望まれた朝のために①
「ミラーズ?」
リーンズィが我に返ったのは、ふわふわと揺れる金色の髪に抱き寄せられたときだ。
脇に押し退けられたレアは、蒼白の顔をしたまま、耐えがたいといった面持ちで二人の接触を凝視していた。
暗い熱情が疼いていた瞳は一層猛々しく燃え上がり、視線の先にあるものを焼き尽くしてしまいそうな程に赤く輝いている。
「そう……そうよね……あなた、私の邪魔を……しにきたのね……」
震える声を絞り出したレアに、ミラーズは余裕たっぷりに視線を向ける。
「それで、そんなふうに、私に見せつけて……」
「いいえ?」
ミラーズはリーンズィから身を離した。
艶然と笑んで、軽く一歩、レアへと近寄った。
白髪の少女は咄嗟に席から立ち上がり、一歩離れた。藪から現れた大型の肉食獣を目にした小動物の如く後退り、怯んで息を吐く。
その隙に、ミラーズは硬いブーツを鳴らし、さらなる一歩を踏み込んだ。
レアは今度こそ圧倒された。見開かれた目は、ミラーズだけに釘付けになった。
赤い瞳は、未だ褪めぬ黎明の青と爛々と輝くミラーズの翠玉の瞳を映して小刻みに揺れている。
呆然として傍から眺めているリーンズィにも明らかなほどに、レアの劣勢だ。
「言ったでしょう? ロジーの管理する『勇士の館』からの帰り道です。それ以上でも以下でもありません。この出会いに他の意味はありませんよ。ねぇ、レアせんぱい?」
「……そっちがどこから来て、何をして来たのかなんて、言われなくたって分かるわよ。その百合の花みたいな匂い、リリウムどもの特徴よね。どうせならそっちに移住すれば良いんじゃない?!」
「何が良いの。何も良くないわ。リーンズィは私のもの」
不意に無表情になったミラーズに、レアは怯懦の色を見せた。
そのタイミングで、ミラーズはさらに距離を詰めた。少女の腕をたぐり寄せて、重心をくるりと反転させ、レアが声を上げるよりも早く互いの位置を入れ替えた。そのままそっと薄い胸を押して、逃げようとしてたレアを席の元の位置へと押し込めた。
「あたしも愛を知ることには寛容な方よ。ましてやリーンズィは、あたしやユイシス、眠りかけのヴォイドのことしか知らないまま生まれてきたんだもの。人生の手習いとして、あなたのような優秀なスチーム・ヘッドの友人なり恋人なりが必要よね」
「あなたが口出しする話じゃないでしょ?!」
「間違ったことを口にしているのは私も分かっていますよ。でも私たちのリーンズィを閨に引き込んで乱暴をしようと言うのなら、見過ごすわけにはいかないの」
ミラーズは恋人同士の距離に滑り込み、レアの首筋に腕を絡め、強引に体を抱き寄せた。
同年代の少女が仲睦まじく抱擁している有様に見えなくもないが、スチーム・ヘッドの外観年齢はさして重要な問題ではない。万事は装填されている人格記録媒体の質で決まり、性別に関係なく、事前の同意無しに相手のボディに触れることは、宣戦布告にも等しい行動として解釈される。
そしてどうであれ、先手を取った方が圧倒的に有利だ。
「やましい気持ちがあるんでしょう? だからこんなことをされても、あたしに抵抗出来ない。あたし、つまりミラーズのほうが偉い、ミラーズのほうがリーンズィに相応しいって理解しているんだもの」
「……っ」レアは羞恥に頬を染めて、唇を震わせた。「わっ、私を誰だと思って……!」
「あら、もう一度身分を示す名乗りをした方が良いかしら?」
金色の髪をした少女は、レアの処女雪のような首筋に唇を当て、フライトジャケット風ミリタリーコートの上から背筋をなぞった。逃げ出そうとするレアを、しかし抱きしめて離さない。
「あなたがどこの誰で、どれだけの戦果、どれだけの名声を得ていたとしても、後ろ盾の数では負ける気がしないわね。このままあなたに何をするか知りたい? 知ることを、知りたいかしら? ええ、こちらのほうでは、あなたはあたしに絶対勝てないわ。多くを知らないあなたではね」
「やっぱり、わっ……私が、私が、誰だか、分かっていて……全部分かっていて……」
ミラーズは殆ど取り合わず、力なく藻掻くレアの背中に指を這わせ続けた。
「ええと、ヘカントンケイルがあなたの専属だったかしら。あたしがヘカティの代わりに、今この場で、あなたを『めちゃくちゃ』にしてあげてもいいのだけど。あなたが私のリーンズィにするつもりだったのと同じようなことを」
「違うっ」
レアは弾かれたように顔を背け、肩越しにリーンズィへと涙の滲んだ目を向けて、それから目を伏せて、何度も首を振った。
「違うっ、違うの、違うっ! 私は、そんなつもりじゃ……この子に、私の大切な後輩に、そんなことするつもりじゃ……」
