム様がそのようにお定めになりました」
お決まりの文句を言いながら、すんすんと鼻を鳴らす。
「……キジールの匂いがします。キジールがいたのですか? セラフィニアに知らせないと……ずっと寂しがっていて……」ぼそぼそと呪文を唱えるように少女は呟き始めた。「ヴァータ……キジール……また四人で一緒に……聖父様のところへ……聖歌隊を……どうして……? キジール……」
リーンズィは目を丸くした。
「猫の人。キジールを、聖歌隊だった頃の彼女を知っているのか?」
ロングキャットグッドナイトは応えなかった。
正確には、自分自身が何を口にしているのか分かっていなかった。キジールの名を呼ぶ声はいかにも頼りなく、意思に基づく発話と言うよりは、夢見の幼子の寝言のようであった。
「でも、猫はいます!」
猫を掲げる。
それが回答だった。
何に対する『でも』なのか、リーンズィには意味が取れない。
「そうでした。ケンカなのですね?」
ロングキャットグッドナイトはまたも生気の無い瞳で猫を掲げた。
「次回からはペナルティがあります。猫も三回目のパンチで爪を出すと言います」
「言うのか。言うの……?」
「俺も初めて聞いたぞ」
「ここしばらくで、私キャットを二度も怒らせたのはあなたたちだけです。覚悟して下さい。私も夜を守る聖なる猫の使者として使命がありますので。あーっ、待って下さい……!」
猫が逃げ出した。
「それでは皆様、良い朝を。ロングキャットグッドナイトでした」
走り出した三毛猫を追って猫のレーゲントは姿を消した。
ヘルメットの男はその方角を見ながら椅子に座り、放置していたコーヒーを飲もうとして、「冷たっ……」と一人ごちた。
「何か疲れたな、この朝は……俺この後任務なんだけど……休みに出来ないかな……出来ないよなぁ」
「マスター、聖なる猫とは?」
あまりにも気になる単語だったのでリーンズィは尋ねてみた。
「そういう何か……すごい猫がいる?」
「なんだ。猫好きなのか? 俺は今、猫が人間食ってるところ見て、若干嫌になったけど」
「可愛いとは思う。すごい猫がいるなら見てみたい」
「いや、知らんな。あいつに直接聞いてくれ。でもあいつおかしいし……たぶん妄想だろ……」
マスターはふと思いついたらしく、誰を警戒してか、小声で尋ねてきた。
「なぁ、気になったんだが、あいつ、人工脳髄つけてなくないか?」
「……省サイズなのでは?」
リーンズィは髪を掻き上げ、小さな水仙の造花、聖歌隊の人工脳髄を露出する。
「私の頭にもヴァローナの人工脳髄が刺さったままだが、こうして髪に隠れる程度のサイズだ」
「あー、そうかもな。ロンキャは髪の毛もくしゃくしゃだし。造花の部分が小さかったら、外からはあんまり見えないかもしれんな」
リーンズィも、しかし言われてみれば、と疑問に感じた。
ロングキャットグッドナイトなるスチーム・ヘッドの、その頭部にあるべき人工脳髄を、確かに視認出来ていない。
原理上、不死病患者は人工脳髄および人格記録媒体無しでは自発的な意思で活動できないため、どこかにはあるのだろうが、あのレーゲントに限っては何だか例外のように思えて、リーンズィはその非論理的な思考に落ち着かない気持ちになった。
キジールのことを知っていた点も非常に気に掛かる。
いったいどういう関係だったのだろうか?
今は、考えるのはやめにしよう、とリーンズィは溜息を吐く。
あまりにも多くの『初めて』が一度に起こりすぎた。これ以上無闇に考え続けると生体脳髄に過度な負荷が生じそうだ。
アルファⅡモナルキア本体からの支援に頼らない生活に、
何とも奇妙な出来事が続く朝だった。
そうした事実について、またマスターと幾つか言葉を交し、やがてリーンズィも販売所から立ち去った。
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