「……じゃあ、どんなつもりだったのかしら?」
ミラーズが耳元で囁くと、レアは耳まで紅潮させて、目を伏せて、硬く口を閉ざし、それから追い詰められた赤い目でリーンズィを見た。ミラーズに再び抵抗する素振りを見せたが、ミラーズの胸に抱かれている今は、座り込むことすら許されない。
「本心じゃ……なかったの。そんなことをするつもりじゃなかったの。ねぇ、私を信じて……私を許して……お願いよ、リーンズィ……」
懇願する声に、ライトブラウンの髪をした少女は、ようやく自分が成すべきことを理解した。
二人の間に割って入らなければならない。
一時は剣呑な雰囲気だった移動販売車が、剣呑を通り越して尋常ならざる雰囲気に飲まれて沈黙している。
レアとリーンズィを止めるつもりでいたらしいマスターですら、判断しかねた様子で、ずっとその場でフリーズしていた。
この場で自分が止めなければ、事態がどのように推移するのか知れたものでは無かった。
「良いだろうか、ミラーズ」
「どうかしたのかしら、リーンズィ?」
レアを拘束しながら、修道女もかくやという清廉な微笑を湛えて問い返してくるミラーズに、リーンズィはゆっくりとした発音で語りかけた。
「ミラーズが思っているようなことは……よく分からないが……まだ起こっていないし、きっと起こらなかった。レアせんぱいは疲れていただけなんだ。だから、戯れるのはそこまでに……」
「もちろん、こんなのはお遊びですよ。あなたが懇意の方がいらっしゃると聞いたので、ご挨拶に来ただけ。ねぇ、こんなのはただのご挨拶ですよね? レアせんぱい? いいえ……」
そうして誰かの名前をレアに耳打ちする。
目を薄く開き、哀願するように息を吐いたレアの頬に軽く口づけをして、ミラーズは踊るような所作でその体を解放した。
すとん、と腰を抜かして座席に体を落とした白髪の少女を、リーンズィの両手が慌てて受け止める。
だが、震える赤い目の少女は我が身を抱くようにしてリーンズィを拒んだ。
「そんなに怒らないでくださいね、レア。あなたのことは悪くは思っていないのですよ?」ミラーズは嗤う。「リーンズィと親しくしてくださっているのには、とても感謝しています。リーンズィの最初のお友達ですものね。けれど、私たちのリーンズィを強引に自分の物にしようというのなら、私にも、幾らでも贈る言葉があります。あなたたちの仲を引き裂くかもしれない言葉を。あなたも知っていますね?」
「違うの……」
レアは、誰にも顔が見えないよう顔を伏せたまま首を振った。
「違う……私はそんなやつじゃない……私だって、違う誰かになれるんだから……」
「弁解を聞く必要を感じません」
「お願い、お願いよ、もう一度チャンスを……」
「一度も二度も無いわ。だって……私はあなたを信じますから」
皺一つ無い行進聖詠服を見せつけるように、くるくると回りながら。
ミラーズは、唐突にそんなことを言い放った。
レアは、天使のように微笑む少女を呆然として見上げた。
「……どういうことよ」
「可愛らしい戦士様。リーンズィがあなたを信じているのだもの、私が疑うことなんて何もありはしません。ただ、あなたの善性を信じます。あなたこそ、どう思っているのですか。どうして心にそのような邪念を抱くの? あなたはリーンズィを信じている? 信じていたいですか? 信じていてほしい?」
猫を撫でるような優しい声音で囁きながら、身を屈め、朝日を浴びて輝く足跡の無い雪原にも似た美しい髪に指を通す。
「ねぇ、レア……あなたは、リーンズィの信じるような人でいたい?」
少女はミラーズの手を払い除けた。
そして顔を上げた。
忌々しそうに自分で白髪をくしゃくしゃと指で梳かし、沈んだ声で応えた。
「……そうね。あなたの言いたいことは、分かるわ。そんな考えを起こす私が悪かったのよね」
「ハレルヤハ。分かってもらえた様子で何よりです。最後に一つだけ教えてあげますけど、ごめんなさい、は口で言わないと誰にも伝わりませんよ。さぁ、もう私の口出しすることはありませんね。リーンズィ、ご挨拶も終わりましたし、私は先に帰っていますね」
「う、うん……」
リーンズィは曖昧な顔で頷き、吹いてくる風に心地よく冷やされていく肉体を知覚し、そうして自分が多量に汗をかいていたことに気付いた。
まるで激しい戦闘でも巻き込まれたかのように全身が気怠い。
不死病患者の肉体は、簡単には疲弊しない。それがために不死の軍隊で不休の兵士として活用されていたのだから、この疲労は、まさしくリーンズィ自身の精神活動から生じたものであった。
頭の上にベレー帽を乗せた小さな影が遠ざかっていく。
レアは見送ることも無く、手を振ることも無く、別れを口にする素振りも見せなかった。
地平線で溶けかけた太陽、遙か彼方から投げかけられる黒い塔の影の下で項垂れて、半ばテーブルに突っ伏すようにしながら、体を時折震わせて、はっ、はっ、と短く呼吸をしていた。
頭をかきむしり、熱病患者めいた視線を虚空に彷徨わせ、「私は違う、私は違う、私の名前はレア、私はあんな乱暴者とは違う、私は良い先輩になるの、私だってなりたい自分になれる……」と譫言めいた言葉を繰り返している。
「とりあえずマスター、せんぱいにコーヒーを……」
「お、おう、そうだな……」
同様に疲れ果てた佇まいのマスターが、ふらふらとキッチンカーの簡易厨房に戻った。ほぼ同じタイミングで「キング・オブ・キングス、ロード・オブ・ローズ♪」と機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてきた。
ミラーズだった。
何かの理由で戻ってきたのだ。先ほどとは別人かと思うほど機嫌が良く、哀れにも再び硬直してしまったマスターの前でぴたりと止まった。
マスターが「助けてくれ」と無言で視線を向けてきているのを感じたが、リーンズィは無言で首を横に振った。
「あなたにはご挨拶がまだでしたね。私はアルファⅡモナルキアのエージェントの一人、ミラーズです。いつもリーンズィがお世話になっております。この子はご迷惑をかけてはいませんか?」
「あ、ああ、どうもご丁寧に……」
ヘルメットの男は、自分よりも圧倒的に小さなその少女に、恭しく頭を下げた。
「リーンズィは、行儀良くは……してると思いますが」
「丁寧語を使う必要はありませんよ。私はこんな口しか聞けない人間ですが、ペーダソス様も一つの部隊の長ではありませんか。ファデル様に従ってはおられますが、本来なら私どもと同じ立場なのでしょう?」
「いや、ここでは一介の商売人なんで……」マスターは声を潜めた。「何か御用でしょうか?」
「ええ。レア様の芳しい香りに宛てられて、すっかり忘れてしまっていました。コーヒーの良い香りがしますね。あたし、コーヒーが大好きなの。是非一杯飲ませて欲しくて」
「それは良かった。じゃあリーンズィに保温ポットごと持たせてお贈りしますので、後ほどお部屋でゆっくりと味わって下さい」
「こちらで頂くことは出来ないのですか?」
「今日は、あなたに散々やり込められて、そこの座席で丸まってるやつの貸し切りです。そう決めました」
マスターは決然として言い切り、頭を下げた。
レアはミラーズの接近にすら気付かず、苦しげに呻き続けている。
「不義理は承知です。ですが、俺も古くからの仲間をこれ以上追い詰めたくない」
「それも……そうですね」金色の髪の少女は微笑んだ。「彼女は良いお友達を持っていますね」
「いいや、あいつに友達はいませんよ。俺だって友達じゃあないんです。リーンズィが第一号になれるかどうかってところで。まったく、気位ばかり高いやつで……今日のことは止められなかった俺にも非があります、ここはコーヒーで手打ちにして頂ければ」
「いいえ、ご馳走になるなんてとんでもありません。私にしたってちょっとやり過ぎたかも知れませんし……私からも謝罪をさせて頂かないと釣り合いません。ユイシス、お会計をお願いできますか」
コーヒー入りの保温ポットを受取りながら、ミラーズは不慣れな手つきで空中を指で押し始めた。投影された映像に、ハンドジェスチャで操作命令を与えて、自分のアカウントからトークンを支払おうとしているのだろう。
「ええと、ここをこうして、こうして、決済よね。ありがとうユイシス、後はボタンを押すだけ……え? 何これ? 画面に変な字が出てきました。これは何なのですか、ユイシス? 使いすぎアラート機能? でもコーヒーを買っただけですよ? えっ、こんなに高価な物なのですか、コーヒーって?!」
「豆から挽いた本物のコーヒーですから……珈琲豆は、人類文化継承連帯がわざわざ指定して保護している品物です。普通は流通にも乗らない」マスターは息を吐いた。「失われていくものにこそ、この先の未来では必要ないものにこそ、最も高い価値がつけられる」
「ふうん……これをレア様は、毎日リーンズィに?」
「そいつは、それぐらいでしか格好を付けられないと思ってるんですよ。自分の好物で後輩を染めたいというのもあると思いますが」
ふむむ、とミラーズは愛らしい顔に影を浮かべた。
「ちょっとやりすぎたかも。彼女にはいずれ、もっと違う形でお礼をしないといけませんね……」
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